配達少年と花売りの少女
ソーホー地区については無視するか、少なくとも公の場では話題にしない。それがロンドンの紳士淑女の嗜みなのだと、そう言われているのを少年は耳にしたことがある。なんでも昔はこの辺りにも上流階級の人たちが住んでいたが、外国人の流入やいかがわしいお店が増えたことで良識ある人はみな引っ越してしまったのだとか。
「なら、ここに残ってるオレらはまともな人間じゃねぇってことかよ、はん」
少年にとっては、物心ついたころからソーホーは今のソーホーだ。怪しげな英語を話すフランス人、逆に英語訛りのフランス語を話す英国人、あるいは音楽家や役者、作家――を自称する――大勢の男女。気難しくも気紛れに色々なことを語ってくれる学者に、豊満な肢体を見せつけるような衣服を身にまとった気のいい女たち。それらが混然一体となって異様な活気に溢れているのがソーホーという場所であり、それはお上品な他の地区にはない魅力だと少年は思っていた。
古い貴族の邸宅を買い取って一人で住む変わり者ヘンリー・メルクルにワインを届け、昼間から路地でたむろす男たちが肩をぶつけたぶつけないのでもめる様子を横目に人垣をすり抜け、安アパートに情婦を連れ込んでいたらしいトマス・ディランの半裸姿に白い目を向け、街角に立っていたメアリーから客にもらったという菓子を渡されたので歩きながらぱくつき、当たりを付けた二件目の酒場でディガーのじいさんを捕まえてステッキを握らせる。
「あとはこの小箱か」
少年は細い路地を抜け、オックスフォードストリートへと足を向ける。ブルームズベリーのカフェ・アルトには以前一度だけ届けものをしたことがある。イタリア製の、コーヒーを淹れるために発明された道具なのだと若い女のマスターが言っていた。あんな苦いだけの代物を作るためにわざわざ外国から道具を仕入れるなんて物好きなことだと思ったのを覚えている。
「はあ……」
荷物が軽くなったせいか、あるいは朝から忙しく働いてきた疲れからか。少年はため息をついて立ち止まる。昼近くなった春のロンドンの陽気は動き回っていると少し汗ばんでくるほどだ。少年は箱を手に持ったまま、上着を脱いで腰に結び直す。行儀のいい紳士淑女は眉をひそめるかも知れないが、暑いものは暑いのだ。我慢して汗をだらだらと流している方がよほど見苦しいと少年は思う。
人と馬車が頻繁に行き交うオックスフォードストリートに出て、頭の中に地図を思い描きながら右へ折れる。場所はロンドン大学の裏だったはずだから、適当なところで大通りを横断する必要があった。多くの馬車が列をなし、ときおり自動車も走り抜けていく石畳の大通りはよく賑わっている。少年は横断のタイミングを計って道路へと注意を向けながら歩いていた。
「……ん」
だから、少年がそれに気付いたのはほんの偶然だった。癖のある金色の髪を肩にかかるまで伸ばし、交差点で突っ立っている少女。春とはいえ朝夕は肌寒そうな露出の多い服装。そして年齢に係わらず、ある種の人間に特有の雰囲気は、少年にとって見慣れたものだった。
一目見て、視線を外せなくなってしまう。
見惚れたわけではない。
ただ、目を離した瞬間に彼女は死ぬと直感したのだ。
「――――ちっ」
気付かなければ、他人でいられたのに。そう思った瞬間、人の間を縫って走り始めていた。自分が置かれた境遇の酷さに世を儚む人間など、今日び珍しくもない。どこの馬の骨とも知れない子供を引いたところで、馬車の持ち主は罪にも問われない。馬と馬車が無事であることを確認して、多少は憐憫の情を抱いたなら警官を呼んで事情を説明し、それで終わり。
よくあること、よくあることだ。
それなのに。
気付いたときには、身体が動き出していた。
半ば自棄を起こして、少年は大声を上げる。
「おいあんた! そっから動くな!」
通りに響き渡る少年の叫びが自分に向けられたものだと直感し、少女はびくりとなって振り向く。その顔に浮かぶのは恐慌をきたしたような表情だ。少女は少年の姿を視界に捉えると、彼女を連れ戻しにきた追っ手だと勘違いしたのか、ぎゅっと目をつむって道路へ向き直ってしまう。逆効果だった、と後悔を噛み締めながらさらに足を速める。間に合え、と神に祈るような気持ちで念じる。
ふらりと踏み出す少女の手首をなんとか掴み、思い切り引っ張って歩道へ引き戻す。少女の鼻先を馬体がかすめ、勢い余って道路に飛び出しかかった少年自身も尻餅をついた。その拍子に肩からかけていたカバンが石畳に激突し、陶器の砕けるなんとも言えない嫌な音が耳朶へと届く。
「ああ――もう」
バカなことをした。
少年の胸に顔を押し付けて泣き始めた少女を抱き寄せながら、配達少年は天を仰いだ。