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「万引き家族」では、作品の最初で少年が万引きをする所から始まるわけですが、「万引き」は犯罪であって、我々が安穏とした場所にいる限り、市民としてそれを糾弾する事は可能に思われます。しかし、もし自分が同じような貧困の家庭に生まれて、両親に虐待されていたとか、父は飲んだくれで母はかまってくれたことがないとか、そういう事情であれば、「万引き」も悪い事とはおそらく感じられないでしょう。
犯罪を間違っているというのは簡単なわけですが、その場合、もはや犯罪をして捕まっても「失うものがない」立場への想像力が欠けていると感じます。もちろん、だからといって万引きや犯罪をしてはならないというのは事実です。そこに、人間の辛い事情があります。そこで、本来的には葛藤が起こっていいはずですが、犯罪を自らに平気で許す犯罪者と、自分の立場や相手の立場を考えず正義を振りかざす人は、自分自身の運命に思いを凝らさないという点ではよく似ていると自分などは思っています。
さて、「万引き家族」という作品ではどうでしょうか。ここでは、自分の運命に逆らう人物はいません。少なくとも、僕の目には見えませんでした。リリー・フランキーが万引きから、車上荒らしに一線を越える場面があります。ここで、追随する少年は疑問を呈するのですが、リリー・フランキーは平気で犯罪をやります。後から、リリー・フランキーはよりひどい犯罪に手を染めていた事がはっきりするのですが、彼は気弱で、人のいい人物であるにも関わらず、反省というものがない。また、出てくる登場人物は非情な現実に押しつぶされるのであって、その現実と、自分自身の運命に対して闘うという事はありません。
これは極めて微妙な問題なので、そう簡単には言えない事ですが、僕は、自分の運命と闘う人間が「非凡」であると思います。僕は「非凡」な人間の物語が見たいと思っています。そして非凡とは世に優れて傑出しているのではなくて、己というのが他から与えられたものとしてある時、それと敢然と闘うものであって、彼が貧しいか富んでいるかは関係ありません。裕福な人間は自分の運命と闘う為にあえて貧しくなり、貧しい者は己の力を試す為に裕福になるのを目指すかもしれない。裕福か貧乏かは単なる運命に過ぎず、己の意志と現実を戦わせる。意志は、現実に敗北するでしょうが、それでも闘う。
これは、非常に微妙な問題です。今は単純化しましたが、そもそも運命に闘う権利も、運命が与えてくれなければ闘う事自体が不可能というのも考えられます。北朝鮮の貧困家庭に生まれた人に、「何故一致団結を起こして革命を起こさないのか?」なんて言うのは極めて無責任という事になると思います。これは、重大かつ難しい問題なので、ここで追求するのはここまでとします。
「万引き家族」に戻ると、この家族で、自分の運命と闘う人物はいないと思います。そこで、彼らはある種の充足を達成しているのであって、そこに彼らの美しさも醜さも滲んでいます。ここにあるのは散文的な、真実の暴露というより、美しい詩的形象であると思われます。
堀辰雄「風立ちぬ」の感想でも書きましたが、あの作品において詩的美しさを達成するのは、病人の女が、自分の病に対して怒り、暴れたりしないからだと思います。「リア王」のリアのように自然を呪ったりはしない。世界と闘う事を始めると、美は壊れます。饒舌が現れ、醜い人間性が暴かれ、それでもその人間はいつまでも語り続けます。
「万引き家族」のキャラクターが、象徴的な事を言う場面があって、安藤サクラが取り調べの時に言う台詞です。それは、今の世の中に対する皮肉とか批判を感じさせますが、それをもっと徹底して言わせても僕は良かったと思います。つまり僕はーー詩的美しさを壊してでも、もっと醜く泥臭く闘う姿を見たいという思う人間という事です。これは次に書きます。