紅の街にて 1
電車の車窓から朝の日差しを浴びる午前9時。
カタンカタンと規則的な音+揺れに、うっかり眠気に呑み込まれそうになる。
向かいの座席では、スーツを着た小太りのサラリーマンが広げた新聞を読み耽っていた。
『終わらぬ猟奇殺人 死の芸術家』
目に入る新聞の見出し――その内容=ここ数日、とある高校に通う女子高生ばかりを標的とした猟奇殺人事件が日にひとりという異常なペースで発生しており、今日もまたひとり犠牲者が出たと語る活字の列。
「いつまで続くんだろうな」
隣に座る友人がぽつりと零す――その冴えやかな美貌にはわずかに影がかかっていた。
この都市では毎日人が死ぬ。
だがこうもスパンの短い連続殺人は、犯罪に塗れたこの土地でも珍しいと言えば珍しい方だった。
「怖い?」
普段は肝の据わっている彼が珍しく憂いていたため、思わず尋ねてしまった。
「そりゃ、怖くないと言えば嘘になる。うちの学校の女子ばかり殺されて……いつか、お前も刺されるんじゃないかと思うと、気が気でない」
「大丈夫だよ。わたし、悪運だけは強いんだから。それに、依藤君が守ってくれるんでしょ?」
彼の傍らに置かれたエナメル製の肩紐付き竹刀袋――竹刀を手にした彼が誰よりも勇ましく強いことは、よくわかっているつもりだ。
そんな彼がわざわざ守ると言ってくれた――これ以上に安心で、これ以上に嬉しいことはない。
「それはそうだが、そういう油断が命取りになるんだ、馬鹿。少しは警戒心ってものを身につけろ」彼が頬をつねってきて/そのまましばらく触感を堪能され/不意に手を離される。「本当に怖くないのか、中島」
「……怖いけど……その、ある意味ラッキーだったかなっ、て。蟻野田さんとか、茶山さんとか……かなり、不謹慎だけど……」
思ったことを愚直に述べた途端、彼の表情が更に曇ってしまった。
あ、と気付いて取り繕おうと思案――だが上手いこと言葉を思いつかず。
2人の間に流れる沈黙=非常に気まずい数秒間――しかし、為す術なくだんまりしていると、彼の方から沈黙を破ってきた。
「……すまない。お前が苦しんでいたというのに、オレは……」
謝罪=先程とは打って変わって沈んだ声――ちぎれんばかりに首を横に振る。
「あ、謝らなくていいよ。依藤君は何も悪くないんだから。わたしが弱かっただけだもん。だから、気にしないで?」
「だが……」
更なる謝罪か/あるいは自責か――なおも続けようとした彼の言葉を、駅名を告げる車内アナウンスが遮る。
目的の駅はもうすぐそこに迫っていた。
「ごめん、行かなきゃ」
脇に置いていたメッシュのリュックサックを背負い立つ。
徐々に速度を下げていく電車――慣性の法則に従って体が傾く/踏ん張る――やがてホームにぴったり収まる位置で停車。
「……学校が休みだからっといってボランティアに精を出すのもいいが、外出するときは気を付けろよ」
「大丈夫だって、そんな顔しないでよ」
まるで父親のように本気で気遣ってくれる彼へ笑ってみせる――たったひとりの大切な友人を心配させるのは本意ではない。
鉄の扉が左右に割れ、外の喧騒が車内に流れ込んでくる。
「じゃあ、行ってきます」
にこやかに挨拶=親愛の証――彼の見送りを背に受けながら、駅のホームに降り立った。
日本という極東の島国は、その治安の良さが世界に知れ渡っている。
実際――世界の治安ランキング8位=アジア諸国で唯一のトップ10入り――銃器の所持・使用を法律により規制していることが、殺人・テロリズムの抑制に繋がっていると評価されている。
だが/しかし――そんな日本にも犯罪都市なるものは存在する。
明星市――日本唯一と言っても過言ではない犯罪都市。
この明星市は大まかに10の区画に分けられ、割り振られた数字が大きい区画ほど危険とされており、更には区画毎に様々な特色をもつ犯罪がそこかしこに蔓延っている。
児童誘拐が頻発する第1区/猟奇殺人事件が定期開催される第6区/やくざ者と違法薬物が溢れる第9区/一度足を踏み入れれば脱出は不可能に等しい最凶にして最恐の第10区――まさに多種多様な犯罪の見本市といった様相。
そんな物騒を極めた明星市の一画――ネオンカラーの溢れる夜の街=第7区――通称〈紅街〉と呼ばれる風俗街の街中で、迷える子羊が2匹、揃って立ち往生していた。
「ああもう、やはり違うではありませんか。だから先程の道は左ではないのかと申し上げたのです」
品良く苛立ちを含む声で隣人を責める青年――清潔感溢れるミディアムヘアー×ストレート/神経質そうな碧眼/中東系のエキゾチックな仏頂面/スマートな長身を包むライムグリーンのジャケット/ホワイトデニム/編み上げブーツ/エナメルのショルダーバッグ=レハブアム――元ユダ国王/現在は天界で保育士。
「いや、だって、店っつっても似てんのばっかだからよ……」
気圧されながらも言い訳を並べるもうひとり――毛先に跳ね癖のついた伸ばされ放題の長髪/深海の如き碧眼/同じく整った中東系の顔立ち/七分袖ジャケット=黒&青のツートンカラー/チノパンツ/片手にアタッシュケース=ソロモン――元イスラエル国王/現在は地獄で裁判官。
「死者の蘇生なんてそんなこの世の摂理を創りたもうた神への冒涜はしちゃいけません」が大原則であるこの世界において、現世を闊歩することを例外的に許された古代人2人=主の恩寵という名の特例措置。
その所以――事の発端は、地獄で起きた脱獄事件だった。
地獄の憲兵大隊=通称〈蝿騎士団〉と天界の天使軍隊の合同演習期間を狙った脱獄犯――ここぞとばかりに監獄を破壊/手薄になった警備を難なく突破/現世の極東へ逃亡――おかげでこの度めでたくA3級→A1級=発見次第即殺処分が推奨される超重犯罪者に昇格/問答無用の処刑執行が決定。
そして――人材不足やその他諸々を含めた“大人の事情”と、“暇そう・強そう・死ななさそう”の3つの条件にたまたま合致した/してしまったソロモンが勅令でもって駆り出される羽目に――ついでに「万が一にも国家指定占有資源に死なれるようなことがあったら面倒だからひとりくらい護衛が欲しいよね」という理由で何故か息子のレハブアムも巻き添え。
仕方ないのでせめて親子水入らずのプチ旅行のノリで楽しくいこうと、事前に判明していた潜伏先=明星市にて脱獄犯の捜索を開始――だが思うように情報が集まらず、数日間はただ宛もなくこの犯罪都市をぐるぐる巡ることしかできず。
そして捜索開始4日目――都市探索の道中で何とか手に入れた、手掛かりというにはささやかすぎるとっかかり=情報屋〈お喋りオウム〉でそれとなく情報を仕入れることから始めようと第7区に足を運んでみたものの――似たり寄ったりな配色/デザイン/光量のネオンのジャングルに惑わされ、絶賛遭難中の現在に至る。
「こりゃ完全に迷子だわ……どーすっかねぇ……」
「あの彼にも一緒に来ていただくべきでしたね」
「やめてやれ。さすがに可哀想だ」
捜索4日目に訪れた第9区のやくざ者を思い出す――海沿いの廃工場=何とは言わないが何かしらの殺処分現場へレハブアムが空気も読まずに突撃/素早く鎮圧――外国人から眉間にUZIの銃口を突きつけられながら「失礼ですが、この市で物知りな方をご存知ありませんでしょうか?」と尋問された彼の心理は想像するに難くなく、もしそんな状態の彼を連れ回そうものなら神経どころか精神的な様々ものが磨り減ってしまうことは、全知全能の神に尋ねるまでもなく明らかである。
とはいえ、その彼から得た〈お喋りオウム〉の情報のおかげで風俗街なんぞの真ん中で迷子になっているわけで――息子の言い分も少しは正しいと思えなくはない。
などと考えながら親子であーだこーだ話し合っていると、
「あのぉ……どうかしましたか?」
背後から控えめにかけられた声――2人揃って振り返ると、少女がひとり立っていた。
さらさらの茶髪/日本人によくある茶色の虹彩/素朴な魅力を発散する愛らしい顔立ち/華奢な体つき/灰色のパーカー+シャツ/ショートパンツ/均整がとれた健康的な脚を覆黒うタイツ/ラフなスニーカー――どう見ても風俗街に似つかわしくない、一般的な女の子の出で立ち。
引きつる少女の顔=焦り/動揺――「困っている人がいて声をかけてみたらまさかの外国人で今めちゃくちゃピンチです」と如実に語るぎこちない笑顔――絞り出したようなたどたどしい英語で意思の疎通を試みる。「ワ、ワッツドゥーユードゥー……?」
レハブアムと顔を合わせるソロモン=親指で少女を指し/不得手な英語を使ってまで手を差し伸べてくれる、親切心と誠意と素直さの塊のような彼女に合わせて日本語で軽口。
「おい見ろよ、迷える子羊たちを天使が導きに来たみたいだぜ」
「我々の手際の悪さに呆れられた主が遣わしてくださったのでしょう」
やたら大真面目に頷くレハブアム=冗談で言っているのかそうでないのか判別できない仏頂面ポーカーフェイス。
「て、天使……?」
少女が冗談めかす外国人2人に困惑――一神教の概念に馴染みのない日本人らしい反応。
「失礼、ただの戯言です。お気になさらず。それと、日本語なら心得ておりますのでご安心を」冗談モードから即座に切り替えるレハブアム――偶然流れてきた助け舟を迅速に確保しにかかる。「地元の方でしょうか? 差し支えなければ道をお教えいただきたいのですが」
「いいですよ。どこに行きたいんですか?」
にこりともしないレハブアムのお願いを笑顔で快諾してくれた少女――有り難いには有り難いのだが、しかし「外国人男性2人をこうも簡単に信用するのはいくら地元の人間でもいかがなものか」とつい下世話な心配をしてしまう。
「この辺に〈お喋りオウム〉って興信所があるって聞いたんだが、知らねえか?」
普通に考えればこんな若い女の子が興信所などといったものを知っている方が珍しいわけだが、何でもいいから情報を得ないと2人からすれば死活問題なわけで――特に期待はせず/しかし一縷の望みをかけて少女に問うてみると、
「あ、わたしも今から行くところなんですよ! よかったら案内しましょうか?」
マジかよ――一瞬の歓喜/だが脳裏をよぎる情報=第9区のやくざ者から得た〈お喋りオウム〉の基本情報=表向きは何でもござれな興信所/裏の顔は色々ブラックなネタを提供&街に潜む所謂“殺し屋”に仕事を斡旋する仲介業を兼ねた情報屋――そこに今から行く? 女の子が? こんな夜中に?
レハブアムも怪訝に思ったようで、右脚の大腿部側面に手を寄せる=警戒心が芽生えた際の癖=本来ならUZIの定位置/しかし今は脚部銃嚢と共にショルダーバッグの中。
だが引っかかる部分はあれどこんな女の子を警戒する必要あんのか/いや人は見かけによらないって言うし/でも手掛かりの手掛かりをみすみす逃すわけにもいかんだろうし――逡巡/葛藤/勘定――会話の流れの一瞬の隙、小数点以下のわずかな時間で弾き出されたソロモンの結論=最悪女の子ひとりなら何かあっても押さえられるし、とりあえずはついて行ってもいいだろう。
「じゃあ、お言葉に甘えるとしようかね。それでいいか?」
レハブアムにアイコンタクト――具体的にどうとまでは伝わらずとも大まかな意思は汲んでもらえたようで、彼が頷く。
「ええ。よろしくお願いします」
「はい!」元気な返事=屈託のない笑顔。「じゃあ、行きましょうか」
言うや否や躊躇なく路地裏へと足を向ける少女――彼女に追随し足を踏み入れる。
途端、饐えた臭いが2人の鼻をついた。
見渡す限りゴミの山、とまではいかずとも決して清潔とは言えない路地裏=煌びやかな表通りと打って変わって陰湿さしかない暗い空間は、確かに社会の裏に通じる情報屋を構えるのにはお誂え向きではありそうだが、人が歩けるかどうかと問われれば、苦行以外の何物でもないと言う他ない。
「うわ、ひでぇ臭い。鼻がもげそうだ」
「文化的に劣る祖国でだって、こんなに不衛生な環境が存在していた記憶はありません」
ソロモン+レハブアム=渋面/遠慮のない文句。
「あはは……やっぱりそう思いますよね」
苦笑しつつもやたら慣れた様子で進んでいく少女――転がったゴミ/泥酔しきった酔っ払い/時折見かけるネズミの死骸――軽やかな足取りで難なく跨ぐ/よける/飛び越える=それはまるで猫のようで、そして何度も通ったことがあると言わんばかりの歩み。
外国人2人から一挙手一投足を観察・分析されていることなど知らぬであろう少女は、純度100%の至って普通+至極当然の問いかけを寄越してくる。
「そう言えば、お2人は外国の方……ですよね? どちらからいらしたんですか?」
「中東のイスラエルってとこだ。日本人にゃあまり馴染みのない国だろうが」
「中東……結構遠いですよね。なんでわざわざ日本に?」
「まあ、野暮用ってやつさ」さすがに逃げた悪魔を追っていますなどと馬鹿正直に言うわけにもいかず、肩を竦めて誤魔化す――こちらからも質問を返す/少女が真に何者なのか探りを入れる。「嬢ちゃんこそ、なんでこんな夜中に興信所へ?」
「え? えーっと……や、野暮用ってやつ、です」
あからさまに何かを隠そうとして絞り出されたと思われる少女の返答=露骨な怪しさ――本当にそっち側の人間なのか/あるいは単に興信所に持ち込むようなプライベートな内容を口にするのが憚られるだけなのか――判断するには材料が足りないため一旦保留し、ついでにからかう。「なんだ、気になる男の住所やら好みやら教えてもらうのか?」
「ち、違いますよ! そんなことしません! 第一、ストーカー行為じゃないですかそれ!」
頬を赤くして憤慨する少女――年頃の女の子の反応というものはかくも面白いものだと楽しんでいると、平坦ながらも鋭く切るような声音が間髪入れずに飛んできた 。
「父上、セクシャル・ハラスメントという言葉をご存知ですか?」
「……冗談に決まってんだろ」
ソロモンは、白い目をした息子の突き刺さるような視線を払うように手をひらひらさせた。
他愛ない会話の中に時折針を仕込み仕込まれつつ路地裏を歩いてしばらく――突如としてこじんまりとした煉瓦造りの建物が出現。
「ここです、ここ」
そう言って建物に近付く少女――2人も追随。
より近くで建物をざっと観察――全体的に寂れた外観/扉の上で点滅する電球=寿命間近/ネオン装飾が機能していない埃まみれの看板――掠れた文字=『〈お喋りオウム〉結婚相手の身元調査から、ストーカーの対策まで。何でもお気軽にご相談ください』
「興信所なのにストーカー対策までしてくれんのか。すげぇな」
ソロモン=素直に感心。
「警察より有能ですね」
レハブアム=手加減なしの率直すぎる所感。
「如月さーん、こんばんはー」
気付けばもう扉を開けて店舗中へ入ろうとしている少女――取り残されそうになり、2人も慌てて〈お喋りオウム〉の中へと続いた。