03
「いつもみたいに、駅まできみを迎えに行こうと思ってたんだ。そしたら歌が聞こえたんだよ。前きみが言ってた歌かと思って声を追いかけてきたら、海に飛び込みそうなきみがいたってわけ」
抱き締めていた身体を一度離してグイドがまっすぐにフィオーレの瞳を見据える。グイドに先ほどの甘い歌が聞こえるのは初めてのこと。グイド自身も、驚いているようだ。
「セストさんね、いつもあの歌の中心にいるの」
「中心?」
「うん。海の歌はセストさんが歌う歌と絡む歌でね、とっても綺麗なんだけど、すごくすごく悲くて……」
「へえ……で、フィオーレ。今船頭の歌は?」
「聞こえない。だから、会いに行く。この前会えなかったから、今回は行かないと。」
「会いに行く度にきみの気配が消えるんだ。やめておくのが得策だろ。」
「でも、セストさん以上に伝承に詳しいひとなんていないし、」
「あ、いたー! あなたね!」
やいのやいのとグイドと論議している所に、わあっ、と元気な声が上がり、ぐいっとフィオーレの右腕が引かれた。一気に華やぐ視界いっぱいに咲き誇る美人の笑顔に、不安だったフィオーレもまた思い切り笑みを浮かべた。
得意げな笑顔の主は、ふわふわの海老茶色の髪の毛を高い位置でポニーテールにした色白美人。新緑を思わせる瞳は本日ちょっぴり高めの波と同じ様に煌めいている。黒のスラックスに、赤と白のボーダーシャツの制服は彼女の発育の良さを否応無く強調しているし、屈託の無い笑顔は老若男女問わず魅了するものだ。首周りのウッドビーズ がアンティークのロザリオだと今回はいつ教えてもらえるのだろう。知っている事と知らない事、そして、知らない事にしなければいけないこと。彼女の隣では、マリアを優しい瞳で見つめるもうひとり。少し背の高いそのひともまたゴンドラを操る海の民だ。
ささっと頭の中で知っていて大丈夫なことをリストにしてフィオーレが差し出された彼女の手を取る。
海の都での繰り返しは憂鬱だけれど、彼女達との出会いにはいつも心躍らされる。元気で、可愛くて、沢山の笑顔をくれる彼女が、フィオーレは大好きなのだ。
「うちの教会にステイする花の都の可愛い子って、あなた?」
「フィオーレです、よろしくお願いします」
「うんうん、名前までかっわいい! 私はマリア、こっちはロザーリオ。よろしくね」
早速見つけてお喋りしてるなんて、グイドも隅に置けないんだから!とマリアがグイドをからかいにかかる。いい加減厭きたとでも言いたげに気怠く彼女をあしらうグイドの姿も、フィオーレにとってはいつものことだ。いつものことなのに楽しくて、嫌になる位見てきた筈なのにわくわくさせてくれるから友人というのは偉大である。
「海の都はね、とっても素敵なところなの。私でよければどこへだって案内しちゃうんだから!」
「本当?」
「もっちろん、なんてったって私はゴンドリエーラ。狭い水路でもフィオーレが望むなら連れてっちゃうんだからね。」
「わあ素敵! ありがとう。」
誇らしげに胸を張るマリアを、ロザーリオが小突く。きらきら煌めくマリアの笑顔も柔らかいロザーリオの笑みも、再走を強くフィオーレに意識させる。マリアの船には何度となく乗せてもらっているけれど、毎回楽しい時間を過ごさせてもらえた。フィオーレの知る海の伝承は確かに殆どセストの知識だけれど、マリアのもつ伝説話も興味深く奥が深い。
「とにかく、海の都へようこそ! 仲良くしてくれると嬉しいな」
「もちろん!」
教会まで案内しようと思ってたのに、グイドに越されちゃうんだもんなあ、と頬を膨らますマリアを宥めることにまずは集中。今回も変わらず仲良くしてくれるかな、なんて不安は希有に終わりそうだ。
「今日は俺の船で良いかな、お嬢さん方?」
「……わざわざゴンドラで?」
胡乱な目を向けるラザロに、「かっこいいとこ見せさせろって、」とロザーリオがウィンクしてみせる。どうやら、今回は水路で教会に向かうらしい。いつもの教会と真隣の宿舎まで連れて行ってもらうには、水路は確かに近道だ。
「荷物もあるし、歩くより楽かもね。船着場まで急ぎましょ!」
「うん!」
手を引いてくれるマリアを追いかける形で、フィオーレは海の都の路地を進んでいく。いつもと同じで、違う。毎度十四日を超えると海の都は空気と出来事を少しずつ少しずつ変えてフィオーレを翻弄するのだ。
「ロザーリオがかっこつけられることは少なくないけど、水の上では格別だから。フイオーレも楽しんであげて。」
「マリアたちのこと、海の都のこと、色々教えてもらえると私も嬉しい。」
「当たり前じゃない! フィオーレも花の都の話、たくさん聞かせてね。」
これから一緒に過ごす時間は長いようで、短い。まずは腕を奮ってもらえるという夕食の話にフィオーレは二度三度頷いて見せた。列車で数時間の距離しか離れていないはずなのに、花の都と水の都は試食の趣向が所々で異なるのだ。塩と胡椒にオリーブ油のシンプルな味付けが多い水の都に対し、花の都は香辛料を多様する。食事に食用の花が飾られることも多く、見た目も華やかだ。水産物の新鮮さではどうしても勝負しきれないからこそ、保存のきく調理法が栄えたとも言えよう。
「フィオーレ、百年祭の屋台も期待できるぞ。」
「ロザーリオ、食べ歩きの常連なの。教会の屋台ほっといちゃうのよ?」
「ラザロがいるし、いいだろちょっとくらい。」
「そうやってすぐこっちに面倒ごとを……」
頭が痛いと嫌そうな声を出すラザロも、この時間は気に入っているのだろう。さっきよりずっと表情は柔らかだ。
「あと二週間だっけ?……楽しみだなあ。」
「一緒に回ろうね、フィオーレ。約束!」
百年祭に合わせて清掃が進んでいるらしい水路も、前回より少し水面が綺麗に感じられるのは気のせいだろうか。十五日後の百年祭を迎えたい気持ちを新たに、フィオーレは静かに一度瞼を下ろした。