最終話
「すまない。君を追い出すことになってしまった」
そのヒュー様の言葉を耳にして。あぁ、そうか、と思った。
この方は、ご自分のせいで私が職場を追われたのだと思っていらっしゃっるのだ。
私は視線を足元に落とした。
涙が零れそうだった。
私は、期待してしまった。あるはずもない夢のようなことを。
もしかしたら、追いかけてきてくださったのではないかと。
私のことを想ってくださっているのではないかと。
どこまでも夢を見る私。
でも、でも、でも。
「いいえ、ヒューイット様」
笑顔を作ってヒュー様を見た。
視線が交差する。それは、一途に私を貫く。
「知り合いのところで働くため町を出るところでした。突然屋敷を辞してしまい、ご挨拶もせず申し訳ありませんでした」
笑顔でそう告げた。
女中を追い出したなどと思ってもらいたくない。
この方の苦い思い出として記憶に残りたくはなかった。
この方にとっては、軽い遊び心でのことかもしれないけれど、なかったことにはしたくないのだから。
私に向けられたこの方の笑顔は本物だった。私に触れた腕も胸も唇も。そして、きっとあの時の想いも。
それは、私とは違う重さだったかもしれないけれど。
ヒュー様は顔を歪めた。
その後悔の滲んだ顔は、とても見ていられなかった。それを私がさせているのかと思うと、心苦しい。
貴方にとって後悔することだったのでしょうか。
私は黙ったままの彼を置いて、そっと足を踏み出した。
後悔して欲しくなかった。
それだけは、涙が止められなかった。
◇◇◇
乗合馬車に乗り込む彼女を見かけ、追いかけてきた。
彼女を引き留めたくて、ここまで来たのだ。
だが、彼女はそれまでのような視線を自分へ向けてはくれず。平然と嘘をついた。
自分のせいで屋敷を辞めることにしたのだろうに。
責める言葉も態度もなく。
それは。
清々しているのだろうか、領主の息子の戯れにつきあわされなくてすむことを。
もうこれ以上は付き合えない、と?
八年も勤めた職場を逃げ出したのだから、そういうことなのだろう。
彼女を引き留めて、どうする? 無理に強いたことだったのなら。
何も考えていなかった自分が腹立たしい。
彼女の中にはもう残っていないのだろうか。自分を見つめた瞳に込められた想いは。
そうしているうちに、彼女は町へと歩き出した。
ゆっくりと遠ざかる彼女の足音。
それが彼女の結論なら。
そこに、立ち尽くしたまま動けず。
「マリーン」
彼女の名を漏らした。
◇◇◇
背中に想いを残したまま、未練たらたらでゆっくりとゆっくりと歩く。動かしたくない足を無理に前へと。
そこへ、小さく私の名が聞こえたような気がした。
未練がましく思っているからだろうか。私は立ち止まり振り返る。
あの方は、あの場に立ったままで。
やはり自分の気のせいだったらしい。あの様子では、もう一度職場に戻るのは止めた方がいいのかもしれない。ヒュー様に嫌な思いを抱かせてしまうかもしれないから。
お会いするのは、これが最後になるのだろうか。
「ヒュー様」
そう口に出してみる。小さな小さな声で。
きっと聞こえないだろう小さな声で。
そう呟く。
そして私は前に向き直り、再び歩き始めた。
だが、後ろから急ぎ足の音が近づき、私の動きを止めた。
私の右肩に顔を埋め、ヒュー様が身体に回した腕に引き寄せられ私は宙に浮きそうなほどで。
何が何だかわからないけれど、そのまま背中にぬくもりを感じたままじっとしていた。
「それが、聞きたかったんだ」
そう耳元で呟くヒュー様の言葉の意味はまるでわからない。
何を聞きたかった、と?
「もう一度、呼んでくれ」
そう言いながら、ヒュー様は私の髪に口づける。
呼ぶ?
「ヒューイット様?」
訳がわからないままヒュー様を呼んでみる。
「違うよ。ヒューって言ってただろう?」
と言われて、私は息を止めた。
聞こえていた? 馴れ馴れしい呼び方を。でも、聞こえてほしいとも思っていた。
そんな呼び方、できるはずがない。
けれど。
「マリーン」
催促するようなヒュー様の声に、私は無礼を承知で口にした。
「ヒュー様」
ヒュー様は、腕をとき私の正面に立つ。顔をじっと見つめられるのは非常に恥ずかしい。
顔を下げようとすると、顎の下に手を添えられ、無理に視線を合わせようとする。
観念してヒュー様の顔を見上げると、至近距離で思いの外真剣な眼差しとぶつかった。
「もう一度」
叱られるのだろうか。でも、そんな雰囲気ではない。再び促される声に私は答える。
「ヒュー様」
心の中でいつも呼んでいた名前を。
その私の呼ぶのを聞いて。少しだけ口端をあげ満足そうな安堵したようなそれは、すぐに見えなくなった。
顔が近づき、唇が塞がれたから。
「ヒュー様」
そう呼ぶと褒美のようにそれは私に落とされる。
いつの間にか私は腕の中に閉じ込められ。
私達は何度も頬を寄せ合い名を呼び繰り返した。
御者の咳払いで中断されるまで。
「帰ろう」
私は真っ赤な顔で御者の待つ馬車へ向かう。
顔が熱すぎる。乗るときに御者に挨拶すべきところだけれど、御者の方を見る勇気はさすがになかった。
今の今まで馬車の存在も、御者の存在も忘れていたなんて。
ヒュー様はそんな私の様子を楽しそうに見ながら、馬車へと乗り込んだ。
これからどうなるかわからないけれど、私の手をヒュー様の手がしっかりと握ってくれることに安心して、馬車が揺れるのに身を任せた。
この方のそばにいられるなら。
いつまでも。




