若き証券王とディレイ・ウィズ・ベット
からんからん、と心地よく鳴り響くカウベルの音色が午前中にあった嫌なことを頭の中から洗い流してくれる。上質な料理と酒を楽しもう。僕はそう決めると、意識して微笑みを浮かべながらオーダーを口にする。
「やあ、マスター。いつものを頼むよ。食後のコーヒーもね」
カウンターの一番端、ちょうど柱の陰になって入り口からは見えない席に腰掛ける。僕がいつもこの席を選ぶことを知っているマスターはロールスクリーンを下ろしてくれるが、こちらを見つめる視線になんとなく違和感を覚える。
「ええっと、ロイドさん、今日はお一人で?」
マスターが置いてくれたグラスは濃いオレンジの液体を湛えている。
「うん、予定が変わってね。これはミモザだね?」
「ええ、そう……」
グラスを顔に近づけると、細かい気泡がぱちぱちとシャンパンに特有のアロマを弾けさせる。オレンジジュースのフレッシュな酸味は、食欲を掻き立てる食前酒としてこの上ない。流石は深煎りの魔女、こちらの気分を汲んでぴったりのドリンクを提供してくれる。
「シャンパン、それは飲んだ女性を綺麗に見せる唯一のワイン、か。彼女にも飲んで欲しかったものだ」
そんな僕の呟きに、マスターはなにか言いたげに微笑むと料理に取り掛かった。ほどなくして目の前に置かれたのはカナッペだった。薄切りのバゲットに乗っているのは生ハム、そしてスモークサーモン。強めに塩を利かせてあり、もう少し食べたいと思ったところで皿が空になる。気付けばグラスも空になっていた。
「今日は趣向を変えて、ロゼになさいますか?」
「うーん。そうだね、そうしようか」
この日のためにマスターにお願いしていた、極上のロゼだった。マスターは手のひら大の氷を手にすると、ピックで削って球形に整えていく。いつ見ても見事な手際だ。オールドファッションドグラスに注がれた桜色のワインは、曇り一つない透明な氷も合わさって輝くようだった。僕はしばし見惚れ、手の中でグラスを転がして香りをゆっくり楽しんでから口をつける。当然ながら味も素晴らしい。視覚、嗅覚、味覚を存分に楽しませてくれるそいつを飲み終えるころには、新たな臭いが嗅覚を刺激し始めていた。
「ああ、いい匂いだ」
で、ランチの際は必ず、それこそ夏でもこれを頼むことにしている。とにかく大好物なのだ。
「いただくよ」
大振りのスプーンを手に取り、たっぷりとチーズの乗った中心部分に差し入れる、その瞬間。
「待って」
マスターが僕を制止する。いったいなんだろう。そんな疑問を顔に浮かべただろう僕に、マスターはいいことを思いついたと言わんばかりの顔で、こう言うのだった。
「わたしと、賭けをなさいません?」
「賭け、かい?」
僕は問い返しつつ、手元のグラタンに目をやる。熱々の内に食べたいという意思表示のつもりだったのだが、マスターはそれには構わず言葉を続ける。
「ええ、賭けです。条件はたった一つ。このグラタンを最後まで食べきること。簡単でしょう?」
「それは……賭けになるのかな?」
グラタンは僕の大好物だ。そして僕はいまお腹を空かせている。なんだったら二皿食べてもいいくらいだった。
「ええ、その代わり、全部食べる前に席を立ったらわたしの言うことを何でもひとつ聞いて欲しいの」
そんな風変わりな賭けの提案に、僕は肩をすくめて答える。
「マスターの頼みが僕にできることなら、むしろ進んで協力したいくらいだけどね」
「それではダメなの。ねえ、お願いロイドさん。最後まで食べ切ってくれたなら、それでいいの」
「ふむ。つまり」
僕はマスターの言葉をよく吟味する。相手の言葉の裏を考えるのは、職業病と言っていい。
「きみは僕にグラタンを完食して欲しい、ということかな?」
マスターは黙って微笑む。
「確認しておくが、僕が食べられない何かが入っていたりはしないだろうね?」
「お客様に料理を提供する料理人の端くれとして、誓って」
「うん、乗ろう。じゃあ、いただくよ」
僕はスプーンでグラタンをすくって持ち上げる。そのときだった。
からーん。遠く響いた鐘の音に、僕は思わず顔を上げる。
ロイズの鐘。しかも海難事故発生を知らせる『一回』だった。まさか、マスターはこれを知って。いや、ありえない。ロイズより先に海難事故発生を知るのは、海鳥だけだのだから。
そんな、頭の中に渦巻く疑問が顔に出たのだろう、マスターは申し訳なさそうな表情を浮かべている。しかし、戯れめいた賭け事のために仕事を疎かにするわけにはいかない。
「すまないが僕の負けということにしてくれないか。お願いは今度、必ず」
マスターは僕の言葉を途中で遮って言う。
「では、いま、ここで、グラタンを最後まで食べ切っていただけますか?」
「マスター!」
流石に、苛立ちが口調に出てしまう。なぜこんな意地悪をするのか。
「約束、ですよね?」
「ぐ……」
約束、対価、条件、契約。そんな言葉に僕は弱い。そう、確かに僕は賭けで負けた。約束は果たさなければならない。それがルールだ。ルールはすなわち信頼であり、それを破った瞬間に僕の仕事は成り立たなくなる。
「分かった。全部食べようじゃないか」
半ば自棄を起こし、スツールに腰掛け直してスプーンを手に取る。
表面のチーズこそ少し冷めかけているが、中のミートソースはまだ熱く、急いで食べれば火傷してしまいそうだ。息を吹きかけて冷まし、スプーンを口に運ぶ。旨い。この味に惚れ込んでこの店に通うようになったのだ。旨いに決まっている。一度口にしてしまえば、もう手が止まらなくなってしまう。
「……引き留めてしまって、ごめんなさい」
ぽつりと、マスターが言う。
「今さらそれは、ずるいな」
僕はグラタンを口に運ぶ手を止める。少し頭も冷えて、怒る気はもう失せていた。
「それに、一口も手を付けずに出ていこうとした僕にも非がある。やはりマスターのグラタンは最高においしいよ。これを食べずに店を後にするなんて、それこそ犯罪だ」
店の前で何かが衝突するような音がしたのは、そのときだった。
「事故、ですね……」
マスターは独り言のように口にする。直前にブレーキ音もしたから、おそらく車がなにかに衝突したのだろう。外では通行人が助けを呼ぶ声がしていた。どうやらかなり大きな事故のようだ。気にはなったが、しかし僕はまだグラタンを食べ終えていなかった。僕は無駄口を聞かずスプーンを口に運び続け、マスターもその間ずっと目を伏せて黙ったままだった。かちゃかちゃとスプーンが皿に触れる音だけが響く。
「ごちそうさま」
綺麗に食べ終え、感謝の言葉を口にする。何度も何度も、まるで訂正するかのように鐘が打ち鳴らされる音が耳に届いたのは、役目を終えたスプーンを皿に置こうとしてかちゃりと音が鳴るのとほぼ同時だった。その鐘の音色、それは紛れもなくロイズの鐘だった。鐘は海難事故の発生時に『大きく一度』そして無事の帰港に際して『複数回』鳴らされる。ということは、先ほどの鐘は誤報、だったのだろうか。そう頻繁にあることではないが、前例がないわけではない。
「どうやら、僕が急いで行く理由もなくなってしまったようだよ。結果から言えば、グラタンを食べていて正解だったってわけだ」
肩をすくめる僕に、マスターはとても魅力的なウィンクを投げる。
「さ、コーヒーをどうぞ」
円筒型のマグをそのまま小さくしたようなデミタスカップがカウンターに置かれる。チーズと肉の匂いにも負けない強く上品な香り。深煎りの魔女の面目躍如、とびっきりのエスプレッソだった。




