追記
是枝裕和はブログで次のように書いていました。
「「大きな物語」に回収されていく状況の中で映画監督ができるのは、その「大きな物語」(右であれ左であれ)に対峙し、その物語を相対化する多様な「小さな物語」を発信し続けることであり、それが結果的にその国の文化を豊かにするのだ」
僕はこの見解は立派なものだと思います。ただ、違う見解を取ります。
以前に「フィクション化する現実について」という文章で現実そのものがフィクションとなっているのではないかという話をしました。僕は是枝監督のように大きな物語に対して、小さな物語を素直に対置できるとは思いません。小さな物語そのものが不可能である、何故なら、(是枝監督の言葉を使えば)、小さな物語の隅々にまで大きな物語が浸透している為に、小さな物語を紡いでいるつもりでも何か違うものとなっているという事です。
これは比喩的に言えば、例えば、誰かとデートしているという「小さな物語」においても、彼女がその様をスマートフォンで取ってネットに上げている…そういう状況として象徴的に考えられるかと思います。この状況では、個々の小さな物語は、いつの間にか、「人々」の大きな価値観に従属するものとなっている。人は自分を生きているようで、自分を生きられない。その問題は僕には、「万引き家族」で解かれているとは思えませんでした。
もっとも、この事は、是枝監督に対して言う事ではない気もします。是枝監督は自分の課題を認識し、それを描き出す為に少しずつ監督としての力量を上げていったのでしょうから、文句を言う筋ではないのでしょう。これに関しては自分自身への課題という事で置いておきたいと思います。