配達少年と小さな魔法
一日の仕事を終え、心地よい疲れに包まれてお店のシャッターを閉め、窓のロールスクリーンも下ろしていく。カフェを営むほどなのだから、年齢も職業もばらばらのお客にコーヒーを淹れて話をするのはもちろん好きなのだけれど、こうして一人で過ごす時間がわたしは嫌いではない。雑巾とモップで手早く丁寧に掃除を済ませてから、自分用のあれこれを用意してカウンターの端に座る。
昼間焼いたアップルパイとナッツのクッキーの残りに、自分用の安い紅茶葉を合わせ、夕食の代わりとする。適当に入れた紅茶は苦みの強い代物となってしまい砂糖を入れたい誘惑に駆られるが、朝から摂った糖分の量を思い返して我慢することになる。ただでさえ横着をしてお店の余り物を夕食とすることが多いのだから、いくら立ち仕事とはいえ少しは考えないと、すぐに太ってしまいかねない。
アップルパイを一切れ、フォークで突き刺して口へ運ぶ。冷えているが、果実と砂糖の甘みとが溶け合い、シナモンの香りが嗅覚を楽しませてくれる。焼きたてのさくさくとした感触は失われつつあるが、甘みを十分に味わった後にくるシンプルな香ばしさは次の一切れへとフォークを誘う。総じて、まずまずの出来と言えた。フォークと皿が触れ合うかすかな音の中、わたしは明日のメニューについて思いを馳せる。
カフェ・アルトのメニューは、定番となっているいくつかのものを除けばフードもドリンクも日替わりだ。マスターであるわたしが、その日にふさわしいと思ったものを提供するやり方はお師匠さまから受け継いだものだ。そろそろレーズンのラム酒漬けが仕上がる頃なので、明日はケーキを作ろうと決める。コーヒーは酸味を抑え、苦みを強く出すとケーキの甘さがより引き立つはず。
食器もまた大切な要素の一つだ。お師匠様は一点ものを好んで使っていたが、雰囲気の統一に加えて利便性の意味でもセットの食器がわたしの好みだ。食器棚の上の方に収められた一点ものは、お店のインテリアの一部として、また特別感の演出として用いることにしている。
今日、配達少年のトムが届けてくれたカップも、そうした特別な食器の一つになる――そのはずだった。
カウンターの上にぽつりと置かれた白磁のカップが、ぱきん、と音を立てて二つに割れる。名残惜しいが、いまのわたし――カフェのマスターにして駆け出しの魔女――にできるのはこれくらいのもの。ずっと昔、お師匠さまのカップを割ったときもそうだった。落として割れたカップをお師匠様は傷一つなく修復して見せてくれて、しかししばらく経ったある日、カップはいつの間にかお店からその姿を消し、定位置だった場所には別のカップが鎮座していたのを覚えている。
夢がいつか冷めるように。
魔法はいつか解けるもの。
お師匠様が、繰り返し言っていた言葉。
そう、魔法なんて大したものではない。
一度壊れたものは、壊れる原因となった因果を断ち切らない限り、いくら巻き戻しても時が来ればまた壊れる。永遠の若さを保ったり、他人を操ったりなんて魔法は夢のまた夢。わたしの魔法でできるのは、少年の大きな勇気から生まれた小さなミスをほんの少し手助けする程度のこと。
けど、それでも魔法に意味がないとは思わない。
いつか少年が素敵な彼女を連れてお店を訪れてくれるのなら。
割れたカップの思い出も、きっと素敵なものになるだろう。