睡眠術士・マクラ
ひとつの挑戦としてのBL作品となっております。
自分としては「ゆるく」作っているつもりですが、作品としてBLを書いたのはこの作品が初めてなので、ジャンルの理解が浅いところもあるかと思いますが、どうぞよしなに。
睡眠術士の腕枕
半信半疑で電話をかけた。その〈半分〉が〈姉からの紹介〉という信用で成り立っていたから、見ず知らずの男に自分の住所を教えることもできた。
しかし、午後十一時にアパートを訪ねてきた男を見て、女の疑念が強まった。
「えっと……あなたが?」
「そうですそうですー」
チェーンをかけた扉の隙間から、軽薄そうな男のふにゃふにゃした笑顔が見えた。
電話の向こうから聞こえてきたのと同じ、低すぎず高すぎない、透明な声。
「はじめまして。睡眠術士のマクラと申します」
「はぁ……マクラさん、ですか」
「〈マクラ〉は芸名みたいなもんですけどねー。ちょっとお待ちを」
いぶかしむような女の視線に気付いたのか、〈マクラ〉と名乗った男は、ぶかぶかのパーカーのポケットから財布を取り出した。
「これが本名です。どうぞメモを取るなりして……」
「あ、いえ、ごめんなさい」
顔写真付きの身分証を見せてくる男に一言詫びてから、女はチェーンを外した。
「ど……どうぞ」
「はいー。お邪魔しまーす」
睡眠術士を自称した男・マクラは、のそのそと部屋に入ってきた。
中肉中背。少し日に焼けた顔。癖の強い栗色の髪。垂れた目は細く眠たげ。
ぶかぶかのパーカーに年季の入ったジーンズは清潔感があるとはいえないが、男の年齢を考えれば〈普通〉とも思えた。
「……高校生、なんですね」
マクラの見せた学生証は、ここからほど近い場所にある私立高校だった。
靴を脱ぎながら、敬語じゃなくていいですよー、と間延びした声で男は笑う。
「老けて見えます?」
「ぜんぜん」
「そりゃそうでしょー。ぴちぴちの15歳ですもの」
冗談をのたまいつつも、脱いだ靴を揃える辺りに、マクラの育ちの良さが垣間見えた。
深夜、初対面の男をパジャマ姿で迎えているというのに、女の緊張感が睡眠術士の柔らかな雰囲気に解されはじめていた。
居間まで案内されたマクラは、茶をいれようと台所に向かおうとした女を呼び止める。
「お茶ならここに。ああ、カップだけお願いしてもいいっすか?」
男は肩にかけたリュックサックから水筒を取り出して、女はいわれるままにふたつのティーカップをソーサーに乗せて持ってきた。
座卓を挟んで座布団の上に腰をおろしたふたり。
「あったかいほうじ茶です。なんかリラックス効果があるとかないとか」
そういってマクラは水筒の中身をカップに注いでいく。ふわふわした説明に、女の相槌も曖昧になった。
マクラが口を付けてから、女も湯気の立つカップを取った。
安心する温かさが口の中に広がった。
さてさて、と、カップをソーサーに置いた睡眠術士が切り出した。
「最近眠れなくて困ってる……と、お姉さんから聞きましたけど……?」
女は頷いた。
「一週間くらい前まで入院してて……それからなんだか寝つきが悪くなってしまって……もうそろそろ職場にも戻らないといけないのに……」
ぽつぽつと語る途中、何度かマクラの様子を伺った。
男の垂れた目が細いせいもある。頭の揺れる動きが相槌か居眠りか判然としない。
しかし、相手が聞いているかどうかわからない、独り言のようなものだったので、女はかえって気楽に話すことができた。
「不眠について病院に相談することも考えたんだけど……退院してすぐだし、しばらくは、病院には頼りたくなくて……そこで、わたしの姉から〈睡眠術士〉の話を聞いて……」
「ええ、ええ、お姉さんのお宅には何度もお邪魔してます」
どうやら起きていた睡眠術士がゆっくりと頷いた。
「双子ちゃんの育児……俺には想像も難しいっすけど、大変そうで。だからご要望があったときは喜んで〈お手伝い〉に伺って……」
「あの」
女が睡眠術士を見つめる視線には、すっかり信頼が宿っていた。
「本当に、できるの?」
「できます……と、かっこよく決めたいところですけどねぇ」
マクラはふにゃふにゃと笑う。
「たまーにうまくいかないときもあります」
「やっぱり、赤ちゃん相手のほうが簡単?」
「……まぁ、ここで話しててもアレなんで、試してみましょうよ」
そういってマクラは立ち上がった。
「この睡眠術士が、気持ちいい眠りを与えてみせます」
「それじゃ、ベッドに横になってください。……はい。じゃあ、明かりを消しますね。……俺はここにいます。ここにいますから。……目を閉じてください。無理に眠ろうとはせずに。……全身の力を抜いて、深呼吸をしましょう。……ゆっくり、息を吐いてください。ゆっくり、ゆっくり……すっかり息が出たら、今度は吸いましょう。……ゆっくり、ゆっくり……繰り返します。ゆっくり息を吐いて……体の力が抜けていきます……ゆっくり息を吸って……布団の中に体が溶けていきます……服と体の境目がわからなくなります……俺の声以外は何も聞こえません……静かな夜です……俺はここにいます……何も怖くありません……今日は晴れていましたね。昼寝にはもってこいの日でした。……俺も学校の教室でうとうとしました。……退屈な授業……黒板を叩くチョークの音……窓の外の鳥……桜は散ってしまいましたね……瑞々しい新芽が風に揺れていました……暖かな日差しに包まれると、俺は耐えられません……波に呑まれるように、眠りの海底へ引きずり込まれていきます……今の隣の席には、居眠りをする俺を起こしてくれる友達がいます……無愛想で、真面目で、ついついからかいたくなるような男の子です……俺は彼と仲良くなりたくて……」
……マクラが喋っているうちに、女は寝息を立てはじめていた。
男はそろりと立ち上がると、部屋を出て行き扉を閉め、鍵をかけた。
そうして静かに、扉の郵便受けに、その部屋の鍵を差し入れた。
いつの間に眠ってしまったのか。
不眠続きの毎日が嘘だったかのように、女は心地良い朝を迎えた。
起き上がり、居間を覗いてみたが、睡眠術士はいなかった。もちろん台所にも。
居間の座卓の上に、一枚のメモ用紙が置かれていた。
「……『お困りの際は、いつでも呼んでください』……」
その文章の下には、男の本名と携帯電話の番号が記されていた。
睡眠術士・マクラ。
その名前は……