第八話(サイドB)
「悪いが、エスコートは他をあたってもらえるかな」
ソファーへと腰かけ、彼女にもテーブルを挟んだ正面のソファーを手で示し座るように勧めた。勧めたくはなかったが、一応、客に対する礼儀として。
「今、お茶を持ってこさせよう」
執事に目線で指示すると、黙礼し執事は部屋から出て行った。扉を開け放ったまま。
独身の貴族女性と二人きりというのは望ましい状況ではない。そのため、あらぬ噂の的にならないように扉を開けたままにしておくのだ。自衛のために。
「冷たいのね。スリナートと一緒にいたことを怒ってらっしゃるの?」
彼女は美しい顔で声のトーンを落とし、話し続けた。
「あれは、あの人が強引に付きまとっていただけよ。私はあなたと一緒にいたかったのに」
彼女はそう悲しそうに目を伏せた。強引につきまとっていたとは、彼も迷惑なことだ。彼と別の女性の間に強引に割って入ったのは彼女だったと記憶している。
せっかくの美しさも、上手く生かしきれていないようだ。彼女があの男の方へ行かなければ、自分は彼女にプロポーズしただろうか。
控えめな話し方、それなりの容姿と教養を備え、特に難点はなく結婚相手としては望ましいと思っていた。
今は欠片もそんなことは思えないが。
軽いノックの後、開いた扉から女中が茶器をのせたワゴンを押して入ってきた。カチャカチャと静かな部屋に茶器の音が響く。
「用件はそれだけかな?」
それならお引き取り願おう、と彼女に視線で知らしめる。
その扱いに彼女は顔を引きつらせた。そして、方法を変えることにしたようだ。
「こちらの女性使用人はそんなに具合がいいのかしら。夜な夜な主人の相手をしているなんて」
彼女はお茶を入れたカップをテーブルにおこうとしている女中に侮蔑の目を向けた。
「憶測で物を言わない方がいい。根も葉もない噂を流すつもりなら、こちらもそれ相応の対処をしなければならない」
ハッキリと彼女に告げる。
「あら、私はこの目でみたのよ? 使用人と戯れているところを」
「僕が恋人と仲のいい場面を目にして苛立つのはわかるが、そんなことを口にして恥ずかしくないのかな」
「恋人ですって? ただの使用人じゃない」
「それがどうした? 使用人の何が悪いのかわからないな」
「はっ、使用人なんて身分の低いどこの産まれかもわからない遊び女じゃないの」
信じられないとでもいうように彼女は目を見開き大袈裟に驚いてみせた。
「ほう? 自分とは違うとでも言いたそうな発言だ」
冷やかな言葉を彼女に投げかける。彼女はそんなことには少しも怯まず自信満々に答える。もともとこちらが素のようで、大人しい彼女は演技だったらしい。
「もちろんよ。あんな下賤な者と一緒にしないでもらいたいわね」
「どんな女性であれ僕の妻になればこのフロードラン家の人間となる。一方、君は、今は貴族の娘としての立場が保障されているが結婚すれば婚家に属することになる。立場が逆転することもあり得るとは思わないのかな?」
「そんなこと、あり得ないわ」
彼女はそう断言してみせたが、その確率は低くはない。
だからこそ、彼女が自分の中で候補として残っていたのだ、結婚しやすい相手として。切り札に自分の資産が使えると思っていたのだ。金をちらつかせようとは、自分のやり方も浅ましいとは思うが。
彼女の実家は王都に屋敷を持つ、フロードラン家よりも地位の高い貴族ではあるが領地をほとんど持たない家柄だ。過去の当主が切り売りしてしまった結果である。そのような貴族の家は多い。そういう家では、娘が金を多く持つ家柄に嫁ぎ、実家への援助を頼みにしているというのが現状だ。
そういう家の娘が地位の高い貴族に嫁ごうとするのは、そうすることで存続している家が多いからなのだろうが、それにしても愚かなことだと思う。援助してもらわなければやっていけないほどの金をどうして使おうというのかが理解できないのである。
しかも、血筋を大事にするせいか貴族であることに殊更しがみつく。金があっても貴族の跡継ぎでない男性をまるで相手にしないのである。
地位が高い貴族は、領地が広いため収入が大きい場合もあるが、代々領地を減らしている家も少なくない。領地が広ければ中小規模の領地しかもたない貴族より豊かに暮らせる。だが、領地経営に成功している例は少なく、領地の広さに見合う豊かな収益を上げている地位の高い貴族はほんの一握りなのである。しかも、地位が高い貴族はそれなりに見栄をはる家ばかりで、出ていく金も桁違いに多い。地位が高くとも火の車という貴族は巷にあふれかえっており、最近新しく貴族地位を得たもの程、裕福であることが多いのだ。
地位と生活の安定は比例しない現状を知らない女性が、なぜこんなにいるのか不思議でならない。地位が高いというだけの男性に社交デビューしたての女性が群がるのを何度苦い思いをして眺めたことか。
「そうだといいね」
話を終わらせようとするが、彼女はしぶとく話し続けようとする。もちろん、ここへ来た目的を諦めていないからなのだろう。語らなくともその目的は明白だ。
「馬車の調子が悪いの。だから貴方にエスコートしていただきたかったのだけど。参加なさらないなら、今晩、泊めてくださらない?」
彼女の馬車は走れるし、泊めろとは大胆なことを言う女性だ。この積極性でなぜ相手を捕まえられないのか。
いや、その理由など簡単だった。身分が上の男性に声をかけられる度に、次々と乗り換えるからなのだ。自業自得だが、彼女はいつそれに気付くのだろう。
「今夜は両親もいないので我が家にお泊めすることはできない。うちの馬車でお送りしよう」
立ち上がって、部屋を出て行こうとしている女中に声をかけた。
「馬車を表に回すよう伝えてくれ」
扉の近くで、彼女が立ち上がるのを待った。時間を稼ぐように彼女はお茶を飲んでいるようだが、もう十分付き合ったと思う。
扉で立って待つ自分にようやく諦めたらしく、ゆっくりと立ち上がりホッとしたのだった。
彼女が連れていた侍女とともに馬車へのせ、見送った。
書斎へ戻って一息ついたころ、部屋に入ってきた執事へ伝えた。
「マリーンにお茶を持ってこさせてくれ」
しかし、執事はすぐには答えず息を飲むのが聞こえた。どうかしたのか、と思っていると。
「マリーンは先刻ここを出て行きました」
執事が答えた。冷淡だが咎めるようなその口調に、思わず振り向き執事の顔に視線を合わせた。
彼は一瞬で感情を消し、淡々と言葉を述べた。
「お茶を運ばせます」
そう言い、そのまま部屋を出て行った。
耳に入ってきた言葉を反芻する。
彼女が出て行った。その事実は、ぽっかりと胸に風穴を開けたようだった。
手にしていた書類を机の上に放り、椅子の背にもたれかかる。
窓から入り込んだ風に書類がふわりと揺られ、少しずつ動いていく。
それを目で追いながら茫然としていた。
しばらくして、部屋に女中がお茶を運んできたが、何を言ったのかも覚えていない。
いつの間にか机の上にお茶の入ったカップが置かれている。
マリーンの自分に向ける想いを感じるのが心地よかった。
だから何度も無理に声をかけ、庭の散歩に付き合わせたり、ふざけたりしていた。
赤くなったり自分に向けてくる嬉しそうな頬笑みを見るのはとても楽しかった。
出て行った?
さっき、面白半分に自分が彼女を構ったせい、なのだろうか。嫌がっている風はなかったが、実はそうだったのか?
屋敷で雇っている女中に手を出す貴族男性の話はどこにでも転がっている。
そういう男を碌でもない奴だと思っていたというのに。
結局、自分は彼女の想いをもてあそんだ貴族男性というわけだ。
今の今まで考え及ばなかったとは。
彼女といるのが楽しかったのだ。そんなことを考えられないくらいに。
彼女が向けてくる視線に声に、自分はすっかり溺れていた。
その想いをもっともっとと欲張るばかりで。
自分が彼女をどう思っていたのか、それすらも深く考えもせず。ましてや伝えることなど。
窓からは爽やかな風が吹き抜けていく。
一陣の風が、一枚の書類をのせて空中に浮かびあがらせた。
ゆっくりと空間を漂い揺れながら落ちていくその紙は滑るように絨毯に舞い降りる。音を立てることもなく。
いつまでも、その紙を見つめていた。
風が届かないその場所に留まっている、手を伸ばしても届かないそれを。
立ち上がり、部屋の隅にあるその紙を拾い上げ机に置く。
そして、書斎を出た。