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深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち  作者: 天見ひつじ
配達少年とエアカッスル・モカ
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配達少年とモカ・エキスプレス

 平日の昼下がり。お客のひけたお店の中で、天窓から差し込む数条の光がカフェ・アルト自慢のオーク材の床上でゆっくりと位置を変えていく。店の前の通りから聞こえる人の話し声さえ遠く、うとうとしてしまいそうな静けさを引き立てる役にしか立たない。誰も見ていないのをいいことに、わたしは思い切りあくびをし、組んだ両手をぐっと上に伸ばした。


「ふぅ、んーっ」


 背骨や肩のあたりで、ぽきぽきと骨の鳴る音がする。ケトルから注ぐお湯がぶれないよう綺麗に保持するのには意外と腕力を使う。誰も見ていないときを見計らってストレッチしないと、ときには明日の仕事にも影響する。だからこれも大事な業務の一環なのだ、と問われもしない言い訳を頭の中でこねつつ、わたしは半ば無意識に自分用のコーヒーを淹れる準備を始めていた。


「えーっと」


 自分のために入れるコーヒーは、大きく二つに分類できる。純粋にわたしが愉しむためのものと、お客に出せるように技術の向上を狙ってのものだ。今日の気分はやや前者寄りなので、繰り返し使うことでようやくコツもつかめてきたモカ・エキスプレスを使って淹れることにする。直火式エスプレッソと呼ばれる濃い抽出液をたっぷりの砂糖とミルクでいただく、自分用としてはちょっと贅沢な一品。


 戸棚からモカ・エキスプレスを取り出す。マキネッタとも呼ばれるこの道具の構造はとても単純で、抽出されたコーヒーが貯まる上部のサーバー、水を入れる下部のボイラー、コーヒー豆を受けるためのバスケットで構成されている。樹脂製の柄とアルミの本体は見るからに機能的で、佇まいは美しくすらある。


 豆は南米産のSHB――スティーリーハードビーン――を選択。一定以上の標高で産出された豆を示すストリクトリーハードビーンの等級名と、鉄のように固い性質とをかけた洒落っぽいブランド名の豆で、深煎りに向いているのでこのところ愛用している。真っ黒になるまで深煎りし、微粉になるまで念入りに粉砕した豆から抽出されるコーヒーは、そのまま飲むと眉間にしわが寄るほど苦く、そして芳醇だ。


 漏斗状のバスケットにコーヒー豆を詰め、軽く叩いてならす。それからボイラーに水を入れ、バスケットをセットし、最後にくるくる回してサーバーを固定すれば準備完了。そのまま火にかけて、あとは砂糖とミルクの準備をしながら待っていればいい。もちろんそれらはいつでも使えるように準備してあるから、わたしはカウンター内に置いた小さなスツールにそのまますとんと腰を落とし、腕を枕にしてカウンターにべったりと貼りついた状態でお湯が沸くのを待つ。


 からん、と。酷く控え目な音を立ててベルが来客を知らせたのはそんなタイミングだった。


「……いらっしゃいませ?」


 中を窺うように細く開けられたドアが、意を決したように大きく開かれる。そこに立っていたのは、洗いざらしの服に頑丈そうな革カバンを肩からかけた少年だった。逆光になっているのもあって、うつむき加減の表情は上手く読み取れない。


「中へどうぞ」


 どうしていいか分からないといった様子で立ち尽くしていた少年は、わたしが声をかけるとぎくしゃくと前へ進み、ドアが閉まるばたんという音ではっとなったように振り返る。利発そうな栗色の瞳は宙に言葉を探すかのように泳ぎ、なにか言いあぐねているのだということは容易に読み取れた。


「え、えっと、あの、オレ、何でも屋アンディのとこの……」


「ああ」

 それで思い出す。

「いつだったか、届けものに来てくれたよね。名前は、そう、トム・ウィットニーくん」


「え、うん、そう……」


 少年は少しだけほっとした顔を見せるが、すぐに口を引き結んでしまう。


「座って?」


「え?」


「こないだ君が配達してくれたモカ・エキスプレスって道具を使ってコーヒーを淹れてるところなの。お客さんもいないし……もし急いでないなら、飲んでいって欲しいな」


 ちょうど水も沸騰したようだ。気化した湯気の圧力でお湯が逆流し、フィルタを通してサーバーにコーヒーが満たされていく。その心地よい音を耳にして、わたしは自分の口元が緩むのを感じた。そのまま耳を澄まし、抽出液に空気が混じるこぽこぽという音が聞こえたところで火から下ろす。


 美味しいコーヒーは時間との勝負だ。いったん少年から視線を外し、カップを二つ用意する。たっぷりの砂糖を溶かしいれ、先細りのミルクポットから慎重かつ手早く注ぐ。薄茶色の表面に、それぞれハートとクローバーが描き出されていく。わたしはそれを崩さないよう、そっとカウンターに乗せ、再びの問いを口にする。


「トム君が好きなのは、ハートとクローバー、どっちなのかな?」

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