開拓の諸侯と荒野のパーコレータ
紅茶色の瞳の彼女は、軽く首を傾げて吾輩をカウンターへと促す。その愛らしい仕草へ鷹揚にうなずきを返した吾輩は、歩を進めつつも無作法にならないようゆったりと首を巡らして店内を見渡した。決して多くはないテーブル席と、店の主役然として構える正面のカウンター。そこに用いられている一枚板は、紅を帯びた淡褐色と輝かんばかりの光沢からすると、おそらくマホガニーだろう。客はカウンターに一人と、テーブルに二人きりだった。
吾輩はスツールに腰掛け、ふわりと微笑を浮かべて注文を待つ彼女を前にする。店に漂うシックな雰囲気は彼女に似つかわしく、初めて訪れた店だというのにどこか懐かしくも思われた。店内には彼女以外に店員らしき者の姿は見えないから、きっと彼女がマスターとして一人で切り盛りしているのだろう。だとしたら、あまり複雑な注文をして困らせるのも紳士ではない。ここはシンプルに行こうと決め、吾輩はウィンクと共にオーダーを口にする。
「ふむ。では、アメリカーノを頼めるかね」
それを聞いた彼女は、悪戯っぽい笑顔を浮かべて不思議な問いを口にする。
「ジェームズ・ボンドがお好きなんですか?」
「ん? ああ、確かにイアン・フレミングの著作は愛読しているが」
「そう、カフェで飲むなら、アメリカーノだ。ぴりっとくるカンパリと、チンザノ・ベルモット。レモンの大きな輪切りを、ソーダで割って――――でしたっけ。ええ、ペリエもあります。任せて下さい」
ふむ、彼女は何か聞き違いをしたらしい。
吾輩は紳士らしく、丁寧に、だがきっぱりと訂正を入れる。
「いや、お嬢さん。吾輩が頼んだのはアメリカーノだよ。間違えてもらっちゃ困るな」
「ええ、アメリカーノで合ってますよ? カフェで飲むカクテルと言ったら、定番ですよね?」
「待ってくれたまえ。吾輩が言っているのはアメリカーノ、つまりアメリカンスタイルを踏襲してパーコレータで淹れる、カフェインをどぎつく利かせた大人の男のコーヒーだよ。カクテルではない」
その言葉を聞いたマスターの表情が、すっと消える。
「……ああ、大変失礼いたしました。ではアメリカンではなくアメリカーノでのご提供となりますが?」
「うむ、それで頼むよ」
なるほど、マスターの言葉を聞いて勘違いの理由もわかった。アメリカンとアメリカーノ。よく似た名前だから、きっと彼女は間違えて覚えていたのだろう。それくらい、人間なら誰でもあることだ。もちろん、吾輩はそのことを恥じたのだろうマスターが多少不愛想な態度を取ったとしても、その程度のことで声を荒げたりはしない。なんとなれば、それが英国紳士の振る舞いというものだからだ。吾輩はにっこりと笑って、静かにコーヒーを待つことにする。
「わたし、アルマと申しますの。お客さまはアメリカから?」
ケトルを火にかけたマスターが吾輩に問いを投げかける。
「分かるかね?」
「ええ、それはもう。けど、それにしては訛りが無いようだけれど?」
「うむ、バローはご存知かな? 我が大英帝国海軍はもちろん、ヨーロッパ諸国やアメリカ、果てははるばる極東からも船を買い求めにくる世界最高の造船所。それがバロー、吾輩の故郷なのだよ。名はジョージ・V・ジュニア、しがない田舎貴族の末裔にして、アメリカンドリームに魅せられた男さ」
肩をすくめる吾輩に、マスターは納得したような表情を浮かべる。
「ああ、それで……」
「そう、言ってみれば吾輩はドックを揺りかごに、鋲打ちを子守唄にして育ったようなものでね。そんな吾輩が『彼女たち』の出港していく様子を見て心躍らせ、自らもまた大海原を渡って一旗揚げようと心に決めたのはごく自然な成り行きだったと言えるだろう。母国イギリスへ帰るのは、実に三年ぶりになる」
「では、コーヒーには思い入れが?」
「そう、荒野でたった一人過ごす夜、吾輩の心を力強く温めてくれたのがコーヒーだった」
「そうでしたか。では、わたしも腕を振るって淹れさせてもらいますね」
「うむ、ありがとう」
吾輩はしばしマスターの手並みに見惚れる。各種の道具は魔法のようにカウンターへ並んでいき、それらを操る彼女の手さばきや足運びには一切の無駄がない。カップとカウンターが触れ合う音、そして軽やかな足音がリズムを刻み、聴く者を非日常的な時間へと誘う。吾輩はそっと目を閉じると、懐かしきアメリカに思いを馳せる。
思い出すのはやはり荒野で過ごした夜のことだ。火を熾し、軽く表面を焼いたベーコンととろっとろのチーズをパンに乗せて腹ごしらえを済ませた吾輩は、バックパックにくくり付けたパーコレータを火にかけ、お湯が沸くまでの間に携帯用の小さなミルで豆を挽く。豆は保存に適した浅煎りのものを、豪快にがりがりと荒く挽くのがいい。バスケットに豆を流し込んで本体にセットし、しばらくすると支柱を通してお湯が噴き出し始める。蓋の部分にあるガラスの覗き窓を見て、好みの抽出具合になるまで待って火から下ろす。豆の入ったバスケットを取り出してマグカップに注げば完成だ。
上質なコーヒー豆のフレグランスが鼻をくすぐり、吾輩は現実に引き戻される。パーコレータで淹れたコーヒーの野趣溢れる焦げた匂いとは全く別の魅力を持つ、ロンドンのカフェのそれ。アメリカの孤独な夜と共に刻まれた匂いの記憶と、鼻孔を刺激する上品なアロマの違いを楽しみつつ、吾輩は目蓋を開ける。
「どうぞ」
ことりとカウンターに置かれたカップの取っ手を摘まみ、吾輩はマスターに笑顔を向ける。アメリカーノはブラックのままぐっと一気に飲むのが醍醐味だ。甘ったるかったり濃すぎたりすることのないその味は、確かにアメリカで飲んだものとは異なるものの吾輩の求めるそれだった。
「うむ。惚れ惚れするような手並みだったよ」
「それはどうも」
「この店は、ずっと一人で?」
「ええ」
「女一人で大変なのでは?」
反射的に口にしてしまい、吾輩はデリカシーがなかったことに後悔する。
「いや、これは立ち入ったこと。アメリカ帰りの無骨者の戯言と思って忘れて欲しい」
「いえ。皆さん、親切にして下さいますから」
マスターは可憐な笑みを浮かべる。
「それに、身一つで異国に渡って一から商売を立ち上げることに比べれば、女一人が生きていけるだけの稼ぎを上げるくらい大したことありませんもの。ヴィッカースさんは、アメリカではやはりゴールドを?」
「いや、宝石だよ。エメラルド、サファイア、そしてダイヤモンド。きみも女性だ、宝石には興味があるだろう?」
「ええ、人並み程度には」
マスターは控え目な笑顔を浮かべるが、宝石が嫌いな女性はいない。その魅力をどのように伝えるべきかと吾輩の灰色の脳細胞が稼働を始めるが、口を開こうとしたその瞬間、横合いからかけられた声で吾輩は出鼻をくじかれることとなる。
「おや……貴方も宝石を扱っていらっしゃるので?」
高くもなく低くもない声音、地味だが仕立てのいいスーツに身を包んだ特徴のない容貌。二つ離れたカウンター席でコーヒーを飲んでいた男性は、吾輩とマスターの方に身体を向けると軽く会釈をする。
「わたくし、宝石商のルドルフと申します。こちらの方がアメリカで宝石採掘をなさっていらしたと聞いて、居ても立ってもいられずにお声がけした不調法をお許しください。そして、もしお邪魔でなければわたくしにもお話を聴かせていただけませんか? アメリカの宝石業界における最新情報、とても興味がございますので」
赤ん坊のようにつるりと白い顔に人の良さそうな笑顔を浮かべ、ルドルフと名乗る男は名刺を差し出すのだった。