酔いどれ元炭鉱夫とチャッタバウト・オールデイズ
喪服を着た元炭鉱夫ことディグ・オールドに初めて出会ったのは、わたしがまだ十二歳のときだった。そのころはまだお師匠さまがいて、わたしは三角帽を頭に乗せた小さな魔女のウェイトレスとして、大きな朱のエプロンと紅茶色のお下げを振り回してお店の中を駆けずり回っていたのだった。
「邪魔すんぜマスター。いつものをくんな」
「一年ぶりね、ディグさん。そう、もうそんな季節なのね」
スツールにどかりと腰を落とした老ディグの前に、黒ビールをたっぷりと注いだパイント・グラスがさっと置かれる。ディグは待ってましたと言わんばかりにグラスを鷲掴みにして傾け、口の周りに付いた泡を拭うとぷは、と息をついた。
「っと。品が無くてすまねぇな」
「構わないわ。ほら、アルマ。これをディグさんのとこに」
「はい、お師さま」
普段のカフェ・アルトを訪れる常連客とは少し毛色の違う雰囲気をまとう老ディグ――と言っても当時は六十歳前後だっただろう――に、わたしはフィッシュ&チップスの皿を届ける。腰掛けてなお目立つ長身と、老木のようにがっしりと深いしわの刻まれた手に視線を奪われていると、わたしの存在に気付いたディグもその大きく澄んだ青い瞳をこちらへ向けてくる。
「おう、可愛い嬢ちゃんじゃねぇか。どっからさらってきた?」
「弟子のアルマよ。ほら、挨拶して」
「初めまして、おじいさん。わたし、アルマっていいます」
ぺこりと頭を下げると、後ろに垂らしていた魔女帽子のとんがりが勢い余ってディグの身体にぺしりと当たる。しかし謝ろうと思って慌てて顔を上げようとしたところで、帽子の上からがしがしと頭を撫でられてしまう。がさつで大きな手。わたしの頭など握りつぶされてしまいそうだと思ったのを今でも覚えている。
「はっは、おじいさんときやがったか。なあマスター、こりゃまたずいぶんと可愛らしい弟子じゃないか。うちの孫どもより躾ができてやがる」
「そりゃどうも」
「しかしなんだな」
ディグはフライを口に放り込むと、顔の前でグラスを揺らしてみせる。
「こりゃほんとに『ポーター』か? ずいぶん薄いじゃねぇか」
そう言って大袈裟に顔をしかめるディグに、お師匠さまもまた大袈裟に肩をすくめる。
「正真正銘、ポーターですよ? ただし流行りの『マイルド・ポーター』だけれど」
「なんだ、そりゃあ?」
「ほら、先の戦争で穀物の値段が上がったでしょう? これじゃ儲けが出ないってんで仕方なく薄いのを作ったら、若い人にはそっちの方が人気出ちゃったってわけ。もっと濃いのがお好きなら、アイルランド産を出すけれど」
「アイルランド産だぁ? わしがじゃがいも野郎の造った酒を好かんのは知っとろうが」
「貴方の目の前にあるそれはなんなのかしらね?」
お師匠さまが、カウンター上の皿に視線をやってさらりと笑う。
対するディグの答えは堂々としたものだった。
「こりゃフィッシュ&チップスだ。じゃがいも野郎の料理とはワケが違う」
「ああ、そう……」
冗談なのか本気なのか分からないその言葉に、お師匠さまが天を仰ぐ。つられてわたしも上を見るが、そこには柔らかに光を注ぐ天窓があるだけだった。十月の陽の光は、優しく温かい。
「とにかく。他に誰も注文しないからわざわざディグさんのために用意した『イングランド産の』ポーターを出してあげてるの。つべこべ文句言わないで飲みなさいな」
「そうかい」
ディグがグラスを空にする。注文するまでもなく、すぐさま代わりのグラスがカウンターに置かれた。空いたグラスはすでに片付けられている。お師匠さまときたら、まるで時間を支配しているかのようにいつの間にか皿やグラスを並べ、そして片付けてしまうのだ。こればかりは真似ができない。
「すまねえな。……おっと」
ポケットを探ろうとして、何かに気付いたように手を止める。そんなディグの様子を見て、お師匠さまは薄く笑いを浮かべると、腰に手を当ててわざとらしくため息をついてみせる。
「ここはパブじゃないって、いつになったら覚えてもらえるのかしら?」
「あと十回も来たら覚えるさ」
「まだ十年も生きるつもりなの?」
そんな遠慮のないやり取りに、最初は少しひやひやしたものだ。しかし、それがディグにとって最も心地よい距離感と空気なのだということに気付くまで、そう時間はいらなかった。ちょっと荒っぽくて、声が大きく、とても優しく、恥ずかしがり屋な元炭鉱夫。ディグ・オールドはそんな男だった。
「しかしなぁ」
ディグは嘆息と共にグラスをもてあそぶ。
「年々ポーターが薄くなってくってのはさみしいもんだ」
「思い出って、そういうものよ」
空になったフィッシュ&チップスの皿が下げられ、代わりにウナギのゼリー寄せが置かれる。添えられたフォークは見慣れたシンプルな銀製のものだったが、スプーンはなぜか木製だった。その妙な取り合わせを不思議に思い、わたしはつい疑問を口にしてしまう。
「お師さま」
「なあに?」
「あの、スプーン、洗って仕舞ってありますけど……」
「余計な口を挟まないの」
わたしを叱るお師匠さまが子供のように口を尖らせて様子を見て、今度は老ディグが豪快に笑う。
「はっは。可愛い弟子をそんな邪険にしてやるなよ。……ほら、嬢ちゃん。こっちに来てよく見てみな」
お師匠さまがうなずくのを見て、わたしはカウンターの向こうに回る。ディグの大きな手に収まっているといかにも小さく見える木のスプーンには、素朴だが力強い彫刻が施されていた。
「こいつぁウェールズの伝統でな。ラブスプーンってんだ。ほんとは飾っておくもんなんだが、まあ、年に一回だからな。ほら、見えるか?」
スプーンの持ち手に刻まれているモチーフは三つ。ハート、蹄鉄、そして竜の意匠だ。変わった組み合わせだった。そんな気持ちが顔に出ていたのだろう。ディグは解説の言葉を加えてくれる。
「モチーフにはそれぞれ意味があるんだ。ハートが愛、蹄鉄は幸運、赤竜ならウェールズのシンボルってな具合にな。男は自分の気持ちに沿った装飾を考えて、自分の手で彫ったスプーンを愛する女に渡すってわけだ」
「……ロマンチックなのね」
なら、このスプーンは誰から誰に贈られたものなのだろう。もしかしたら、若かりし日のディグがお師匠さまに贈ったものだったりするのだろうか。そんな想像は、ディグの苦笑交じりの言葉で否定される。
「おっと、勘違いするなよ嬢ちゃん。こいつはわしが彫ったもんじゃねぇ。わしの親友が彫って、そんでマスターに贈ったもんだ。はっは、やつめ、ずいぶん高望みしやがったもんだ」
「へえ……?」
お師匠さまにも、そんなラブロマンスがあったのだと思うと、少し不思議な気分に包まれる。
「おっ、目を輝かせちまって。嬢ちゃんもいっちょまえのレディ、ってわけだ。ああ、一世一代、見るも無様な愛の告白の結果が聴きたいかい? 聴きたいだろ? ああ、もちろん、ふられた。ったく、この店にゃ一年に一回か二回しかこれねぇんだからやめとけって忠告してやったのによ、ポーターの野郎ときたら、死ぬまで女の扱いが下手な奴だったよ」
わたしはディグの言葉にふと疑問を抱き、お師匠さまを見上げる。
それを察したお師匠さまが、先回りして答えてくれた。
「ポーターさんは、ディグさんの親友だった人よ」
だった、という言い回しでわたしは察する。
老ディグが似合わない喪服を身につけている理由にも。
そんなわたしの様子を見て取り、ディグはわたしの頭を乱暴に撫でるのだった。
「そんな顔するない。やつはもういないが、後悔を残すような死に方はしちゃいねえ。……そうだな、嬢ちゃん。いい機会だ。あいつのことを忘れちまわないように、思い出話に付き合ってくれるかい? たまには話してやらねぇと、このポンコツな頭は親友のことすら忘れちまうんだよ」
ディグはそう言ってわたしの頭から手をどかしたかと思うと、猫でも持ち上げるかのようにひょいとわたしを持ち上げ、自分の隣のスツールに座らせるのだった。スツールはお客様のもの。そう教えられていた私は、そっとお師匠さまの顔を伺う。
お師匠さまは、仕方ない、とでも言いたげにうなずいてくれた。わたしはようやく安心して、若き日のディグとポーターが繰り広げた数々の心躍る武勇伝に聴き入ることができるのだった。




