若き証券王とデイ・トゥ・ナイトメア
この世で最も不愉快な文明の利器が、じりりりと鳴って覚醒を促す。僕はサイドボードに手を伸ばし、叩いて止めてからベッドの中で伸びをした。なにか悪夢を見たような気がするが、目覚ましの衝撃ですっかり忘れてしまった。それよりも今日は久しぶりの休日、彼女とのデートだ。顔を洗って髭をそってから、テーラードにチノを合わせ、ハットをかぶって家を出る。
待ち合わせ場所には、すでに彼女がいた。
「やあ、待たせたかな?」
「エディ! 遅いじゃない!」
二か月ぶりの彼女は記憶にある通り美しかった。
「仕事が忙しくてね。その埋め合わせに、今日は君に尽くすと誓うよ。さあ行こう」
やや機嫌の悪い彼女をなだめすかしつつ、買い物に向かう。そうしてしばらく二人で過ごしていれば、いつまでも膨れっ面を浮かべてはいられないものだ。
「そうだ、聞いてくれるかい?」
「なにかしら」
「今思い出したんだけど……今朝、悪夢を見たんだよ」
「……それ、デートの最中に話すこと?」
「ああいや……ごめん、悪かったよ。忘れてくれ」
「きっと仕事の悩みのせいでしょう? 今日はそんなこと忘れて、楽しいことだけ考えましょう。せっかくのお休みなんですもの」
「うん、そうだね。君の言う通りだ」
と、そんな場面もありつつ、会話は順調に弾む。なんとか機嫌を直してくれそうだ。そんな予感にほっと一息ついていると、ふと遠く鐘の鳴るような音が耳に届く。思わず反応してそちらを見る僕の気配を捉え、彼女は咎めるような視線を向けてくる。
「仕事は忘れてって言ったでしょう?」
「いや、でも……」
低く遠く、鐘はロンドンに響き渡り、そして消えていく。間違いない、ロイズの鐘だ。教会のそれとは異なり、時刻ではなく海難事故の発生を知らせる『ロイズの鐘』は、沈没などの悲報が入ったときは『大きく一度』そして無事に帰港するなどの吉報の際には『複数回』鳴らされる決まりとなっている。
つまりこれは、小さいながらも海上保険会社の社長である僕の仕事の始まりを告げる音色なのだ。ちょっとした事故ならいいが、僕が抱えている顧客には数百人以上乗れる大型客船もいる。タイタニック号の悲劇を思い返せば、こんなところで女にかまけている場合ではなかった。
「すまない、僕の抱えてる顧客かどうかだけでも確認してこなくちゃいけないんだ。この辺のカフェに入って待っててくれないか。もし他の会社の担当してる船だったら、すぐに戻ってくるからさ」
彼女の返答を待っている時間はなかった。僕と同じ名を持つロイズの本社へ向けて、駆けだした。デートを中断させられて残念だと思う気持ちもあったが、それ以上に仕事へ向けて身体と頭脳が全力で動く準備を始めるこの瞬間。これがたまらなくて、僕ことエドワード・ロイドは仕事をしているのだ。
「おや、エド。きみは今日、休日のはずだろう?」
ロイズ本社の近くまで来たところで、馴染みのアンダーライター仲間に呼び止められる。
「ロイズの鐘を聴いて、ね。デートは切り上げてきたよ」
「相変わらず、仕事熱心なことだ。だが残念ながら、と言っていいのかわからんが、他のやつの担当らしいぞ。ずいぶんでかい船が沈んだらしいな。名前はなんと言ったか……ともかく、きみはデートに戻れるなら戻った方がいいぞ。彼女さん、ずいぶんご機嫌斜めにしてるんじゃないか?」
笑う彼に向かって、僕は肩をすくめて見せる。
「なんだ、張り切って損をしたな」
そんな僕を見て、彼は少しだけ真面目な表情になる。
「大体、きみにだって部下はいるだろう。少しは信用してやらなくちゃ可哀想じゃないか?」
「うん、分かってはいるんだが、鐘の音を聞くとじっとしてられなくてね」
「きみの唯一の悪い癖だ」
「……放っておけよ」
恋人だけじゃない。家族も、友人も。証券屋として駆け回るロイドを金の亡者と蔑み、有能ではあるが血も涙もない悪魔と評して離れていく。だがそのような情に流されていてはこの仕事はできない。数字、そして確率。それが全てだ。それ以外のものを差し挟む余地はないし、それに納得できないやつは遅かれ早かれこの世界を去っていくことになる。
「……戻るか」
少しだけ立ち話をして、彼とは別れる。
僕は彼女の下へ戻ることにした。ゆっくりと、歩いて。
彼女はいなかった。
近くのカフェに入っているのかと淡い希望を抱いて探してみるも、一軒目、二軒目ともに彼女の姿を見た店員はいない。ダメ元で入った三軒目で「貴方がロイドさん?」と聞き返されたときには、小躍りしそうになってしまった。それだけに、続く言葉は僕に大きな衝撃を与えた。
「彼女さんからの伝言です。『二度と顔を見せないで』とのことでした」
「…………。そうか、ありがとう」
好奇心でうずうずしている、という顔を隠そうともしない店員にチップを渡し、僕は店を後にする。最悪の気分だった。仕事を優先するからといって、嫌われることに何も感じないわけでもないのだ。僕は気分を落ち着けるために深呼吸を三度繰り返し、それでも晴れない胸の内をなんとかするべく、旨いランチでも食べようと決めた。




