茶色い鞄とボク
ユウコが降りた駅を通り過ぎ、ユウコが乗った駅も通り過ぎた。
その間にもボクの隣には何人かの人が座って去って行った。
皆、ボクに貼り付いた紙を必ず見ていった。
だがその反応が人によって、傘によって、やや違っていた。
クスリと笑われたり、目を丸くしたり、逆に目を細めたり、何か考え込んだり。
様々な様子で、ボクを見て去っていった。
中にはリョウスケが貼っていった紙に何かをして行ったひとも居た。
そうこうしている内に、電車はまた反対向きに、つまりユウコと乗ったときと同じ方向を走り出した。
窓の外は、雨がやや強くなって、風もまた吹き出したようだ。
(夜になったら、雨止んじゃうかなぁ)
ボクは水滴で歪み、ぼんやりとした影になった景色を見た。
電車は真っ直ぐ走っている訳ではなく、風も同じ方向に吹き続けてはいないので、雨は斜めに降って見えたり、窓ガラスに向かって降ったりした。
通勤ラッシュとやらが終わったらしく、たくさんの人が乗ってきた駅でも、満員になるほど人は乗ってこなかった。
そして今は、車内は人が少な目で、空席も有った。
「ほう。面白いのう、お前さん」
どこからか声が聞こえた。
ボクの隣には今は誰も人は座っていない。
ボクは見通しの良い車内を、キョロキョロ見てみた。
「こっちじゃ、こっち」
少し低くしゃがれた声が、のんびりとした穏やかに話しかけてくるが、ボクは声の主を見つけられなかった。
「上じゃよ上。物は人が持っているとは限らんぞい」
可笑しそうに笑いながらの言葉に、ボクは車内の網棚に目をやると、ボクと扉を挟んだシートの端に座るスーツ姿の男性の上に、茶色い革製の鞄を見つけた。
「こんにちは」
ボクは何となく挨拶をしてしまった。
その茶色い鞄はさらに楽しそうに笑った。
「最近の若者にしては、なかなか礼儀正しいの、お前さん」
ボクはどう答えて良いか分からず、困ってしまった。
「ところでお前さんや。その貼り紙はどうしたんじゃ?」
「これは、その、勝手に貼られてしまって」
「勝手に貼られた?何が有ったんじゃ。時間なら多少有るから話してみなさい」
ボクは茶色い鞄が、見たところ長く使われてる、人間で言うところのお爺さんのような鞄なのかも知れないと思った。
ボクは、話したところで状況が変わるはずが無いのは分かってはいても、茶色い鞄なら何かを今の状況を変えてくれるかも知れないと、勝手な期待をして、ユウコと家を出てから今までの事を話した。
茶色い鞄は、ところどころで驚いたり笑ったり困ったりのリアクションをしながら、ボクの話を聞いてくれた。
話しているだけなのに、ボクはどんどん心が軽くなるような感じがした。
きっと興味をもってボクの話を真剣に茶色い鞄が聞いてくれているからだろう。
だからボクは後悔をした。
ただ話すだけでこんなにも気分が楽になるのなら、あの小さな傘の話を、ボクはちゃんと聞けばよかったと思った。
「なるほどのぅ。しかしお前さん、その貼り紙には感謝せんとのう」
「感、謝?」
ボクは戸惑ってしまった。
そう言われ思い返してみると、この貼り紙を貼られる前と後で、通り過ぎる人や傘の視線が変わっていたような気がした。
「あのっ、鞄さん。この紙には何が書かれているんですか?」
ボクは茶色い鞄を見上げた。
茶色い鞄は少し困ったように唸った後、口を開いた。
「たくさん書かれておるぞ。恐らくじゃが、最初に書かれていたものは、おおっ!」
そこまで茶色い鞄が言ったところで、鞄は持ち主に網棚から引き下ろされた。
扉が開くと同時に、持ち主は
「心配は要らん、お前さんはきっと持ち」
茶色い鞄は持ち主に連れられながら、大きな声で言った。
だが、その声は途中で扉に遮られた。
(持ち主に会える、ですよね)
ボクは心の中でそう呟いて、茶色い鞄が去った扉を見送った。