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冬の夜道はさすがにコートだけでは首元がスウスウする。一旦家に戻り、カバンを置いて、マフラーを巻き、ある場所に向かった。その場所は今住んでいるところから遠くはない。何度も前を通ったことがあったが、まだ中に入ったことがない。周りの建物とは一味違って、どことなくヨーロッパ風に見えた。
そこは教会の礼拝堂、一週間前にそこを通った時、クリスマスイヴの日に行うミサの知らせを見た。信者でもない俺はなぜか行ってみたく思えた。神という存在を確かめたいわけでもなく、信じてみようと思うのでもない。ただその場が生み出す人の心を和ませると言われる教会の雰囲気を感じたかった。
教会を向かう途中で腹が鳴って、コンビニに寄って軽食を取ってから行こうとしたが、自転車を貸したせいで、寄ったらミサの開始時間に間に合わなくなりそうだから、コンビニを素通って、その先にある教会に急ぐ。
しばらくすると、前から小さいが、暖かいロウソクの光に囲まれた教会が見えた。家から近いと言っても、イヴともなると、夜道を歩くのはきつい。一瞬でも早く暖かい光を漏らす教会の中に入ろうと頭は思うが、体は立ち止ってしまった。教会の前に見慣れた自転車が止めてあった。間違いなくその自転車は今から30分前に譲った俺の自転車だ。それが何を指し示すのかをも瞬時に理解できた。教会の中には彼女がいることを。
扉を押し開け、中から漏れ出す暖かい光とともに、オルガンが奏でるやさしいメロディーもが溢れ出してくる。中に入り、席はほぼ満席状態で、空いているのは最終列の通路側だけだった。コートを脱ぎ、教会関係者が用意してあったハンガーにかけ、席に着く。決して明るくはないが、暖かみを思わせるような炎を灯すロウソクが四方を照らす。最初に入った時は厳粛に思えたが、人を重苦しくさせ、拘束しようとするものはまったく感じない。自分を飾ることも、偽ることも、今いるこの空間では意味を為さないことを感じ取れた。そういう雰囲気はオルガンが奏でる穏やかなメロディーによって、一層強く引き立てられる。オルガンの方に目がいった瞬間、思わず席を立ち上がってしまった。今、オルガンを奏でるその奏者の後ろ姿は確かあの時、自転車で走り去ったあの子だ。声をかけようかと迷ってたら、ミサの始まりを告げられ、腰を下ろす。神父さんの格好をした人が台に上がると、彼女は演奏をやめ、こってに向くよう座りなおす。
初めて彼女の顔を明りのあるところで見れた。キレイとか、かわいいとかというより、清楚な顔立ちで、髪はセミロングで、聖歌隊と同じ服をまとっている。あの時の慌て様と今の落ち着き振りとのギャップの激しさで、つい見つめてしまった。こっちの目線に気づいたのか、次の瞬間、彼女と目が合ってしまう。だんだんと口が開いて、今にも「あー、キミは」と言い出しそうに見える。まさかこの長い椅子の列に紛れて、気づかれると思わなかったから、知らない振りをするが、今度は彼女に見つめられる番だった。無意識的に目を逸らす。それでも見られてるのを、気のせいだと俺は断言する。
長々と続く神父の開始の言葉が終わり、ミサ曲が始まった。再びオルガンがメロディーを奏で出したことで、目が合う心配はなくなった。今日は今年度の最後の授業日なので、朝から授業で、試験範囲が終わらないから午後は生化学の補講をプレゼントされ、おまけに研究室からは歩いて帰ったから、今座っているこの長椅子が一番いリラックスができて、疲れが一気に体から噴き出すのを感じた。大きく長椅子に背中を持たせて、ミサ曲の音色に誘われ、意識がぼんやりとなっていく。
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体が揺れている。いや、揺さぶられている。目を開け、まだ聖歌隊の服のままでいる彼女の姿があった。
「ミサが終わりましたよ。」
そう言われて、周りを見渡す。ロウソクは一段と短くなり、参加者ももうほとんど退場した。俺はどのくらい寝ていたのだろうと、腕時計を確かめる。
「もう10時か、ミサは何時に終わった?」
「9時半だよ。あまりにも気持ちよさそうに眠っていたから、会場の片付けが終わってから起こそうと思った。」
「そうか、ありがとう。って、やっぱり君はあの時の。」
「あれ?キミは私のあとをつけて来たじゃないの?」
「誰がそんなことをするか。たまたま一週間前に今日のミサを知り、来てみたら、教会の外に君に貸した自転車があって、もしかしたらと思っただけ。
「なんだあ、そういうことか。」
「そういうこと」と俺は釘をさす。
「自転車はもういいから、返します。ありがとう。」
「俺に返したら、どうやって帰るんだ、駅まで送るよ。」
「いや、電車の定期も財布も、家のカギもを学校のロッカーに忘れてきたから。今日は帰れない。」
「ふーん、そうか。って、待てよ。ということはお前、自転車のカギも無くしたじゃなくて、ただ忘れてきただけとか。」と思わず彼女をお前と呼び、聞き返す。
「あー、そか。自分で言っちゃったね。うそついてごめんね。けど、あの時取りに戻ったら演奏に間に合わなくなるから。」
「で、俺が来たから、もしかしたらって思ったのか?」
「そういうことお。」
彼女の返事を聞き、俺は今日の三度目に大きく息を吐くが、今度は白くならない。
「で、これからどうするんだ。帰れないだろう。」
「じゃあ、泊めて。」
と、俺は彼女の返事に驚き、動揺する。
「おい、何を考えてんだよ。俺らは今日始めて会って、名前も知らない人を泊めるか。」
「じゃあ、私、水野ミズキ、泊めて。」
「だめだあ。名前を言ったからって、知り合ってから4時間足らずの人を泊めれるか」
「えーー。じゃあ、今日私は野宿かあ?」
「とにかくだ。俺んちはだめだ。
って、ホントに野宿するのか?この冬の夜に。」
「しないよお。ここ、毎年のイヴとクリスマスの日は閉まんないから、今日はここで過ごす。こう見ても、この服暖かいんだよ。」
そういえば、」彼女が今まとっている服は服よいうよりは、前後にマントを着てるようなものだ。とその時、彼女から腹の鳴り声がした。
「ほら、コンビニで何かおごってやるから・・・」
今度は俺の腹が鳴り出す。
「なんだ。キミも腹ペコじゃん。」
「ほら、いくぞ。」
「あ、待って。さすがにこの服のままコンビニに行くのが恥ずかしいから、着替えてくる。待ってて。」
とまたしも、彼女が礼拝堂の奥に消える後姿を見送る俺がいた。
コート着て、出口で彼女を待ってたら、さほど時間が経たないうちに彼女が来た・
「じゃあ行こ。」
「ああ。」
引き開けた扉から出ると、背筋がキンとくるくらい、今の外は寒い。
「そうだ。私は名乗ったが、キミの名前をまだ知らないんだよね。キミ何というの?」
「由井ユイ」
「へえ、名前と苗字がダブってるぅ。」
「そう言うお前だってダブってるじゃないか?」
「そうだね。じゃあよろしく、ユイくん。」
「ユイだ。アクセントは後ろだ。」
「えー。アクセントが前の方が女の子っぽくていいじゃん。」
「もういい。好きにしてくれ。」
この寒い中で口を開けて喋るたびに冷たい空気を吸い込んでる。授業で呼吸器系をやった時、鼻で吸い込んだ空気は鼻孔内で加温、加湿され、肺胞に届く時にはもう空気の温度は体温近くまでになり、湿度もほぼ100%になるが、口で吸い込んだ空気はその作業を受けないことを思い出した。
教会から歩いて5分もないところでコンビニに俺らはついた。
「好きなやつ取ってていいぞ。」
「じゃあ私、チョコアイスと肉まん。」
「お前、肉まんは分かるが、こんな寒い中でチョコアイスを食うのか。腹を壊しても知らないぞ。」
「いいのいいの。チョコアイスは教会に戻ってから食べるから。しかも、アイスは冬だからこそ、美味しいんだよ。」
「へえ。そういうもんか。
じゃあ、俺はいつものこれ。」と飲みなれたカフェラテと中華まんを取り、レジを済ませ、水野とコンビニを出た。
教会に戻って、礼拝堂の中を照らすロウソクはもう消え、関係者ももう水野一人を残して、みんな帰った様だ。
「明りのスイッチどこ?」
「あ、待って、ユイくん。今ロウソク探すから。」
「いいよ、電気の方が明るいって。」
「いやいや。ロウソクの方が暖かいんだよ。」と水野は奥から長いロウソクを何本か持ってきた。
「じゃあ、もうだいじょうぶそうだから、俺は帰るよ。」
「ええ。女の子一人を残して帰るの?」
「だって俺がいても変わらないだろう。」
「話し相手になるっ。」
どうも、今日は帰れそうにないことを悟る。
「明日学校に入れる時までだぞ。」
「うん。」
いつの間にか、水野はまた聖歌隊の服に戻っていて、最前列の長椅子の前にロウソクを灯して、座っていた。
俺はコートを脱ぎ、礼拝堂のトイレから戻った時には、もう水野は寝ていて、椅子のそばには食べかけの肉まんとまだ開けてもいないチョコアイスが置いてあった。授業が終わったあと即ここに来て、夜の10時までミサの手伝いをしてたから、疲れて寝入るのも無理ない。脱いだコートを彼女にかけ、俺は彼女の隣に腰をかけ、礼拝堂の窓から静まり返った町を見ていて、いつの間にか、俺の意識は再びぼんやりになっていく。
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目を覚ましたのは朝の7時だった。隣に寝ていたはずの水野はもうそこにいなく、食べかけの肉まんも、とっくに溶けたはずのアイスもそこにはない。彼女にかけたはずのコートも俺にかけられた。ポケットに光るケータイを出し、知らないメールアドレスからメールが一通入っていた。
ユイくんへ
昨日はありがとう。肉まんとチョコアイス、ご馳走さま。今朝起きた時、ユイくんがまだ寝ていたので、起こさないでいこうと思って、かけてくれたコートのポケットからケータイを出して、勝手にメアドをもらい、送ってごめんなさい。学校行って帰って寝ます。自転車のカギはケータイと一緒にポケットに入れておきました。
ケータイの中には友人と家族のメアドのほかには何も入ってないし、メールもヒロからのくだらないものばっか、見られてもごまらない。
ケータイを仕舞い、教会から出る。朝になっても、昨晩の寒さは引かない。今年のクリスマスの半分は寝て過ごすことに決め、自転車に乗り、帰っていた。