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深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち  作者: 天見ひつじ
配達少年とエアカッスル・モカ
5/21

配達少年と夕暮れのロンドン

「トム君が好きなのは、ハートとクローバー、どっちかな?」


 朱染めのエプロンを脱げばロンドン大学の学生でも通りそうな服装のマスターが、心から幸せそうな表情で軽く首を傾げる。子ども扱いするようなその問いかけと裕福に育った人間に特有の余裕は常ならば少年に反発を覚えさせる類のものであったが、なぜか今この瞬間においてはごく自然に受け入れられるものだった。


「……どっちでもいいよ」


 立ったまま飲むのも間抜けに思え、スツールに腰掛ける。どちらのカップを取るか少しだけ迷い、右側のカップを手に取った。いまさらコーヒーが苦手だなどと言い出せる雰囲気ではなく、少年は手の中でカップを弄んでいると、マスターはそんな少年を見てふわりと笑う。それから、紅茶色の髪を揺らしてハートが描かれたカップを両手で包むように持ち上げ、崩すのを惜しむかのように見つめてから口をつける。


 その様子があまりにおいしそうだったので、つられるようにして口に含む。最初に感じたのはミルクと砂糖、二種類の異なる甘さだった。そして、飲み込むと舌にわずかな苦みが残る。味とは甘い、辛い、苦い、酸っぱい、しょっぱいといった単一の言葉で表現されるものだと思っていた少年にとって、その絡み合うような甘さと苦さを併せ持つ飲み物は一種の衝撃をもたらした。


「カフェラテだよ。おいしい?」


 問いかけに黙ってうなずき、そして思う。この飲み物はカフェラテというらしい。一杯いくらなのか――こんなにおいしいのだから、きっと少年の一日分の食費が賄えるぐらい値が張るのだろう。そして、お金について考えた拍子にカバンの中に収まっているもののことを思い出してしまい、思わず顔をしかめる。


「なあ、この店って、一人でやってんの?」


 口を突いて出たのは、情けない時間稼ぎ。


「そうだけど?」


「これ……あんたが全部作ってんのか」


「そう。アルマっていうの」


 飲み終えたカップをそのまま手に持ち、カウンターに肘をついてマスターが言う。


「え?」


「わたしの名前だよ。アルマ」


「アルマ……」


「そう、アルマさん」


「アルマ……さんは、カフェラテ――だっけ、の作り方をどこで習ったの?」


「コーヒーの淹れ方についての基本はお師匠さまに教えてもらったけど、具体的なレシピについては人から聞いたり、本を読んだり、かな」


「本とか、読むんだ」


 少年がつぶやくと、アルマはカウンターからぐいっと身を乗り出して顔を近づけてくる。


「なーに? 女の子が本読んで、カフェのマスターやってちゃおかしい?」


「なっ、別に、そんなわけじゃ……!」


 思わず身を引いて否定してしまったが、アルマの口調は本気で怒ってのものではなかった。からかわれた、と気付くが時すでに遅く、アルマは口元を押さえてくすくすと笑っていた。こうなってから何を言っても道化になるだけ。少年は唇を尖らせて、一言だけつぶやく。


「……性悪女」


 それを聞いたアルマは頬を膨らませる。


「ほんの冗談なのに。これぐらい笑って流せる度量がないと、女の子にもてないよ?」


「別に、もてなくたっていいよ」


 ソーホーで暮らしていれば、男女についての一通りの知識は耳に入ってくるし、男が身を持ち崩す原因は金、酒、女のいずれかと相場が決まっている。とびっきりの笑顔で男に酒を飲ませ、気前よく、そして気分よく金を吐き出させる商売女たちが、男を視界から消した瞬間に浮かべる酷く冷めた表情を少年は知っている。


「苦いコーヒーでも飲まされたみたいな顔してるね。女の子は嫌い?」


「嫌いじゃないけど――」

 思い浮かべたのは、ここに来る前に助けた少女の姿。

「――なに考えてるかわかんないし、弱いし、うるさいし」


 なにより、かわいそうだった。

 きっと恵まれた環境で育ったのだろう、柔らかい雰囲気をまとうアルマのような女など、少年の生まれ育ったソーホーにはいない。みんな、抜け目なさや猜疑心を笑顔の裏に隠して日々を生きている。大通りを挟んだこちらと向こうでは、文字通り生きている世界が違うのだ。してみれば、たかが配達少年にこうしてカフェラテを振る舞ったのもほんの気紛れに過ぎないのだろう。


 だから、金持ちは嫌いだ。

 少年は心の中でつぶやいてスツールを降りる。親切めかして微笑む彼女は、潰れた箱を見てどんな顔をするだろうか。もし目の前にあるコーヒーのための道具のように外国から仕入れた高価な品だったとすれば、それを壊してのうのうとカフェラテを飲んでいる少年を憎らしく思うことだろう。おやっさんに言いつけられでもしたら、殴りつけられた上に給金から弁償させられるはずだった。一か月、いや数か月はタダ働きになるだろうと考えると、乾いた笑いしか出てこない。


 少年は、なけなしの意地をかき集めてカバンを開き、無残に潰れた小箱をカウンターに置く。


 自分は決して間違ったことをしてはいない。あのかわいそうな少女を助けたのが罪だと言うのなら、気が済むまで怒ればいい。半ば自棄になって固く目をつむり、それでも胸を張ってアルマの言葉を待つ。


 かさかさ、という箱を開けるわずかな音だけが店内を満たす。


 名も知らぬ少女のせいにはするまいと決める。ひとしきり少年の腕に抱かれて泣いた少女は、涙を浮かべながらも顔を上げ、そして笑ってみせてくれたのだ。無様に言い訳するのは、そんな彼女の健気さを汚すことだと思った。


 身体が強張り、心臓が早鐘を打つ。

 すっと息を吸うような気配。

 来る。そう思った。


 少年の意識はそこで途切れる。






 ふっと身体が揺らぐような感覚。

 気付くと、少年はスツールに腰掛け、カウンターに突っ伏していた。


「目は覚めた?」


 問いかけられ、顔を上げると、そこには背伸びをして爪先立ちで食器棚へカップを仕舞い入れ、くるりとターンするように振り返って笑うアルマの姿があった。落ち着いてゆっくりとした、それでいて嫌みのない声と笑顔が少年を現実へと引き戻す。自分はアルマに怒られるのを待っていたはずなのに、どうやらカフェラテを飲んで居眠りしていたらしい。


「届けもの、ありがとうね。ずっと待ってたんだ」


「そうだ、箱は――」

 カウンター上に目を走らせる。

「――――え?」


 それは、すぐに見つかった。

 見覚えのある、潰れて歪んだ箱。

 その隣には、薄くて華奢なコーヒーカップが置かれている。


「このカップはね――」

 欠け一つないそれを両手で包んでそっと持ち上げ、アルマは言う。

「――わたしのお師匠様が使ってたのと、同じものなの。けど、特徴ある装飾や刻印はされてないから、どこで誰が作ったものなのか分からなくて……わたしの不注意で割ってしまってから、ずっと探してたの」


 また出会えて、よかった。

 そう言って、アルマは慈しむようにカップの表面に指先を走らせる。その様子にしばし見惚れていると、胸の中にわだまかっていた疑問は次第に溶けていった。割れたような音を聞いたのは、きっと中身が壊れることを恐れた自分の空耳だったのだろうと自分を納得させる。カップは無事だった。それは喜ぶべきこと、なのだろう。


 からんからん、と来客を知らせるベルの音が響き、アルマがそちらへと視線を向けたことで少年は長居し過ぎたことに気付く。これ以上遅れれば、確実におやっさんに怒鳴られることになる。少年は慌ててスツールを降り、急ぎ足で出口へ向かう。そしてドアノブに手をかけたところで、一言だけ言っておかなくてはならないことを思い出して、振り返る。


「ありがとう。その、旨かったよ、カフェラテ。オレと同じくらいの歳なのに、あんなすごいの作れるなんて、アルマ……さんはすげーと思う」

 慌てて口走り、それから急に気恥ずかしくなり、返事は待たずに勢いよくドアを押す。

「いつかオレが金持ちになったら、彼女でも連れてまた来るから! そんときは、今日のカップで出してくれよな!」


 我ながら、まるで捨て台詞のよう。きっと、ロンドンの春の夕暮れが自分に言わせたのだと思う。

 アルマのまとうエプロンのように朱に染まるブルームズベリーの気取った街並みは、昨日までよりは悪くないものに見えた。

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