配達少年とソーホーの住人たち
ロンドンはソーホー地区の猥雑な雰囲気の漂う一角、外国人が営む安価な食いもの屋や何を売っているのか知れない怪しげな店に交じって、その店はあった。店内には、眼鏡をかけて銀食器を吟味する肥満の中年男性と、背の低い少年がモップで床を掃除する姿が見える。暗い店内はお世辞にも楽しそうな雰囲気とは言えず、中年男性がため息をついて吟味の手を止めると緊張に空気が張り詰めた。
「おう」
「なんだい、おやっさん」
おやっさんことアンディ・アラートマンの商店で働く少年は、すわ怒声が飛ぶかと身構えつつも平静を装って答える。しかしビールっ腹で赤ら顔のおやっさんは眼鏡の奥から細い目に不機嫌さを湛えてぎろりと少年を睨みつけると、流暢かつ怒涛のごとき悪罵をその大きな口から垂れ流し始める。
「一度しか言わねぇからよく聞け。いいか? この『バカしか読まねぇ本』をトマス・ヘボ詩人・ディランに、そこの『悪趣味もいいとこ』ステッキをモーリス・酔いどれ・ディガーのじじいに、『テムズ川をがぶ飲みした方がまし』ワインをヘンリー・フランス舌・メルクル自称男爵閣下に届けてこい。ロバの真似なんぞしてねぇでさっさと戻るんだぞ。いいな、わかったな『偉大なる』トム?」
「ああ、わかったよ!」
おやっさんの声量たるや、店の外を歩く人間が目を丸くして中をのぞき込むほどだ。これをソーホー名物『アンディの歌声』と持ち上げる向きもあるが、そいつを真正面から浴びる身にもなって欲しい。まったく、頭の回転を持て余している人種はこれだから嫌なのだ。少年はこれ以上の罵声が飛んでくる前に、レンガのように分厚い本の包みを肩からかけたカバンに突っ込み、女の裸体が彫金されたステッキを小脇に挟んで、いかにも高級そうな木箱詰の重たいワインを抱え込むと表通りへ飛び出そうとした――ところでがっしりとした手に肩を掴まれる。
「待て、こいつもだ」
ずいっと目の前に差し出されたのは、綺麗な包み紙と真っ赤なリボンで飾られた手のひら大の箱だった。怪しげなものやいわくつきのもの――すなわち高額なもの――ばかり扱うおやっさんの店にあって、それは少年が初めて目にする類のものだった。
「中身はなんだい? どこまで持ってけばいい?」
それは、何気なくした質問だった。だがおやっさんは物凄い勢いで振り向くと、少年に詰め寄りながらいらいらとした様子で吐き散らす。
「お前さんがこいつの中身を知ってどうするってんだ『水増し』トムさんよお? ええ? こいつの中身はお前さんの齢と違ってごまかせるようなもんじゃねぇぞ? いいか、間違ってもすり替えようだのちょろまかそうだの考えるんじゃねぇぞ『正直な』トム? 落として壊すなんてもってのほかだ『注意深い』トム? いいか、お前さんはブルームズベリーのカフェ・アルトにこいつを届けて帰ってくるんだ。わかったな?」
「はいよ。ブルームズベリーのカフェ・アルトね」
「全く、あの魔女には二代続けて頭が上がらんときた。ああ、腹が立つ……ん? まだいたのか『素早い』トム? それとも話が終わったかどうかもわからんか『聡明な』トム? さあ、行くんだ。早く!」
「ああ、わかってるよ!」
ぶつぶつと呟いているからなにかと思えば、これだ。全く、やっていられない。店を出て角を曲がり、間違ってもおやっさんには見つからない場所まで来てから大きく深呼吸し、勢い良く首を鳴らす。さあ、仕事だ。頭を切り替えて、どこをどう回るかを頭の中で組み立てる。
ブルームズベリーはここソーホーからだとロンドンの大動脈オックスフォードストリートを挟んだ向かい側となる。箱もそう大きいものではないし、配達は最後に回せばいいだろう。重くて取り回しの悪いものを優先し、ワイン、本、ステッキ、小箱の順番で配達しようと決める。言われなくともこれぐらいの頭の使い方ができなければ、おやっさんのところではやっていけないのだ。
さっさと終わらせて、旨いものでも食おう。
少年は心の中でつぶやき、ロンドンの街へと飛び出した。