ポチ太郎のわふわふ大冒険 中編
生徒はもちろん、教師ですら余程のことがなければ立ち寄らず、気軽にドアを開けることもままならない、当校のトップのための部屋――――理事長室。
扉は分厚く頑強で、そこだけ普通の教室とは一線を画している。
特別棟の最上階、奥の奥に位置するそこは、誰が呼んだか『女王の間』である。
ここばかりは部屋全体に特殊な魔法が施されているようで、ポチ太郎ですらテレポートでは侵入できない。
「わふ!」
床にお座りしたまま、ドアの下部にたしっと肉球を押し付ければ、うっすら肉球マークが指紋として付着する。それからなにもせずしばらく尻尾を振って待機していれば、ガチャリとドアがほんの少し自動で開いた。
これも魔法の効果で、中に主がいるときのみ、来客を識別してお迎えしてくれるようになっている。
ポチ太郎はぴょこぴょこと、隙間から室内へと侵入する。
冷たい廊下の床から、質のいい絨毯で覆われた床に移ると、四つ足の裏がふかふか気持ちよかった。
「わふ!」
「あら、これは随分と楽しいお客様ね」
忙し過ぎて滅多に姿を現さない部屋の主は、中央に置かれたデスクでなにやら書類のチェックをしていた。どうやら運よくここで仕事中だったようだ。
派手なワインレッドのスーツを着こなし、ルビーのような紅い瞳が印象的な迫力美人。金の髪は渦を巻く縦ロールで、ポチ太郎はそこから『くるくるさん』と脳内で称している。
くるくるさんは、ポチ太郎のご主人様の父親とは古い知り合いで、その繋がりもあって、研究所から逃げてきたご主人様とポチ太郎を学校で匿ってくれている人間だ。あとは単純に「面白そうだから」という理由で、ポチ太郎をこの学校に住まわせることを許可してくれた。
一人と一匹の存在が表に出過ぎないように、色々と裏で手も回してくれている。おかげでご主人様は教師として、ポチ太郎はちょっと脱走癖のあるただの子犬として、平穏な日々を謳歌させてもらっている、いわば恩人である。
「それにしても彼はまた貴方を逃がしたの? 相変わらず愛犬には甘いのね、見た目はクールそうな眼鏡なのに。堂々と何度も脱走するなんて、やるわね貴方も」
「わふ!」
シュタッと前足を挙げるポチ太郎の前に、席を立ったくるくるさんはツカツカとやってきて、まさに女王のように毅然とした態度で見下ろしてくる。
『クールそうな眼鏡』と称されたポチ太郎のご主人様は、恩もあるこの上司にはあらゆる意味で逆らえない。他の教師や生徒の見えないところで、面倒な雑事を押し付けられていることは、あの少女ですら知らぬことだ。
ご主人様の大人の苦労は、愛犬だけが知っている。
「ふふ、前に梅が作ってくれた犬用きなこクッキーがまだ残っているわよ。あなたが来る時のために取っておいたの。いかがかしら?」
「わふ!」
ご主人様にきっちり量や栄養バランスまで管理されている、特製ドッグフードはすべて平らげたが、魔力を使ったせいか小腹が空いた気がしていたのだ。さすが、抜かりのない女王様は違う。
くるくるさんは赤い唇を持ち上げて微笑み、執務机の棚を漁って長方形の白い箱を出してきた。その箱の蓋を開けて、優雅に膝を折ってしゃがむと、取り出した星形のクッキーを一枚、「お食べなさい」とポチ太郎の口元へと運ぶ。
パクリと咥えて、ポチ太郎は遠慮なくむしゃむしゃ咀嚼した。
寛大なこの学校のトップは、高そうな絨毯にパラパラとクッキーの粉が落ちても、気にしたふうもなくおやつを楽しむポチ太郎を見守っている。
続けて、もう二、三枚をもぐもぐ。
「それを食べ終えたら、ここからはすぐ撤退した方がよろしいわよ? 貴方のご主人様をパシって……言い方が悪いわね。私のやりたくない面倒な事務処理を押し付けて……こほん、彼にしか出来ない素敵なお仕事を任せてあるから、その書類を今から取りに来るの」
おっと、それは大変だ。
この空間ではテレポートは使えないので、ポチ太郎はお礼代わりにくるくるさんの綺麗な手に『お手』をして、ぽてぽて部屋を後にする。
部屋を出る前、くるくるさんは「やっぱり犬のぬいぐるみも欲しいわ……今度、梅に作ってもらいましょう」となにやら思案気に呟いていた。
理事長室を後にしてから、ポチ太郎はこそこそ浮くか歩いて、人目に気を付けながらテレポートも使って、あちこちを飛び回った。
演劇部や魔法スポーツ研究部などの各部の部室、図書室、校門、グラウンド、訓練棟のトレーニングルーム、一年の教室、購買、家庭科室や音楽室などの特別室まで。
なお、ご主人様がいるかもしれない、職員室はスルー。
しかし、冒険の最後に会いに行こうと思っていた、自分と『同じ』少女の姿はどこにも見えない。
ポチ太郎は「わふ?」と小首をかしげた。
てっきり、トレーニングルームあたりで魔法の練習に勤しんでいるか、空き教室もしくは図書室あたりがで勉強をしているかが妥当だろうと考えていたのに。
今日はもしかして、もう寮へと帰ってしまったのだろうか。
「わふー」
いないならば仕方がない。
そろそろご主人様にバレる前に棲みかに戻るかと、ポチ太郎は化学室の中に扉一枚隔ててある、化学準備室に場所を定めてテレポートを発動させた。
あっという間に帰りついた『犬小屋』は、段ボールや資料を押し込めた大きな棚が壁を背に並び、明かりを抑えた蛍光灯がポツリとつく、こぢんまりとした部屋だ。
壁一面がポチ太郎の写真やポスターで埋まっていることを覗けば、普通の空間である。たぶん。
わふわふ鳴きながら、ポチ太郎は素早く首輪を短い前足で付け直し、床に転がる楕円形のクッションの上で体を丸める。あとは何事もなかったかのように、ご主人様の帰りを待つだけだ。
噂をすると――――ガチャリと、化学準備室の扉のさらに向こうで、化学室の方の扉を開ける微かな音が聞こえる。
しかし、次いで拾った声は、ご主人様のものではなかった。
「わざわざ草下先生に許可を取って、鍵も借りて来てみたけど……ポチ太郎いるかな。また脱走していて、捕獲の手伝いみたいな展開はやだな」
「大丈夫ですよ、お姉さま! 例えまた逃げていらっしゃったとしても、私が三秒で捕えてみせます!」
「本気出したら出来そうなのが心実だよね……」
来たのは二人。
うち一人は探していた自分と同じ少女で、ポチ太郎はピクピクと耳を揺らした。
本編でほんの少し触れましたが、草下先生と理事長の関係はこんな感じでした。出さずに切った裏設定なので、別の一面として本編とは切り離して楽しんでもらえると嬉しいです。次でラストです!





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