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深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち  作者: 天見ひつじ
開拓の諸侯とアメリカーノ・ドリーム
7/21

開拓の諸侯と懐かしきロンドン

 ロンドン、嗚呼、懐かしきロンドン。実に三年ぶりの帰国、十年ぶりのロンドンの空気に浮かされた吾輩は、気付けば若き日の思い出が詰まったロンドン大学まで足を運んでいた。勝手知ったるなんとやら、学友たちと口角泡を飛ばして議論を重ねた記憶も懐かしい研究室の前まで迷わず辿り着く。相も変わらずきいっと音を立てて開く扉、その音を聞いて振り向く教授の昔と何一つ変わらぬ姿に、吾輩は一気に十年前へと戻ってしまったような心地となる。


「いやはや、お久しぶりですなぁ、教授!」


「……はて、どちらさまだったかな?」


「はっはっは」


 上品な笑顔を浮かべて軽いジョークを飛ばす教授の茶目っ気に、吾輩は思わず吹き出してしまう。


「吾輩のことをお忘れで? 冗談とは言え酷いですなぁ、教授」


「ふむ。そうか、君はわしの教え子の」


「ジョージ・V・ジュニア。思い出していただけましたかな?」


 吾輩のウィンクに、教授は微笑みで応えてくれる。


「お、おお、そうか、ジョージ君か。うんうん、覚えとるよ」


 教授もそろそろ御年八十を数えるはずだ。ようやく思い出してくれるその様子に、吾輩は胸を痛めざるを得ない。そのまま十分ほど会話を交わし、何となく噛み合わないまま退出したところで、吾輩は思わぬ人物と出くわした。いかにも大学の人間らしい、どことなくぼやっとした背広姿と肉付きの良いシルエットが学生時代の記憶をくすぐる。


「おや、お客様でしたかな?」


 深いバリトンは、忘れようもない。

 吾輩は嬉しさのあまり、つい野暮ったい背広の肩を叩いてしまう。


「きみ、ベンだろう? ベン・ブルックトン。いやあ、懐かしいな! 吾輩だよ!」


「ああ、ええと、君は……」


「ジョージだよ! ジョージ・V・ジュニア! 憶えてるだろ?」


「あ、ああ! そうか、ジョージか。思い出したよ。何年ぶりだ?」


「もう十年になるか。今は何をしてるんだ?」


「しがない助教授さ。君は?」


「アメリカへ、ちょっとね。いや、母なる大英帝国への帰国は三年ぶりで、つい懐かしくなって立ち寄ったんだが……こんなところで君に再会できるとは、今日は実にいい日だ! 今、少し時間はあるか? いや、そう長く話すつもりはないが、久闊を叙してお互いに近況を話すのも悪くはないだろう?」


「うん、そうだな。少しなら構わないよ」


「大変結構! うん、それでだね。まずは吾輩が大学を後にしてからのことなんだが、まずは吾輩の故郷、バローに帰ったんだ。バロー=イン=ファーネス。君も知っての通り、潮と鉄が濃く香る我が愛しき造船の街、バロー=イン=ファーネス! しばらくはそこで働いていたんだが、うん、吾輩もやはりイギリス紳士の端くれとしてね、外国で一旗揚げようと、そう思い立ったわけだよ」


「それで、アメリカへ?」


「その通り! いや、アメリカはやはり刺激的だったよ。荒削りだが野趣溢れる気風が色濃く残り、自らの足で立って歩く覚悟のある者だけを厳しくも温かく迎えてくれる。残念ながらインディアンを相手に大立ち回りを繰り広げるような場面こそなかったものの、自然の猛威を相手に命の危険を感じひやりとする場面も何度かはあったかな。いやなに、全然大したことではなかったんだがね」


「と、言うと?」


「うむ、よくぞ聞いてくれた。いや、本来ならば自慢話にもならないような話なんだがね、他でもない君との間柄だ。恥を忍んで、吾輩がいかにして機転を巡らし、勇気を奮って危地を逃れ得たのかをお話しよう。ここロンドンで教鞭をとる君には必要のない話かも知れんが、人は生命の危険に晒されたときこそ真実の姿を垣間見せる。それは世界の真実を解き明かさんと研究に励む君にとっても有益な話になるだろう。ふむ、それでは本題に入ろう。あれは吾輩がネバダの山中で一夜を過ごしたときのことだ――」






 どれほど話しただろうか。


 ふと気付けば、窓から差す光は夕刻を告げていた。話題は尽きず、立ち話をしている内にかなりの時間が経過していたようだ。懐中時計を取り出し、そろそろ次の講義へ向かわねばとすまなそうな表情を浮かべるベンに、吾輩は快く別れを告げる。いやはや、持つべきものは良き友であるとの思いを深め、名残を惜しみつつも背中を向ける吾輩の耳に、彼の大きなため息が届く。


 きっと彼も吾輩と会えて嬉しかったに違いない。会話を交わす間、終始にこにこと笑っていたその表情と、別れ際に吐かれたため息の寂しげでありながら満足感も滲ませたニュアンスを、吾輩はしかと捉えた。だがお互いに大人の男なのだ。吾輩はあえて口元に笑みを浮かべ、決して振り返ることなくそのまま大学を後にしたのだ。


 門をくぐり、夕刻のイズリントンへと歩を進める。この街はあの頃と変わらない。学業に勤しみ、そしてそれ以上に青春の日々を謳歌する学生たちの姿が三十も半ばを超えた今となっては酷く眩しく映る。立ちっぱなしで少々喋り過ぎたのか、喉の渇きと足の痛みを感じた吾輩は、コーヒーでも飲みながら学生時代を思い返すのもいいだろうとカフェへ入ることを決める。


 さてどこがいいだろうと周りを見わたし、ふと目に付いたのはゆらゆらと揺れるブロンズの吊看板だった。先の折れた三角帽の意匠と、装飾文字で刻まれた店名。学生たちの好むお洒落さと紳士淑女も心安らぐ落ち着きを併せ持った店の佇まいを、吾輩は一目で気に入ってしまう。そのまま、何かに吸い寄せられるようにしてドアノブに手をかける。


「いらっしゃいませ」


 重厚な扉を開けて足を踏み入れた吾輩を迎えてくれたのは、からんからんと鳴るドアベル、そして鈴を転がしたような声音の魅力的な女性だった。ダークブラウンでまとめたチェックのスカートとカーディガン、胸元から覗くシャツの白さと赤いネクタイのコントラスト。紅いエプロンと紅茶色の髪や瞳は、しかし派手になり過ぎず落ち着いた雰囲気を彼女に与えていた。


 吾輩は確信する。


「お一人ですか? どうぞ、カウンターへ」


 彼女の淹れてくれるコーヒーは、極上の一品に違いないと。

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