若き証券王とストウン・パス
からんからん、と心地よく鳴り響くカウベルの音色。僕はこのひと時を全力で楽しむことに決め、午前中にあった嫌なことは頭の中から締め出すことにする。およそ二十分。人が混乱から立ち直って冷静な思考を取り戻すのに必要な時間であり、ランチを取るのにぴったりな時間でもある。
「やあ、マスター。いつものを頼むよ。食後のコーヒーもね」
カウンターの一番端、ちょうど柱の陰になって入り口からは見えない席に腰掛ける。窓の側で日差しがきついが、僕がいつもこの席を選ぶことを知っているマスターはさりげなくロールスクリーンを下ろしてくれた。生地を通した柔らかな光が磨き抜かれた床板に降り注ぎ、心落ち着く空間を作り出す。
「ロイドさん、今日はお一人で?」
マスターが置いてくれたグラスは濃いオレンジの液体を湛えている。
「うん、予定が変わってね。これはミモザかな?」
「ええ、いいシャンパンが入ったの」
グラスを顔に近づけると、細かい気泡がぱちぱちとシャンパンに特有のアロマを弾けさせる。炭酸が抜けないように氷を入れていないので、手の熱で温まる前に口に含む。オレンジジュースのフレッシュな酸味は、食欲を掻き立てる食前酒としてこれほどふさわしいものはないと思わせてくれる。
「シャンパン、それは飲んだ女性を綺麗に見せる唯一のワイン、か。彼女にも飲んで欲しかったものだ」
そんな僕の呟きに、マスターは何も聞かなかったかのように黙って微笑むと料理に取り掛かった。ほどなくして目の前に置かれたのはカナッペだった。薄切りのバゲットに乗っているのは生ハム、そしてスモークサーモン。強めに塩を利かせてあり、もう少し食べたいと思ったところで皿が空になる。気付けばグラスも空になっていた。
「ロゼをご用意していましたけど……?」
「うん、やめよう。軽めの赤ワインで頼むよ」
この日のためにマスターにお願いしていたのだが、無駄になってしまった。マスターが手際よく削り出す丸い氷に輝くような薄いピンクのロゼワインは、きっと彼女を魅了していただろうことを思うと、残念でならない。いやいや、そのことはもう忘れよう。余計なことを考えていても折角の料理が不味くなるばかりだ。
「うん、いい感じ。わたしもお腹空いてきちゃった」
「ああ、いい匂いだ」
熱く焼けたチーズの匂い。厚みのあるグラタン皿はごとりと重く、カウンターの上で地獄のようにくつくつと煮えるチーズ、そして赤黒いマグマを思わせるミートソースがなんとも食欲をそそる、カフェ・アルト特製ミートソースグラタン。僕のお気に入りの一品で、ランチの際は必ず、それこそ夏でもこれを頼むことにしている。とにかく大好物なのだ。
「いただくよ」
大振りのスプーンを手に取り、たっぷりとチーズの乗った中心部分に差し入れようとしたそのとき、長く尾を引く鐘の音が耳朶を打つ。
「――ちっ」
遠く響く鐘の音に、僕は思わず舌打ちしてしまう。
「全く、なんて日なんだ」
「お仕事、ですか?」
マスターは小首を傾げて問いかける。
「ああ、そうみたいだ。残念だし、申し訳ないけれど、行かなくちゃ」
そう口にはしてみるが、グラタンを食べ損ねた嘆息は抑えられない。
「はあ……仕方ない、また来るよ」
名残惜しいが、スプーンを置いて席を立つ。
「代金はここに。慌ただしくてすまないね」
「いえ……またのご来店、お待ちしてます」
「うん、では行ってくるよ」
勢いよくドアを開いて、道に飛び出る。
その瞬間。
大きな衝撃と共に、視界がぐるんと回転した。
頬に冷たさを感じ、石畳に触れたときの感触に似ているな、と気付く。まだ昼前なのに妙に暗い。急に空が曇ってきたのだろうか。今日は一日晴れのはずだが。それに、どうも寒い。もう夏だと言うのに酷い寒けだ。遠くで鐘が幾度も幾度も慌てたように打ち鳴らされている。ああ、うるさいな。なにをそんなに騒いでいるのだ。僕は急いでいるというのに、これでは足が動かないじゃないか。
「――――、――――!」
暗くぼやけた視界に、悪魔のように真っ黒な人影が映る。
壁に直立するその影は、僕に駆け寄るとしゃがむようにして顔を覗き込んできた。
「ロイドさん! しっかり!」
肩を揺さぶる悪魔の声は、マスターのそれによく似ていた。




