真夜中の少女とホット&ブラック
物珍しそうに、しかしそれを悟らせまいとゆっくり視線を走らせる少女の手を引いて、わたしはカフェ・アルトの店内へと舞い戻る。少女にはスツールに腰掛けてもらい、暖炉の種火に焚き付けの木切れと香りのいいりんごの薪をくべる。少し迷って、コートを脱ぐのはもう少し温まってからに決める。
「髪、濡れちゃったでしょう?」
「ありがとう」
少女は大人しくタオルを受け取ると、黙ったまま髪に当てて、水分を吸わせていく。背筋の真っ直ぐ伸びた座り姿といい、やはり生まれの良さを感じさせる。それだけに、こんな真夜中に一人で歩いていた理由が気になった。ブルームズベリーの治安は決して悪くないものの、それでも夜のロンドンは少女が一人歩きしていい場所ではない。
「コーヒーでいいかしら」
「……ええ、いいわ」
ケトルを火にかけて、手早くネルドリップの準備を済ませる。豆はカフェ・アルト特製ブレンド、手ずから焙煎した真っ黒なイタリアンローストを選択。ケトルの底から泡が立ち始めるのを待って、ミルクパンに注いだミルクを弱火にかける。ミルクを泡立てるためのフローサーもすぐ手に取れるところに置き、二人分の豆をフィルタに入れて綺麗に均せば、後は水が沸騰するのを待つだけ。
「ミルクと砂糖はどのくらい?」
わたしの問いかけに、少女は目線を上げると澄まして答える。
「貴方はいつもどうなさっているの? わたしもそれを同じものをいただくわ」
その表情に、つい悪戯心が頭をもたげる。
「ブラックだけれど、苦いのは大丈夫?」
「……飲めるわ。大丈夫」
コーヒーでいいかと問うたときにもあった、一瞬の間。
「苦いのが好きな子供なんていない。もし子供がブラックを頼んだなら、それは大人っぽく見られたいか、でなければ舌が鈍いかだ」
少女には聞こえないよう、小さく呟く。これもまたお師匠さまの言葉だ。そしてお師匠さまはこうも付け加えた。そういう子には、思い切り濃くて苦いのを飲ませてやりなさい。いい経験だから、と。あの人は、最高にいい笑顔を浮かべて、そんなことを言う人だった。
「これ、りんごね。……いい匂い」
少女がぽつりとつぶやくのと時を同じくして、わたしの鼻にも薪の燃える甘く上品な香りが届く。チップにすれば燻製にも使えるりんごの薪は、なにかの記念や祝い事など、特別なときしか焚かないとっておきだ。
「わかるの? なら、こういう匂いはどうかしら」
後ろの戸棚から、薄茶色のスティックが詰まった瓶を取り出して開く。
「これはシナモンね。お母さまがよくクッキーを作ってくれたわ」
「うん、大丈夫そうね。いいわ」
ちょうどお湯も沸いた。ケトルとネルフィルターを手にして、蒸らしのお湯を注ぎ入れる。よくお湯を吸ってむくむくと膨らむ豆のアロマを楽しみ、頃合いを見計らって注ぎ入れたお湯で円を描くように崩していく。きめ細かな泡を大切に育てるように、細く滑らかに。抽出されたコーヒーは、予め温めてあったサーバーに少しずつ貯まっていく。
「すごく手際がいいのね。感心しちゃった」
「それはどうも、ありがとう」
サーバーから大きめのマグカップに七分目まで注いで、シナモンスティックを差してカウンターに乗せる。
「さ、召し上がれ」
「いただくわ」
少女は冷たくなった指先を温めるように両手を添えると、よく吹き冷まして、どこか覚悟を決めたような顔つきでマグカップに口をつける。その様子を見届け、わたしも自分のカップに口をつける。シナモンの強い香りが鼻を突き抜け、目の覚めるような苦みが口中に広がる。
「少し苦かったかしら」
「いえ。ちょうどいい、苦さよ」
明らかに強がりとわかる言葉を少女が口にする。
「それに……すごく、いい匂いだわ」
こちらは本心だろう。最古のスパイスとされるシナモンは、匂いだけではなく身体にもいい。
「全部は飲まないで待っててね?」
「え?」
可愛らしく首を傾げる少女には微笑みだけを返しておく。ミルクパンを火から下ろし、取っ手をつけたビーカーという風情のミルクフローサーへと移し替え、たっぷりの砂糖を溶かし入れて蓋をする。上部に付いたレバーを数十回動かしてやると、温めて泡立ちやすくなっていたミルクが最初に注ぎ入れた量の三倍にも膨れ上がる。
「貸してね?」
受け取ったマグカップに、フローサーの底に貯まったミルクを注ぎ入れる。自分のカップにも注ぎ、それから容器の中にたっぷりと残った泡をスプーンですくい、カップに浮かべる。
「……わあ」
ふわっふわのミルクに、少女が目を輝かせる。
その可愛らしさに、思わず口が緩んだ。
もう少し、サービスしたくなる。
引き出しから、取っ手の先に円盤状のものが付いた道具と、チョコレートパウダーを取り出す。型を抜いて目の細かい網を取り付けてある円盤を泡立ったミルクのすぐ上で支え、パウダーを振ってから指で軽く叩いてやる。円盤をそっとどければ、茶色のパウダーで描かれた『枝に留まる蝶』がその姿を現す。ミルクやピックで描くよりも素早くできるのが、特注したこの道具の強みだ。
「ちょうちょ……」
「そう」
「……かわいい」
かわいいのは、蝶を一心に見つめる彼女もだ。
「冷めないうちに、どうぞ」
カップの向きをくるりと変えて、少女の前に置く。カップにかからないよう髪を押さえ、食い入るように覗き込んでいる。そうして固まっていたのは数秒ほどだろうか。少女は名残を惜しむかのようにカップを両手で包み、そっと口をつけた。
「ん……」
甘いカフェオレを口に含み、ゆっくりと顔を上げて目を丸くする仕草は、自らの愛らしさをよく弁えているからこそ。わざとらしくても、それでもなお見る者に嬉しいと感じさせる。そんな表情だった。カップを半分ほど空けて、少女はほうっと息をつく。
「そろそろ温まってきたかしら? よかったらコートを預かるわ」
「ありがとう」
少女の脱いだピーコートを預かり、自分のコートと一緒にスタンドへかける。そんなわたしの動きを少女の視線が追い、その視線はお客用のスタンドの隣にある『魔女の一休み』で留まった。
「それは……?」
「これ? さあ、なにかしらね?」
「…………古い三角帽と、ほうきね」
これを見たものなら誰もがそう思うように、きっと彼女も魔女を連想したはず。子供っぽいと思われるのを嫌ったのか、それをあえて口にしなかった心の内を想像すると、とても微笑ましい。
「このお店にはね、魔女がいるの」
「なにかの迷信かしら?」
「いいえ、ほんとよ」
「ここにいるのは、わたしと貴方だけでしょ?」
「魔女はね、三角帽とコートを脱ぐと見えなくなってしまうの」
わたしがそう言って視線を走らせると、少女もつられてそちらを見る。
外のみぞれは止んだのか、それとも雪になったのか。薪の燃える音だけが響く、心地よい沈黙がお店の中に満ちていた。そろそろ、頃合いだろう。
「ねえ、お嬢さん。貴方はどこからいらしたの?」
「…………」
少女はきゅっと口を引き結んでうつむく。顔を上げて口を開いたのは、たっぷり十秒ほどもかけてからだった。
「イズリントンから。わたし、これからウェールズのおじさまのところへ行くの」
「夜のロンドン、とりわけ凍えるような雪の夜は、レディの独り歩きには向かないわ」
「……そうね。けど大丈夫。盗まれて困るものなんて、持ってないから」
少女は肩をすくめる。口調はどこか投げやりで、強がりの滲むものだった。
「ええ、それなら強盗は怖くないでしょうね。けど、怖いのはそれだけかしら?」
「どういうこと?」
「例えば、そう。貴方のハートを射止めたくなる人がいるかも」
「貴方みたいに?」
「ええ。他にもいるわ」
「例えば?」
例えば、裕福そうな子供に目を付けた人さらい。あるいは着るものにも事欠く浮浪者。お金は持っていなくとも、彼女自身に価値を見い出す輩はいくらでもいる。それに思い至らないのは幸福な育ちの証拠か、あるいは自らの価値を不当に低く見積もっているがゆえか。
いずれにしろ、そのようなものとは係わらないに越したことはない。
だからわたしは、思い浮かべたのとは別のものを口にする。
「そう、例えば……魔女とか」
目配せして、玄関脇の『魔女の一休み』へと視線を向ける。しかし少女が再び振り向くことはなく、ただ黙って首を振るだけだった。返ってきたのは、強がりが滲みわずかに震える声音。
「魔女なんていないわ」
きっとこちらを睨む彼女に、わたしは笑って応える。
「いいえ、いるわ。このお店にひとり」
「貴方が魔女なの?」
「ええ、みんな『深煎りの魔女』とわたしを呼ぶわ」
それを聞いて、少女はくすりと笑う。
「貴方にぴったりの名前ね」
「そう?」
「ええ。だって、見ず知らずのわたしに、こんなにも深入りするのだもの」
「……そうかも知れないわね」
頭の回る子だ。言葉も、慎重に選んでいる。打ち解けたようでいて、実は彼女はまだ自分のことをほとんど話していない。他者との間に引かれた確かな一線。それはレディの嗜みというより、小さく愛らしい彼女本人の資質なのだろう。簡単には立ち入らせてくれそうにない。わたしは小さくため息を吐く。
「コーヒーを淹れて、お話を聴くのがわたしの仕事。責任も持てやしないのに、過剰に踏み込むべきじゃない。わかってはいるのだけど、ね」
「……後悔してる?」
「いいえ」
小首を傾げる少女に、わたしは即答する。
「わたしはきっと、そうするしかなかった。たとえもう一度繰り返すことになったとしても、わたしはそうすると思う」
「……幸せだった?」
「ええ、もちろん」
「ねえ、魔女さん。貴方のお話を、聴かせてくれる?」
「長くなるわよ?」
「いいわ。おいしいコーヒーのお礼に、貴方のお話をわたしが聴くわ」
「そう、それなら――」
わたしは話す。お師匠さまと過ごしたかけがえのない日々を。心優しき配達少年と薄幸の少女の出会いとその顛末を。陽気な開拓者の愉快な自慢話を。若き証券王の心の安らぐひとときを。酔いどれた元炭鉱夫が語る古き良き時代を。そして真夜中の少女との運命の出会いを。
どれくらい話しただろうか。うとうとして、かくんと舟を漕いだ少女の姿を見て、わたしははっとなった。少女と出会ったときからずっと感じていた、既視感に似たなにかの正体。そして気付く。少女に聞かずとも、少女がなぜここにいて、これからどうするのかを自分が知っていることに。
「……ごめんなさい。わたし、寝てしまっていたかしら」
うっすらと目を開いた少女は、相変わらず眠そうに言う。
「構わないわ。お話もちょうど終わったところ」
「そう……」
疲れも溜まっていたのだろう。眠気に抗えず、少女はカウンターに顔を伏せる。
「ねえ、アルマ」
わたしは少女に呼びかける。
「貴方、行くところがないならわたしのところへ来ない?」
「…………ん」
少女は楽な姿勢を探すように身悶えするだけだ。
わたしは彼女の赤毛を撫で、もう一度問いかける。
「ね?」
「…………うん」
おそらく、少女は聞こえてもいなければ、何を聞かれたのかもわかっていない。それでも、彼女は答えた。魔女の問い、契約のための質問に。いまこのときから、彼女はわたしの弟子になった。わたしがそう決めた。そう、お師匠さまがわたしを弟子にしたときのように。




