酔いどれ元炭鉱夫とライフ・ポーター
地に潜る者だけが、太陽の光のありがたさを真に知ることとなる。暗い坑道の中、幾日もランプで過ごした身には、目蓋を通してさえ感じられるその光は暴力的ですらあった。そう、ディグ・オールドはがっしりとした背中の上で、目蓋の裏に太陽の光を感じて覚醒したのだった。
「気付いたかい? もう少しだ、頑張れよ」
汗にまみれたその男が、ディグを揺すりあげながらも話しかけてくる。
それが、ディグ・オールドとジョーンズ・ポーターの出会いだった。
「ほら、水だ。ゆっくり飲め。気つけのウィスキーもありゃいいんだが……そうだ、腹は減ってるか? パンでももらってくるか?」
坑道から少し離れた場所に張られたテントでディグを下ろすと、ポーターは甲斐甲斐しく世話を焼き始める。熊のように大きな身体が落ち着きなく動き回る様はユーモラスで、ディグは思わず微笑を誘われてしまう。
「なあ……」
「ん?」
振り返った顔は、美男と呼ぶに値するものだった。
この辺では見ない、粉塵にまみれて煤けていない男の顔。
「あんたが助けてくれたのかい?」
徐々に記憶が甦ってくる。そう、自分は落盤事故に巻き込まれたのだとディグは思い出す。事故が起きてどれくらい経ったのか。大勢の炭鉱夫仲間と一緒に閉じ込められて衰弱していたところまでは記憶がある。その後は朦朧としていたが、状況を考えればこの男が背に負って太陽の下まで引き上げてくれたのだろう、とは推測できた。
ただわからないのは、彼が炭鉱夫ではなく郵便配達人の格好をしていること、そして一度も見たことない顔であることだ。ディグの知っている郵便配達人は、老齢でとても炭鉱の中からディグを引っ張り上げられるような人物ではなかった。
「俺かい? 俺の名前はジョーンズ・ポーター。新しくこの辺りを担当する郵便配達人さ」
男は快活に答える。自分を指差すその仕草さえどことなく洒脱を感じさせる男だった。そして、思い当たる。
「ポーター。じゃああんた、ジョーンズ・メールポーターの?」
「手紙運びのジョーンズは親父さ。ところで、あんたの名は?」
「ディグ・オールド」
「なるほど。老け顔ってわけだな」
「うるせぇよ、ジョーンズ・ライフポーター」
よくよく話を聞いてみれば、腰を悪くした父親の仕事を引き継いでの初仕事で鉱山を訪れたのがちょうど落盤事故発生直後のことだったらしい。何人もの炭鉱夫が閉じ込められていると知ったポーターはそのまま仕事をほっぽり出して救助に加わり、誰よりも精力的かつ勇敢に働いて何人もの人間を救い出したのだという。
命の運び手、ライフポーター。
そんな綽名を献上されたロンドン帰りの伊達男が炭鉱夫たちに仲間の一員として愛されるようになるまで、それほど時間はかからなかった。賭けごとに滅法強く、その美声で吟遊詩人顔負けの歌を響かせ酒場を沸かし、仲間のためとあらば誰よりも献身的に身体を張り、へまをやらかしては女に振られ、飲めない酒を飲んでは酔い潰れる彼の愛すべき人柄を嫌う者は一人もいなかった。
愉快な、とても愉快な日々だった。
そして二十年が経つ。渦中に身を置いていれば酷く長く思えるが、過ぎてみればあっという間だったような、そんな日々だったように思う。時代は移り変わり、その間も石炭の需要は増減こそすれ、決してなくなることはなかった。ディグはそれなりに出世して部下を任される立場となり、ポーターは鉱山で働く人々とそれぞれの故郷を繋ぐ窓口としての郵便配達人の仕事を、持ち前の体力と陽気さでひょうひょうと務めていた。
「ポーターよぉ」
「なんだよ、ディグ」
その日、郵便配達の仕事を終えたポーターはそのまま鉱山に留まり、ディグたちと一緒にパブで夕食を取りつつ酒を酌み交わしていた。最も、ポーターの前に置かれているマグカップの中身は酒ではなくコーヒーだ。このパブのまずいコーヒーを注文するのは、最初に注文して懲りる新参者を除けばこの二十年間というものこいつしかいない。
「聞きたいことがあるんだが、いいか?」
「なんだ、改まって。らしくないぞディグ」
「いや、大したことじゃないんだが……お前さん、あの落盤事故を覚えてるか?」
「ん? ああ」
「お前さんはあのとき、別に見返りが期待できるわけでもねぇってのに命懸けで救助に加わってただろ?」
「そうだったか?」
「そうだよ。そんでだ。いまさら聞くのもなんだが、ありゃなんでだったんだ? 当時のお前さんは、鉱山に知り合いがいたってわけでもねぇだろ? それなのに命を懸けて、大した報酬も期待できない救助に参加したのはなんでだ? いや、助けてもらった恩は忘れちゃいねぇんだが、よくよく考えたらどうにも気になっちまってよ」
なぜか言い訳めいてしまった質問に、ポーターは当たり前のように答える。
「決まってるだろ、お前を助けるためさ」
「あ? そりゃ順序が逆だろうが」
今でこそ親友と呼べる仲だが、ディグとポーターが知り合ったのはあの落盤事故がきっかけだ。それなのに落盤事故の際に身を挺してディグを救ったのがディグのため、では道理が通らない。しかしディグの追及に対して、ポーターはおおらかに笑ってみせるだけだった。
「正直に言えば、忘れちまったよ。まあ、いいだろ。それよりコーヒーでも飲んで落ち着けよ」
「んな泥水飲めるかよ」
「泥水とは失敬な。芳醇な香り、味わい深い苦み、気分を高揚させるカフェイン。コーヒーはこの世で最も優れた飲み物だよ」
「仮にその言葉が本当だとして、このボロっちい酒場の粗悪な豆で作ったうっすい煮汁にゃ当てはまらないと思うけどな。ていうか、お前さん、以前は紅茶だのミルクだのレモネードだのって頼んでたじゃねぇか。いつからコーヒー党になった」
「ん、んん、そうだったかな」
「ははん。さてはあれか。ロンドンに繰り出したときに一目ぼれしただのなんだのって騒いでたカフェのマスター。あの子に告白でもしたんだろ。で、見事に撃沈したはいいものの忘れるに忘れられず、未練がましくこんなクソまずいコーヒーを飲んで彼女のことを思い出している、と」
カマかけの効果は、てきめんだった。
「な、なんのことだ。そのような不純な動機で俺は……!」
「不純、ときたもんだ」
二人のやり取りに、周囲で会話を聞いていた人間も笑う。ディグはそれに憤慨した様子でカウンターから離れようとするポーターの肩をつかんで引き止め、軽く背中を叩いてなだめてやる。腹の底に響く、嫌な――本当に嫌な――音がその場にいた全ての人間を沈黙させたのは、その直後だった。
「おい、今のって」「落盤か?」「ここまで聞こえるなんて、でけぇな」
男たちが小声で囁き交わす中、ポーターは常と変らぬ口調でディグに問いかける。
「なあディグ、この時間帯、メイヤーの野郎が潜ってんじゃないか?」
「あ、ああ、そうだな」
「エヴァンズのバカと、ジョン坊や。あの二人もじゃないか?」
「そうだな、くそっ。無事だといいんだが」
思えば、その時点でおかしさに気付くべきだったのだ。知り合いでもない人間のために命を懸けるような人間が、知り合いや友人の命が危険に晒されたとき、どうするのか。ポーターは、おどけた口調で言い放つのだった。
「そうか……なんてこった、あいつらには賭けの貸しがあるんだ。こりゃどうも、取り立てに行かないといかんようだな」
「ポーター、お前なに言って……おい待てよ!」
ポーターはいっそ陽気とも取れる口調で言い放つと、勢いよく立ち上がって酒場の出口に向かった。ディグも慌ててその後を追う。時刻はもう夜で、みんな酒が入っている。軽率に坑道へ踏み込めば自分も巻き込まれる可能性があった。いかにポーターと言えど一人でやれることには限界がある。ついつい忘れてしまうが、そもそもあいつは素人なのだ。
「ポーター! くそっ、暗いな。どこ行きやがった!」
決まっている。奴は坑道へ向かったのだ。ジョーンズ・ライフポーターはそういう男だ。落盤事故という非常事態を前にして奇妙な興奮に声を押し殺す人々を横目に坑道の側へ急ぎ向かうと、作業長のカムバックが銅鑼声を張り上げているのが聞こえてくる。
「いいからさっさと全員叩き起こせ! 酔っぱらってる野郎にゃ水をしこたま飲ませてアルコール抜け! 使える野郎どもは数が集まったらまずは坑道内の状況把握だ! おいそこの、ちょっと待て! お前中から出てきたな、話聞かせろ! あん? なんだ怪我してんじゃねぇか! こんなとこでうろちょろしてねぇでバッカゲイン先生のとこ行ってこい! おう、さっさとするんだ!」
「カムバックの親父!」
カムバック作業長が振り返る。使い古したシャベルのような顔が、苦く歪んでいる。それだけで、容易ならざる事態が進行しているのだと知れた。
「ディグか! どうした!」
「ポーターを見やせんでしたか!」
「……バカ野郎、どうしてお前が引き留めなかった!」
「ってこたぁ……!」
「もう突っ込んでっちまったよ! おっと待てよ、いいか、これ以上俺さまに面倒事を押し付けんじゃねぇ。お前にゃこれから来るやつをまとめて作業に当たってもらう。俺さまの指示があるまでそこで待機だ。暇なら中から出てくるやつの話を聴いて、要点だけまとめて報告しろ!」
「ちっ……わかったよ!」
それから三日。一人で坑道に突っ込んだ親友のことを気にはかけつつも、ディグは目の前の仕事に忙殺され続けた。不安定な地盤はその後も度々崩れ、その度に犠牲者は数を増やしていった。ディグは自分の下に付いた男たちの命を守るので精一杯だった。
酷い事故だった。原因は分かっている。増産に次ぐ増産を迫られ、今までは見込みが薄いか危険に見合わないとして放置されていた方面まで坑道を伸ばし、足りない人出は経験の浅い人間を大量に雇って補う中での出来事だったのだ。
死者三十六人、行方不明者五十人、負傷者多数。
ディグは負傷者に、ポーターは行方不明者にカウントされた。
このとき足を悪くし、仕事に嫌気も差したディグは炭鉱夫を止めた。
楽しかった日々の、それが結末だ。




