01
進行方向に背中を向けた左側、時間の流れを溶かしてしまう様にゆっくり流れて行く車窓を、鮮やかな黄色が誇らしげな向日葵畑が彩る。小さな太陽がひしめくその広大な風景画は、この列車が花の都を出発して少し経ったあたりからずっと続いていた。あからさまに夏を示してくる風景を眺めていれば眺めている程に、かなり冷房の効いた電車内と外界気温の差を教えられる様だ。木製の座席に柔らかな生地を目張りされたふかふかの座り心地は、汗に弱いのだろう。
そんな中で、窓際に座って完全に眠り込んでいる少女フィオーレが知らないまま黄色一辺倒の風景が段々と歪んで行く。少し霞んだ重たい空気が爽やかな色を覆い、水色爽やかな空もまた悲しい色による侵食の憂き目にあっていた。たちまち抜ける様な青空は既に見る影もなく、たくさんの灰色が世界を支配する。淀んだ空気は肌寒さをもって車体を嬲り、そんな歪んだ世界の真ん中にあるものの歌声で、懇々と眠る少女は再び目を覚ましたのだった。詠え紡げ、甘やかな声に耳朶を撫でられたフィオーレがはっ、と瞼を上げる。
「……?」
今しがた夢の世界の存在に起こされたフィオーレの榛色の瞳に映るのは、暗い青のベルベットの座席。少し時代を感じる内装と身震いする体感温度に膝掛けにしていた薄いストールを巻き直す。つんと鼻をつく黴の匂いが、フィオーレに到着が近い事を示していた。
到着の合図もないままに、静かにごとんと動きを持って列車が止まる。この微かな稼働を合図に、フィオーレにとってはもう幾度目かも分からない海の都での日々が始まるのだった。始まりがいつだったかなんて思い出せない。けれど、いつも夜を十四回—つまり二週間、を過ごせば必ずこの列車の中に逆戻り。フィオーレとこれからまた出会うことになっているひとたちは、ただ三人を除いて、フィオーレが海の都にいたのだという記憶は出会った全ての人の中から消えてしまうのだ。そうしてもういちど、初めましてからやり直す日々をフィオーレは繰り返していた。出発地点であるはずの花の都に戻ることもできず、なにをすればいいのかも分からないままに過ごす二週間に気が狂いそうになったことは一度や二度ではない。
(フローラに愛されしラ プリンチペッサ。水の都に何を齎す?)
ふぅ、とフィオーレの耳元で海の都を覆う空気が鳴る。確かにひととしての言葉を持ってフィオーレを迎えた水気の風の意図は、歯痒い程に分からないのだ。
もう、これで、何度目だろう。
(橋を渡って直ぐに右、左へ右に出て。左へ曲がって一区画。まっすぐ橋まで!)
「やっぱり来た……!」
ついぼやいてしまうほどに、フィオーレはこの囁き声を知っていた。姿形は見えないのに、耳にはっきり入り込んでくる、風のような声だ。道案内よろしく左だ右だとフィオーレを案内する声は、それでいて『待つ』という概念をもたない。聞きもらせばそこでおしまい、入り組んだ海の都に案内なしで放り出されてしまう。
(橋を渡ってすぐ左。只管まっすぐ水路まで。水路に出たら左へ曲がる……)
囁くような、それでいて叫ぶような声。耳元で確かに鳴る声を逃さない様にと荷物を抱えたままのフィオーレが上がった息で走っていく。以前、渡る橋を間違えてこの微かな声に大笑いされたことがあった。大笑いの後に声は沈黙し、元来た道を戻ってなんとか大通りを見つけられた奇跡は記憶に新しい。『彼女』がフィオーレに出す指示はたまにかわるため、必然的にフィオーレも聞き逃すまいと必死になる。毎回同じならともかく、違うのだからフィオーレが待ってと弱音を吐きたくなってしまうのも仕方ないだろう。
例えば、フィオーレにとっての『一番初め』は駅から出て直ぐの階段でフィオーレを迎えにきてくれたひとたちとの合流があった。はじめてのループーーつまるところの二回目だーーは、街の反対側、一回めのフィオーレが拠点にしていた教会までたったひとりで只管走らされたのだ。あの時はあんまりのことに、教会先で迎えてくれた覚えてくれていたひとりとお腹を抱えて笑ってしまったほど。さて今回はどこにつれていかれるんだろうと思いを馳せながら、声に導かれるがままにフィオーレが煉瓦畳の道を走り抜ける。
(ひだり、みぎ……さあ、左へ!)
歌う様にからかう様に続いて行く歌に、フィオーレは心の中で頷きながら進んで行く。ゆらりと陽炎の様に視界が揺らぐ度に、視界を保とうと瞬きをしてやり過ごすのだ。
夢か現か過去か未来か、偶に歪む視界に眉を顰めて寒くなったり熱くなったりと気候はせわしない。確かな海の息吹を感じるこの街から、一体いつ逃れられるのだろうか。生まれ育った花の都にはない、気まぐれな重たい風がフィオーレをせかすように後押しした。
(右、左、小さな橋を駆け抜けて……)
いつかみたいに転んでしまわない様、でも同時に声を失わない様に。ぶわりと突発的な潮風がフィオーレの顔を、背を、応援よろしく叩いて吹き抜けて行く。忘れない為にフィオーレ自身「ひだり、」と口の中で呟いて、焦る足を前へ前へ進める。
(さあまっすぐ!)
そんな楽しそうな声に混ざって、フィオーレの耳にまた別の甘い声が紡ぎ出す微かな歌が届いた。
この声も、フィオーレは知っている。列車の中でフィオーレをいつも起こすその声は、いつもどこか寂しげな色を持って歌うのだ。
声が届くと同時に、一気に体感気温がぐっと下がり、鮮やかな海の都の色彩がほんのりぼやけていく。黄色味を帯びた白亜は大規模な洗浄を受けたが如く白く輝き、代わりに海が銀鼠を帯びた色へと変わった。金色の光が薄れ、煉瓦もほんのり灰を被った色彩だ。今までフィオーレが走っていた場所と道も位置も変わらないのに、上から塗り直したように視界の色だけ少し新しくなる。海の都には魔法が棲むと、ループの中で散々耳にした事実を実感する瞬間だ。(ガイドの声をようく聞いて、『彼』に声は聞こえない。)
甘い声の後ろでフィオーレに語りかけてくる声はふわふわしていてつかみ所がない。女性か男性かも分からないしっとりした声は、海面に反響して、煉瓦道にも反響して、その上フィオーレの頭の中でぐるぐる回る様。
ひびけ、……よ ……ねがいよ……よぶ……は……つむがん
ざん、と一度大きく波を切る音。まっすぐ、とフィオーレへ語りかける声が切実さを増す。歌声の方角に行きたい足を叱咤して、道を促す声の向こうにいるだろうただひとりをフィオーレが強く思い浮かべた。
からかう口調も少し意地悪な色を帯びた声も、フィオーレを確かに今いる海の都につなぎ止めてくれる大切な要素だ。この声を逃してはいけない、と、フィオーレの本能が警笛を鳴らす。導きの声が途切れた瞬間、目の前で大きく『何か』が揺れ、それを掴もうと伸ばしたフィオーレの手が空を切った。