04
「セストさん!」
「フィオーレ?こんな時間にどうしてここに」
「眠れなくて。」
乗って行く?と船着き場にゴンドラを寄せて船頭のセストが笑う。いつもと変わらない笑顔にフィオーレも笑んで、そっと彼の赤い船に乗り込んだ。最後にあってから二十程夜は迎えただろうか。フィオーレを覚えてくれている、はじめましてを繰り返さなくても良いセストとの会話はほっとする。
「……今日は、ため息橋の話でもしようか。」
フィオーレ、好きだったよね?と軽くウィンクで問われてひとつ頷けば、フィオーレ以上に嬉しそうな声でセストが歌を紡ぎ始めた。
ため息橋よ、愛おしき者喪いし哀れな白亜の橋よ、かの者との思い出を語れ、語れ、語り詠え。
「その昔、百年期が始まるより前に、その姫君は水の都に生を受け育まれた。彼女にはふたりの騎士がいつも傍にいて、なにより海を愛した姫の守護を仰せつかっていた。朱色と碧の騎士達は、己が命を姫に預け、姫を愛し、姫を守らん。幸せな日々は水路を巡る。毎朝人魚が歌で日を迎え、鯨が夜を守る日々。鮮やかな花々は水路を巡り、姫君の守りで水の都は永らえた。」
一度言葉を切って瞼を伏せて、セストがオールを手の中で遊ばせる。ため息橋、真っ白なその架け橋は、一度訪れたフィオーレとグイドをあっさり門前払いにするほどの魔力を宿していた。近づかぬが花であろうとふたりを笑った水の都の現領主の声を思い出す事は、フィオーレにとって難しくもない事。
地区と地区、区画と区画を結ぶ架け橋が水路に映り込んで仄かに揺れる。土台もつくりもしっかりしたものであるはずのそれが、水面に反射するだけでなんとも頼りなく見えるのだ。まるで鏡に映したときにみる自分自身の様だな、とフィオーレは思った。いつも鏡を覗けば己の瞳は揺れていて、まるで自分じゃ無い様に見える。夜中なんて特にそうだ。水面の様に物理的に揺れている訳ではないのに、鏡も全く同じ影響力を持つ。橋や建物の装飾ひとつひとつを余す事なく、まして美化する事もなく水面が映し込む。色味だけ抑えられたその姿は水の都のもうひとつの姿と言っても過言ではないだろう。
「あるとき花の大公が、水の姫に目を付ける。一目見初めた大公は、姫を華々しき己の都へ迎え入れんと申し入れた。騎士のひとりはその言葉に剣を抜き、もうひとりは呪を向ける。そんなふたりを遮ったのは、海を愛する姫君そのひとだ。『海より愛する者は無し』、姫君は大公をいなす。その心意気見せてみよとの大公に、姫はその身を投げ打った。ため息橋よため息橋、最後に愛する水の都を目にせんと、己で架けた白亜の架け橋より姫は海へと舞い降りる。愛する姫を喪って、海も都も嘆きに沈む。ふたりの騎士の抜け殻は、長く都に眠りにつかん。長く永く、水底の姫を守り眠らん。」
ゴンドラの穂先に立った船頭は、ぴしりと背筋を伸ばしたまま歌う。朗々と、高めのテノールが低い音域を操る様についつい聞き惚れる。彼が歌う唄は切なくて、後悔や疑問に溢れていて、だからこそ深く深く胸を衝くのだ。まるで自分に起こった出来事かの様に、彼の赤褐色の瞳が水面よろしく揺れる。漣立つ水面をゆったり漕ぎながら、唄のテンポに合わせながら、水面に映り込む姿さえ見たくないと言いたげな視線は何を映しているのだろう。
銀鼠色を流し込まれた水面は、それでいて沢山の色を映し込んでいる。街を彩る煉瓦の色に、空を流し込んだ青、太陽が彩る煌めき、影の灰色、そして船頭が操るゴンドラの赤。船頭を象徴する様な朱色は、海から連想される青とは対極の色であるのにしっくりくるから不思議だ。
ゆらり、ぐにゃり、確かにまっすぐ建つ建物たちが船頭が掻く動きに合わせて歪んでいく。彼の動きと彼の唄に呼応する様に悲しく揺れる、海の都の数千年数百年を見てきた建物たち。毎日毎日厭きる事無く、船頭の想いに併せて揺れる。移り込んだ色とりどりの花々は、まるで彼が喪ったひとへ捧げる献花。ともすれば浮かんでいるはなびらは、海の都からの、彼への賛辞だろうか。
きらりきらり、光を乱反射させながら、影を散らしながら、船頭はゴンドラを進める。ゴンドラの軌跡を惜しむ様に立つ波が本当に追いかけているのはなんなのか、フィオーレにはぼんやり分かる気がした。
掴めないその人は海の都の上をたゆたう。橋を潜り建物を見上げ波を掻き分けて歌う。ゴンドラに乗っている彼が水面に触れることはない。彼の手に寄って揺れる海も、揺らされるがまま掻き分けられるがまま。悲しい唄を甘受する。詩のひとことも聞き漏らしたくないフィオーレと同じ様に呼吸を顰めているのだろうか。波音は心地良く、テノールは甘く柔らかく響く。そのテノールに絡まるソプラノは一体何処から聞こえてくるのだろう。船頭には聞こえないソプラノはきっと海の声。彼の唄に呼応する様に、眠れ眠れと彼を誘う声。切ない唄を悼み、慈しむぼんやりした言葉達ははっきりフィオーレにも聞こえない。