海地蔵の行き先は
「海地蔵ぉ?」
風鈴の音と蝉の音が重なる暑い季節、夏。
涼しそうに頭を丸めている吉田が、怪しげな記事を持って話しかけてきた。
「そうなんだよ! これ、見てみろって!」
「どれ。……こんなもんフィクションじゃねえか。これが一体どうしたって言うんだ?」
吉田の渡してきた記事を放り投げ、窓の外で青く輝く海を眺める。
本州最南端、和歌山県。吉田の唐突の提案により、俺達は串本という町の宿に泊まりに来ていた。
綺麗な砂浜と海が名所の中々いい場所だ。うちわで扇げば何とかなる程度の暑さだし、かなり快適である。
「いやいや竹内、これがフィクションじゃないんだって! 『海地蔵の前に飛び出した者は首を折られて死んでしまう』……。この串本にも、首を折られていた変死体がいくつも見つかってるんだよ」
おい、待て。
「吉田。まさかとは思うが、その意味のわからない物のために俺をこの宿に連れてきたのか?」
「当たり前だぜ、竹内!」
吉田の頭にゴチィンと拳骨を叩き込む。頭を痛そうに押さえながら畳の上を転がり、更にその畳のささくれが腕に刺さって痛がっている。アホだ。
地面に散らばった記事を拾い上げ、もう一度しっかりと目を通す。
海地蔵。
その昔、とある村でたくさんの子供が生まれた年が数年続いたそうだ。最初は喜んでいた村人たちはその祝いに子供たちの安全を祈願して、地蔵様を供えた。
しかし、そのまた数年後、村に飢饉が襲いたくさんの大人が死に、そのせいでその翌年も働き手が少ないために飢饉となってしまった。困り果てた村長は海の神様に食べ物を恵んでもらうという目的で、子供たちを次々に縄で縛って、生贄として海に投げ捨てた。そのときに祈願の地蔵も海に捨てられ、子供たちの恨みが地蔵に溜まりに溜まっていった。
……見れば見るほど創作物にしか思えない。
風鈴の音はいつしか止み、蝉の声だけが部屋の中に響く。外はいつの間にか夕日が地平線の向こうに沈みかかっていて、暗くなり始めていた。
溜息をつきながら窓を閉め、うちわを机の上に置く。
吉田はいつの間にか起き上がってゲームをしていた。音から察するに、ボスギャラガか? また古いゲームを……。
「ほれ、吉田。行くぞ」
「ん、行ってくれるのか?」
「こんな物はいないって証明にな。さっさと行くぞ」
ロッカーの中に備え付けで入っていた釣竿を二本取り出し、吉田の襟をズルズルと引っ張る。
吉田と俺の肌に虫除けスプレーをふりかけ、部屋の扉を開けた。
―――――
炭酸が抜けきったコーラを口の中に流し込み、人差し指でクイクイと釣竿を引っ張る。なんの感触もないことから、魚が全く食いついていないことがわかる。
針を海の中からあげると、ピンク色の餌だけが綺麗に食べ取られていた。魚も案外器用なことをするものだ。
「まったく、例の海坊主も現れないし、どうなってるんだ吉……何やってるんだ?」
反対側で釣りをしていた吉田の方を振り向くと、何故かパンツ一丁になって準備運動をしていた。明らかに手作り感のある木製のもりを右手で持ち、こっちを振り向いてキラリと歯を見せた。
「ちょっくら海に潜って取ってくるわ!」
「おお、そうか。頑張ってなー」
ザッバァーン! という音と共に、海水の水しぶきがあがる。コーラにかからないようにだけ位置を修正し、釣り針を再度垂らす。
しかし、本当に何も釣れない。俺の技術以前の問題な気がするな、これは……。竿が悪いのか?
『ソレや、ヨイセ、ドッコラセ……』
「んあ? 吉田、気味の悪い歌を歌ってんじゃないぞ」
どこからか、小さな子ども達が合唱でもしているような歌声が響いてきた。吉田は木製のもりをすぐに作るような器用な奴だ。七色の歌声を出せても不思議じゃない。
釣竿を地面に置き、反対側で潜っている吉田の方へ歩く。そこには、もりの先で数匹の小魚を貫いた吉田がジャブジャブと水をかきながら騒いでいた。
「吉田、めっちゃ魚取れてるじゃんか。俺にも少し――」
「竹内、俺どうかしちゃってるんだ! 腹が減って腹が減って、さっきから妙な歌声がずっと頭の中で響いて―― ああああぁあぁあああ!」
頭を抑えながら叫んだ後、吉田が小魚にかぶりついた。もりの先で貫いていた、まだ生きている魚を、である。魚の血が海に飛び散り、吉田の周りを赤く染め始める。
「吉田! 落ち着け、今すぐに――」
『ソレや、ヨイセ、ドッコラセ、ヤレツケ、ホシツケ!銛をツケ!魚をトレヤ、小魚トレヤ、コが口開けマッテイル……』
今度はハッキリと聞こえた。
ゆっくりと視線を横に向ける。
月明かりの中。ニタニタと口を引き裂いたような大きさで笑っているにも関わらず、目の中のうつろな光が俺の顔を見つめて離さない。地蔵の姿をしているのに地蔵ではない、この世のモノとは思えない何かの感情を全身から噴き出している。
「んなっ……!」
ゆっくりと後ずさり、地蔵から距離を取る。こいつが例の海地蔵、直感で理解した。
堤防の脇に常備されている浮き輪を取り、吉田に向かって放り投げる。いくら腹が減って頭がおかしくなっていても、浮き輪に捕まるぐらいはできるだろう。
『魚をトレヤ、小魚トレヤ、コが口開けマッテイル……』
歯の隙間を少しだけ開け、不思議な歌声で歌う海地蔵。
思い出せ。化け物って言ったって、何か対処法があるはずなんだ。落ち着いて考えれば何か……。
そんな思考の隙も与えないように、海地蔵がゆっくりとこちらに近づいてくる。そもそもこいつは何がしたいんだ? 俺を殺したいなら、とっくの前に殺して……!
「……まさか、そうか!」
上着を破り捨て、海の中に飛び込む。
海の中に入った瞬間、今までの人生で体験したこともないような飢餓感に襲われた。やはり、こいつはこれがしたかったのか!
吉田が握っていたもりを奪い取り、海の中で適当に魚を突きまくる。海地蔵の力なのか、面白いほどにもりの先に小魚が刺さった。
グギュルルル、と自己主張をしてくる腹を無理やり押さえ、もりの先に刺さっている生の小魚にかぶりつくのを必死に我慢する。あいつは、海地蔵はもっと辛かったはずだ。
堤防の端にあるはしごで、海から上がる。
濡れている下着の水分をできるだけ搾り取り、小魚が刺さったもりを持って歩く。
これが間違っていたら、俺は首を折られて殺されるか、餓死するだろう。
海地蔵は飛び込んできた奴を殺したんじゃない。きっと、逃げようとした奴を抱きしめたんだ。何か食べ物を頂戴、って感じに。
「……生で悪いな。ほれ、食べ物だ」
海地蔵に向かって優しく歩き、目の前で膝をつく。もりの先から小魚を数本抜き取り、海地蔵の前にそっと置いた。
歯の隙間から響いていた奇妙な歌声はいつしか止み、海のさざなみだけが暗い夜の世界に響いた。
『それや、よいせ、どっこらせ、やれつけ、ほしつけ!銛をつけ!魚をとれや、小魚とれや、家族がみんなで待っている……』
綺麗な歌声でそう歌った後、海地蔵は魚を口に放り込んだ。
俺が一度瞬きをした瞬間、海地蔵の姿は消えていた。成仏したのか、はたまた海の中に行ったのかはわからない。ただ、あいつもきっと腹が空いていただけなんだ。
感じていた強烈な飢餓感は、いつの間にか満腹感に代わっていた。海地蔵は、満たされたんだろうか。
「た、竹内~……助けてくれぇ~!」
「あ。忘れてた」
吉田がくっついた浮き輪を、必死に引っ張った。
夜が明ける頃には、なんとか引き上げることができていた。
―――――
「いてぇ、いてぇぇえええ!」
吉田が病院のベッドで腹を抑えながら、バタバタと暴れている。
小魚を生で食ったせいで、変な寄生虫が腹に入ったそうだ。命に別状はなく、一週間酷い腹痛に悩まされるだけとのこと。
「ほうら。お前の大好きな魚形に切ってやったぞ」
りんごを魚の形に見立てて切り、机の上の皿に載せる。
中々いい感じにできたな。
「ぎ、ぎぇえええ! もう海なんて二度と行くかぁぁあああ!」
吉田が病院中に響くほど、大きな声でそう叫んだ。
魚のりんごと共に、ニヤニヤと笑みを浮かべるりんごの地蔵が嬉しそうに並んでいた理由は、竹内にもわからない。
江戸 銀 様の江戸都市伝説新書・海地蔵の設定をお借りしました。
もし、江戸 銀 様が見ていらっしゃるのならば、この場を借りて謝罪します。見直してみたら、滅茶苦茶設定を無視していました。誠に申し訳ございませんでした。