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カフェ・アルトへようこそ

 四月の早朝。ロンドンの肌寒くも爽やかな空気を胸いっぱいに吸い込む。


 猫をモチーフにした真鍮の鍵で裏口からお店へ入ると、絡み合うコーヒー豆の香りが鼻孔をくすぐる。汲み置きの澄んだ水をケトルでコンロにかけ、一人きりのキッチンに立つわたしは両手を組んで思い切り伸びをした。引っ張られたシャツをスカートの中へ綺麗に戻し、軽く頬をはたいて気合を入れる。そろそろお店の準備を始めなければ、開店に間に合わなくなってしまう。


「……と、その前に――」


 コートを脱いで、ウォールナット製のスタンドにかけて形を整える。少し離れて、全体の確認。今日はアイスランド帰りのお客さんからプレゼントされた、北海を思わせる灰青色のダッフルコートだ。スタンドに立てかけられた藁のほうき、天辺を飾る大きな黒の三角帽と合わせ、北海の魔女といった趣を醸し出している。今では店のシンボルとなったコートスタンド、人呼んで『魔女の一休み』のできあがりに満足し、わたしは開店準備に取りかかることにする。


「よいしょっ……と」


 カウンターのスツールとテーブルの椅子を床に降ろし、綺麗に並べて。鎧戸を開けて、塵芥に塗れる前のロンドンの空気をお店の中に取り入れる。小さなほうきを片手に内側から扉を開け、木製のシャッターも押し上げる。頭上で小さく揺れるブロンズの看板には三角帽の図案と絡めてカフェ・アルトと装飾文字が刻まれている。お店の周りを軽く掃き清め、扉にかかったクローズをオープンへとひっくり返していると、足元に温かいものが触れた。


「おはよ、ルシア」


 ローファーにしなやかな体躯をすりつけてくるのは、ロシア生まれとの触れ込みでこの界隈のお店の人に可愛がられている雄猫だった。美しい灰色の毛並みと翠緑の瞳はどことなく高貴さを漂わせ、お気に召した相手にしかなつかないことで知られている。彼に認められるのは真面目でいい仕事をしてきた証、というまことしやかな噂もあり、わたしは彼と仲がいいことを少しだけ誇らしく思っている。


「おいで。ミルクあげる」


 扉を押さえて促すわたしに、ルシアは上目遣いで首をすくめるような仕草を見せると、そのまま音もなくお店へと足を踏み入れていく。わたしもお店の入り口脇に置かれていた大きなミルク瓶を抱えてそれに続く。彼が人に鳴き声を聞かせることはほとんどない。首をすくめる癖がうなずきに見えることと合わせ、いわく言い難い神秘性を見る者に感じさせる猫なのだ。彼がある種の敬意をもって遇されている理由でもある。


 わたしは戸棚からミルク皿を手に取り、彼を驚かさないようにゆっくりとしゃがんでから床に皿を置き、静かにミルクを注ぎ入れる。しばらくの間、お店の中にはぴちゃぴちゃとミルクを舐め取る音、そしてケトルの蓋がかたかたと鳴る音だけが響く。わたしはしばしルシアを眺め、それからまた音を立てないように気を付けながら腰を上げ、キッチンへ向かった。


「そういえば、きのう挽いた豆がありましたっけ」


 お客がいないか、いても気心の知れた常連が一人か二人のこの時間帯は、わたしの一番好きな時間帯のひとつだ。いったんケトルの火を落として、各種コーヒー豆やコーヒー用の器具が収まるカウンター内の棚の前に立つ。どの豆を、どう淹れて、どのように愉しむかを考える一瞬は何にも代えがたい。輸入業者にして常連客でもあるバーナードさんに仕入れをお願いした豆をカウンターに置く。昨夜、手ずから焙煎した豆は保存瓶のふたを開けた途端に濃厚なフレグランスを周囲に広げた。


「いい豆……バーナードさんにも淹れてあげなきゃ」


 抽出はネルドリップにしよう。そう決めて、手早く道具を準備する。フランネル地のドリッパーを取り出し、瓶から豆をすくい入れる。お湯も、沸騰が収まっていい感じ。陶器のサーバーの上でドリッパーを構えて、豆全体にまんべんなくお湯を注ぎ入れる。蒸らしの時間を置いて豆が膨らんだのを見計らって、再びケトルを傾けて抽出を開始する。抽出されるコーヒーと注ぎ入れるお湯の量はほぼ均等になるように。細心の注意を払い、同時にその工程と過ぎゆく時間を楽しむ心持ちで。


「ん、ちょっと豆が多かったかな?」


 新しい豆に気分を良くして、気が大きくなっていたらしい。二杯分はありそうなコーヒーを前にし、そろそろお客もくる頃合いだと思い直す。ひとまず自分の分だけでもと思ってカップに移し替えたその瞬間、控え目なベルの音色がカフェ・アルトへの客人を知らせてくれた。見計らったかのような来客に嬉しくなり、わたしは笑顔を浮かべてお客を迎え入れる。


「カフェ・アルトへようこそ。淹れたばかりのコーヒーはいかがかしら?」

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