02
「フィオーレ!」
ぐい、と引かれた腕と共に宙を浮きかけていたフィオーレの意識も戻された。一気に海の都の熱気に包まれて、先ほどまでの吹き荒ぶ冷たい海風が嘘みたいだ。寒かったはずの体が、一気に現実に追いついて運動後の熱さを訴える。立っていたはずの鳥肌は、フィオーレの腕を掴む手を中心に、元どおり戻ったようだ。
「グイド、やっぱり、ダメだったみたい……」
言葉にするだけで泣き出してしまいそうなフィオーレをグイドと呼ばれた青年があやす様に抱き締める。かたかた震えながらもぎゅうと抱きついて来る彼女の小さな背中を叩きながら、彼もまた悲しい表情をみせていた。
「ああ。なにか後、残っている可能性は……」
フィオーレを抜いて記憶のある三人のうちのひとり、グイド。何度も何度も繰り返す時間の中で、こうやって支えてくれるグイドの存在はフィオーレにとって心底ありがたいものになっていた。漸く一息つける感覚に、フィオーレは深く深く息を吸い込む。潮風が身体を洗ってくれる感覚に、さあまた始まると気合いを改めるのも既に何度目の事だろうか。
「やっぱり、なにかあるってことだよね。」
海の都がどうしてフィオーレに何度もやり直しを要求するのか、てんでわからないのはグイドもフィオーレも同じ事。毎回少し変わった形で起こる事件のひとつひとつを洗ってみても、聞き込みで聞けた話を並べてみても、ほとんどが都の伝説に起因するだけで直接的なことが分かった試しはない。
「うちの教会も、大聖堂も、奉納の教会も調べた。劇場の伝説も試したし、ため息橋も検証済み。外の島に出る船はずっと欠航が続いたまま……」
手詰まりだ、と苦虫を噛み潰した表情に変わるグイドに、フィオーレもまた悔しそうな表情を作る。
「やっぱり、伝承をひとつひとつなぞっていくのが一番なのかな」
「伝承っていっても、多すぎる。ここ、幽霊やら伝説やらで溢れかえってるだろ。」
フィオーレを抱き締めたままでグイドが不機嫌な声を出した。基本的に現実主義者な彼のこと、遙か昔の伝説なんてと思っているのも確かだ。魔法の話が出た時も、グイドは胡散臭そうな表情を隠そうとしなかった。
海の都の魔法を初めて目の当たりにしたのは、ここから少し遠いところにある橋に差し掛かるところだった。
ばちっ、とフィオーレを拒絶したその橋は、まだ入ることができないままだ。入れないまでも、話を聞いたり裏側を回ったり上から見下ろしたりすることで検証自体はできている。それでもフィオーレには不安要因のひとつに違いなかった。
考え込まずとも、毎回同じ伝承に帰り着くのは、少し違和感がある。もしかすればなにか突破の糸口が見つかるかもしれない、なんてそんな甘い事を考えてしまうのも仕方が無いだろう。そもそもグイドもフィオーレも弾かれてしまうのだから試しようがないのだけれど、希望は希望だ。
「実はね、さっき、呼ばれてたの。」
声が聞こえてここまで導かれたことをフィオーレが告げれば、グイドが驚いた表情を見せる。
「赤の船頭に?」
いつも出会うひとのひとり、『赤の船頭』こと、セスト。
一回目、出迎えの歓待を受けた夜、フィオーレは物珍しさにそっと外へ抜け出した。危険はそうそう無いと言ったマリアの言葉を信じたこともあるが、何よりフィオーレ自身が絵も言われない安心感に浸ることができていたのもある。観光客であれ一般人であれ夜の路地裏は危ないものだが、その日だけは、フィオーレも絶対に安全だと自信があった。もっとも、夜中の散歩なのだ。あとから聞き及んだグイドに散々怒られた話は閑話休題。
その夜に出会ったのが、セストだった。
初めまして、お嬢さん。と、かけられた柔らかい声に怯えることはなかった。出て来たフィオーレを追いかけて、グイドの先輩にあたるラザロの声がすぐに「フィオーレ、」と呼んでくれたこともある。フィオーレをラザロが気にかけてくれた結果、セストを紹介してもらい、一緒に船へ乗せてもらったのだ。ラザロの古い知り合いと言われては、信頼する以外考えようもない。夜の邂逅、お互い何をしているのかなど聞かないままで、オールは水路に波紋を描く。
何か話をしようか、と、船頭らしい様子を纏ったセストに、ラザロがねだったのは社交場の幽霊話だった。
「留められた魂の……、」と、鎮魂を思わせる優しい声音こそ、フィオーレが初めて聞いた船頭セストの語りだ。幼子に聞かせるようで、愛おしい誰かに語りかけるよう。懐かしさを唇に含ませたセストの声に虜にならないわけがない。未だ贖罪を求め館に止まる魂のことも身近に感じてしまった程に、フィオーレはセストの語りに惹きこまれた。
水路を浚う花の怪人も、開かずの間にこもった領主の甲冑も、行き場のない階段をつなぐ神の愛し子も、海へ降りることが許されない館の主人も、セストが語ればもうフィオーレには知り合いだ。実際に水路から物語の舞台を眺めているからだろう臨場感に、気持ちも思いももっていかれたのだろう。
以来、フィオーレは、セストに海の都の話をねだるようになった。
そのセストとフィオーレが『出会う』のはいつももう少し後の事だ。ループのはじまり、つまり二回目にサンタルチア駅に着いて走らされたときはいの一番に会ったけれど、それ以降彼の登場は数日眠ったあとと定まっている。とはいえ彼もまたフィオーレを覚えていてくれるから、『三日ぶりだね』、や、『どこにいってたの?』、『良い日だね』なんてループを感じさせない台詞での再会が常だ。グイドはセストと顔を合わせたことがないからか、フィオーレがセストの話をするといつも少しだけ不機嫌になる。
「ううん、まだ。でも、海の歌に呼ばれて、」
「ああ、そっちか。実は、僕もその声に連れて来られた。」
「……え?」
普段通りであれば、グイドに『声』は聞こえない。いつもと違う展開の予感に、フィオーレは目を見開いた。