さくらのころ
春は出会いと別れの季節だなどと、誰が上手いことを言ったのだろう。
大好きな歌にも、あった気がする。同じ数の出会いと別れ、でも割り切れなくて。
耳に残るそのフレーズを、そっと口ずさむ。
体育館につづく、長い廊下。前を歩くクラスメイトが、ずずっと鼻をすすった。
学校が少ないこの地域は、小学校と中学校の顔ぶれに大差がない。
私立の学校を受験しなかった子は、皆同じ中学に通う。
だから、九年だ。九年間、私たちは同じ学校、同じ学年の仲間として、毎日を過ごしていた。
けれど、私が彼女と親しくなったのは、中学生活も半分過ぎた頃、二年生の秋口だった。
もちろん名前は知っていたし、顔も知っていたし、何度か言葉を交わしたこともあったと思う。
ただ、同じクラスになったのは、小学校三年生のときに一度きり。
彼女曰く、その頃の私と彼女は、あまり仲が良くなかったのだそうだ。だから私は、幾年か昔の私たちのことを、都合良く忘れてしまっていた。
「今まで部活に出られなくて、ごめんなさい。これからよろしくお願いします」
中学二年生、夏休みのはじめだった。少し恥ずかしそうに微笑んで、黒板の前に立った彼女は、軽く頭を下げた。
活動日自由、活動内容自由、好きなときに美術室に集まり、好きな絵を描いて、好きなときに帰る。
人数だって、全学年合わせても十人に満たない。
そんな部活だったのに、わざわざ挨拶をした彼女。律儀な子なんだなぁと、ぼんやり思った。
それまで家庭の事情で部活に出られなかったらしい彼女は、以来頻繁に、部活へ顔を出した。
油絵を描くのが好きで、モチーフ台に花瓶や果物をあれこれ並べては、キャンバスに向かっていた。
私は水彩画の方が好きだったけれど、彼女が油のにおいをさせながら絵を描いているのを見ると、不思議と油絵も良いかもしれないと思えた。
人見知りをする性質の私とは違い、彼女は気さくな子で、部活仲間ともすぐに打ち解けてしまった。
聞けばクラスにも友達が多いらしく、絵を描くのが好きだからこの部活にしたけれど、ダンスも好きなのだと話していた。
週に一回は、幼い頃に通っていたダンス教室に、顔を出しているのだと。
もう現役じゃないけどね、と言った彼女は、それでもどこか楽しそうだった。
彼女は音楽を聴くのも好きで、色んな歌手の歌を知っていた。
片付けをしながら、彼女がこっそりうたう鼻歌に、私は秘密で耳を澄ませていた。
私はと言えば、絵を描くことだけが取り柄で、友達も多いとは言えない、運動は特に苦手だ。
おまけに音痴で、流行の歌もよくわからない。あまりに彼女と私は違ったけれど、私はなんとなく、彼女のことが好きだった。
誰かに話しかけられれば朗らかに笑い、独りの時は静かに絵を描いている。
じっと前を見つめる彼女の横顔、頬の柔らかなラインが、夕陽に照らされて光る。
真剣な色をした瞳はいつも爛々と輝き、絵を描くことの喜びに満ちていた。
夏休みは足早に過ぎて、忙しなく定期テストが行われた。テストが終われば文化祭の季節が来る。
美術部は毎年、大きな一枚絵を共同制作していた。
部長を務めていた先輩の提案で、その年は卵の殻を使った作品を制作した。
卵の殻に着色をしてから粉々に割り、それをベニヤ板に貼っていく。とても細かい作業だった。
彼女は初めての共同制作ということもあり、熱心に取り組んでいて、先輩にも感心されていた。
そんな彼女を、私はすこし離れたところで見ていた。
彼女は当時の私のことを、あまり思い出せないという。世渡り上手で、器用に見えた彼女も、その実とても精一杯だったのだそうだ。
懐かしいという言葉は、まだ早い気がして、なんと言ったら良いのかわからない。
体育館での式典が終わり、卒業証書の筒を握って、教室に戻る。
渡り廊下からは、校庭の桜の木が見える。
固く膨らんだ蕾は、新しい一年生が来る頃に、きっと咲くだろう。
彼女と私は、最後の年も同じクラスにならなかった。
体育祭も文化祭も合唱祭も、一度も、彼女と同じクラスで臨んだことはない。
それでも私たちは、いつも同じあの美術室で、飽きることなく絵を描いた。
何がきっかけだったのか、今となってはそれほど大事なことでもなく、だからこそ忘れてしまったのかもしれない。
出会ったばかりの夏、よそよそしい彼女のこと。
むせるような油絵のにおい。筆を握る、絵の具に汚れた小さな手。
振り返れば、彼女と親しくなったはずの、あの秋の記憶だけが、すっぽりと抜け落ちたように曖昧だ。
気がついたときには、彼女はもう、私の隣に居た。
快活で人に優しく、誰からも好かれる彼女。
そんな彼女の、弱いところや、ずるいところを知っている。
困った時に首に手を触れる癖や、キスをする時、息をとめてしまうことも。
クラスでの別れの挨拶が終わり、担任に連れられて外へと向かう。
校舎を出ると、在校生や保護者が見送りのアーチを作ってくれていた。
胸ポケットの小さな花を直してから踏み出し、背筋を伸ばして歩く。
おめでとう、と声が掛かるのが気恥ずかしいけれど、やっぱり嬉しくもあった。
見送りの会が終わってから校庭を歩き、別れを惜しむたくさんの人の中に、私は彼女を探した。
途中、幾人かに声をかけられて、話をする。
卒業するという実感があまり無く、涙の出てこない私にも、後輩は泣いてくれた。
今更になって、いい子達だったなぁと思った。
彼女は、美術室に居た。
人気のない校舎のいちばん端、そこはとても静かだった。
「……ここにいた」
「遅かったね。待ってた」
「探したよ」
やっとのことで彼女を見つけた私は、ひとつため息をつき、鞄を机に置く。
窓際で外を眺めている彼女は、はは、と笑いをこぼし、何やら楽しそうだ。
「何見てるの?」
「んー、なんにも」
彼女はそう言って、ぼんやりと空を見ている。昼過ぎの太陽は高い。
ぽかぽかと春を感じさせる陽射しが、穏やかに降り注いでいる。
彼女と私は、違う高校に進学する。四月からは別々の場所だ。
それはもう、数ヶ月前に決まっていたことだけれど、未だに現実味がない。
明日もまだ、私たちはこの美術室に来るような、そんな気がしている。
「ね、写真撮ろうか」
彼女はそう言って、ブレザーのポケットから小さなカメラを取り出した。
飾り気の無いシルバーのそれは、両親から借りたものなのだろう。
「こっち来て」
「……こう?」
「うん、隣」
手で招かれて彼女に並び、カメラを見上げる。
カメラが内側にもついているタイプらしく、小さな画面には私と彼女が写っていた。
こうしてよくよく見ると、性格ばかりか外見も、ちっとも似ていない。
「はい、チーズ!」
パシャ、と音が鳴って、撮られたばかりの写真が画面に映る。
にこにこと、人懐こい笑顔を浮かべた彼女と、照れくさそうに笑う、私が居る。
ふと、彼女が窓を開けた。
ふわりと滑り込んだ春風を、睫毛の先に感じる。
遠くから、誰かの声が聞こえる。
ばいばい、またね、連絡してね、絶対ね——ばいばい。
震えるような吐息が、隣から聞こえた。
振り向くのを一瞬躊躇ってから、そっと窺う。
空を見上げる、彼女の横顔。
春の日のやさしい光に照らされた、頬の柔らかなライン。
瞳から静かにこぼれる涙が、きらきらと光っている。
「……いーい天気だね」
そう言って、囁くように彼女は歌った。彼女がよく歌う、大好きな歌。
夕陽が差す美術室でこっそり耳を傾けた、あの力強いメロディー。
旅立ちの日にふさわしいその歌が終わるまで、私たちは指先を繋ぎ、体温を分け合った。