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深煎りの魔女とカフェ・アルトの客人たち  作者: 天見ひつじ
真夜中の少女とフロート・ライカ・バタフライ
18/21

真夜中の少女と魔女の一休み

 夏の雨ならときには打たれてみるのも悪くない。けど冬の雨に打たれているひとを見たなら一杯のコーヒーを振る舞ってやりなさい――とはお師匠さまの言葉だっただろうか。十二月のロンドンを覆う陰鬱な鉛色の雲が過ぎ去る気配はなく、雨は朝からずっと降り続けている。


 幸いなことに、カフェ・アルトを訪れるお客の中に冬の雨に打たれる羽目になった人間はいなかったらしい。カウベルは夕方から閉店まで沈黙を保ち、窓を叩く雨音が自分以外に音を立てる者のいない店内に空しく響く。


「――ふぁ、あ」


 カウンターにうつぶせるようにして、わたしはあくびをする。あまりにヒマなので、普段使わない食器を磨いたり、新しいレシピを考えたり、それを実際に試してみたりした挙句、やることがなくなってカウンター内の小さなスツールに腰を下ろして小一時間。うとうとしているところを見られなかった、という意味ではお客が一人も訪れないのは幸運だったのかも知れない。きっと、試作したチョコとアーモンドのトルテを食べ過ぎたのがよくなかったのだ。


「今日はもう、ダメねぇ」


 ポケットから取り出した真鍮の鍵を、手の中でもてあそぶ。摩耗した猫の瞳が灯りを照り返し、不思議な魅力を湛えてわたしを見返す。その気取った横顔を見ていると、ブルームズベリーの顔役と呼ばれたルシアのことを思い出す。丁寧に整えられた灰色の毛並みと、思慮深げな翡翠の瞳。彼の姿を見なくなって久しいが、彼の血を継ぐ子供たちは今なおブルームズベリーで澄ました顔をしている。


「この子ともずいぶん長い付き合いになるものね」


 お師匠さまからいただいた大切な鍵だ。折れたり曲がったりしてしまう前にお役目を終わらせてあげようと思って、一か月ほど前に馴染みの錠前屋さんに新調を依頼してあった。代替わりしたばかりとのことで出迎えてくれたのは三十そこそこの若い職人だったが、先代の作品なのだと知ったときの緊張感と対抗心に引き締まった顔を見て、頼むことを決めたのだ。


「いや、いいもんを見せていただきました。先代がこんな仕事をするなんて知りませんでしたしね。任せて下さい、きっと先代にも負けないものを作ってお渡ししますよ」


 彼はそんな風に言っていた。胸をどんと叩く、その気負った顔が妙に可笑しかったのを覚えている。実はいま使っている鍵自体、先々代が亡くなってすぐ――つまり先代が後を継いだ矢先に製作を依頼した鍵と錠なのだと聞いている。お師匠さまと先代さんも同じような会話を交わしたのかと想像すると、少し楽しい。


「ま、お終いにしましょうか」


 軽く勢いを付けて立ち上がり、両手を組んで伸びをする。シャッターを下ろして、鎧戸も締める。床は綺麗なのでテーブルや椅子はそのままにして、入り口の脇に置かれたカフェ・アルトのシンボル『魔女の一休み』のコートスタンドから真っ赤なロングコートを手に取る。勢いあまって落ちそうになる色褪せた三角帽を天辺にかけ直してからコートに腕を通す。色と形状が記憶の中にあるお師匠さまのものに瓜二つだったので、ちょっと似合わないかなと思いつつも買ってしまったものだ。


「うん、かわいい」


 お客用のコートスタンドの側には小さな鏡がかかっている。その中で微笑む自分は、我ながらお師匠さまに雰囲気が似てきたと思う。お師匠さまは赤が大好きで、赤いものを好んでいつも身につけていた。その姿がとても可愛らしくて、いつの間にかわたしもそうするようになって、もうどれくらいになるだろうか。わたし自身は落ち着いたブルーやブラウンも好きなのだが、年齢を重ねるに連れて赤の良さがわかってきて、それもまた自分がお師匠さまに近づいた証にも思えて、とても嬉しい。


「えっと、忘れ物はないかしら……」


 五月病の季節でもなかろうに、ここのところ忘れ物が多い。そんなところまでお師匠さまに似なくてもいいだろうと思うのだが、一人でやっているお店なので自分で気を付けるしかない。独り言は、意識して口に出すようにすると忘れ物やうっかりがなくなるというお師匠さまの教えを守っているうちに癖になったものだが、最近になってその大切さを実感するようになった。


「…………」


 なぜだろう。最近、お師匠さまのことをよく思い出す。そういえば、お師匠さまと初めて会ったのも、今日のような凍える冬の夜だったことを思い出す。冷たい手にカップからじわりと熱が移り、感覚が溶け出すようなあの瞬間。寒いのは好きではないが、寒い日の温かい飲み物は大好物だ。帰ったらホットミルクでも作ろうと決める。


「雪にならないといいのだけど」


 雪そのものには何の恨みもないが、雪の日でいい思い出はたった一つしかない。日本土産にともらった、朱に紅葉をあしらった唐傘を片手に提げて裏口から真夜中のロンドンへと一歩を踏み出す。


「ああ、寒い……」


 雨はいつの間にかみぞれへと変わって石畳を叩いていた。どおりで冷えるはずだと納得し、後ろ手に扉を閉める。小さなひさしの下で鍵穴に鍵を差し込み、軽く力を入れて回した。擦れるような金属音と、わずかな引っかかり。扉に付いた錠前それ自体も見てもらった方がいいだろうかと思案しかけ、足元からブーツを通して這い上がるような寒さに身体を震わせる。


「……風邪引いちゃうわね」


 こんな日は、早く帰ってホットミルクでも飲んでさっさと寝てしまうに限る。体調を悪くした人間のする料理ほどまずいものはない――これもお師匠さまの教えだ。わたしは唐傘を広げ、家へと向けて歩き出そうとして――ふと足を止める。


「…………?」


 なにか不思議な予感に導かれ、ゆっくりと振り返り、わたしはそれを――その子を見つけた。そして、気付いたときには踵を返してそちらへと歩き出していた。上品な紺色のピーコートに両手を突っ込み、革のブーツとハイソックスで石畳を踏みしめ、震えながらもみぞれの降る夜空を見上げる少女。冬の雨の中、傘も差さずに歩いてきたのか、肩まで届く赤毛とコートはしっとりと濡れていた。


「ねえ、そこのお嬢さん――」

 猫に声をかけるつもりで、驚かさないようにゆっくりとした調子を心がけて。

「――もしよかったら、わたしのお店でコーヒーでもいかがかしら?」

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