兄と妹
「もちろん聞いてもらうよ。そのために僕らはここにいる」
「違いない」
「『萌え』の語源が『燃え』から来たことは以前君にも話したよね、リュウ?」
「あぁ。確か君が一日かけてwikipediaを熟読して得た知識だったかな?」
「馬鹿にしないでくれよ。メディアリテラシーの議論をするつもりはないんだ」
「わかった。続けてくれ」
「ようするに、『萌え』と『燃え』の接点は『キャラクターに熱をあげる』ことなんだ」
「シンプルだな」
「可憐な少女と熱血少年はまったく違うようにキャラクタライズされる。でも
僕らがそれらに熱中してしまう気持ちは同じだったということ」
「同じだった」
「そう、同じだった。でも『いや待ってくれ、少女と少年に対する感情は分けて然るべきだろう』
『燃える』のはバトル、そして猫耳は…そう、たとえば…』
そこで僕らの崇拝する萌え概念の祖は神の啓示を受けたんだ」
「ハルキ、宗教の話を持ち込むのはやめにしないか?」
「すまない。つい興奮してしまって」
「気にするな。俺たちの会則第3項にもこうある。『可能な限り相手の意見および感情を尊重せよ』」
「確かその項は僕が提案したんだった。待てよ、自分の作った会則で自分を守る僕はなんて…」
「おい、そのへんにしないか。だから君は惨めな女にしか萌えを見いだせないんだ」
「それは言わない約束だったろう!」
――あたりは静まり返っている。
ジャズバンドは休憩中であったため彼の声はこじんまりした店内の隅にまでよく届いた。
ベテランベーシストが場を濁すために完璧な調整をわざわざ崩して調律を始める。
若手ピアニストはその仕草を見て次曲の準備に取り掛かる。
客たちはまるで夢の世界から出てきたような二人の男への興味をさらに強くし、
中にはなにかの撮影と勘違いして周りを見渡すものさえいた。
ハルキはぬるくなったコーヒーを啜った。
「…すまない」
「あぁ、今日はなかなか肝心の議論にたどり着けないな」
「リュウ、僕は決めたよ。今から萌える話を一つ挟もうと思う」
「第5項『脱線すればキリがないので極力避ける』に引っかかりそうだが、仕方ないな」
「よし、じゃあ始めるよ」
「始めてくれ」
「その娘はね、お兄さんがいるんだ。お兄さんはいつも優秀で、妹の彼女は
そんな兄を誇りに思っていた」
「でも?」
「まだ早い。妹は大好きな兄にいつも手紙を書くんだ。『お兄ちゃんでいてくれてありがとう』ってね」
「ほう」
「でも彼女の言葉は届かない。なぜって?兄はその手紙を読まずに捨てるんだよ」
「なぜだ?宗教か?」
「君は本当に僕の話を聞こうと…」
「すまない!今のは悪ふざけだ!盛大に謝るよ」
「まったく…。兄はね、とんでもない女たらしでクラスの複数女子と変質的なプレイを楽しむ
異常者だったんだ」
「ハルキ、お前の心は夜の闇よりも暗い」
「そこに光が射すんだ!同じ血が流れいるとは思えない純潔な妹の笑顔!
彼女の光は尊い、でもそれを受け入れてしまうと闇に隠した自分の悪徳を
目の当たりにしてしまう。彼にはそれが怖かった」
「お前は終わらない胎内めぐりをしている」
「だから手紙を読まないんじゃない。読めなかったんだ」
「…それで?」
「その五年後。二人はお互いに成長した。妹は兄の異常に
少しずつ気づいていく。女になった妹は感づくんだ。兄の女性のあしらい方が
魔術めいていることに」
「なら、兄は怯えるんじゃないのか?隠し続けてきた自分の悪が
暴かれようとしていることに」
「違う。兄は嬉しかったんだ。『これでやっと自分に失望してくれる』ってね」
「…でも?」
「そう!でもだよ、妹は兄を信じ続けるんだ。兄は再び苦悩する。
もう何をしていても生きている気がしなくなる。まるで妹の魔術に
かかってしまったように」
「魔術という単語がさっきからやたらと出てくるがそれは」
「兄は偶然部屋の中で捨て忘れていた手紙を見つける」
「……」
「そしてついに読むんだ。拙い字で、いろんな色をつかって書かれた妹の言葉を。
『お兄ちゃんパパより好き!』」
「ハルキ、おもしろいじゃないか!」
「だろう?兄は人生最大の決断をする。『僕はこれまでの罪を告白する!罰を受け、
罪を償う!そしてお兄ちゃんになるんだ!』ってね」
「いい話じゃないか」
「そうそう、いま何か熱いものを感じなかったかい?リュウ」
「あぁ、確かに兄のこれからを思うと込み上げてくるものがある」
「僕が言いたかったことはそれなんだ。つまりね、『燃え』と『萌え』は分けられたことで
『燃え』はバトル、『萌え』は猫耳というように別々の発展をするようになった。
けど『萌え』と『燃え』の源流は熱中することにある。だから
『萌え』と『燃え』はいわば切っても切れない兄妹のようなものなんだ」
「だから『萌え』は『燃え』に通ずる?」
「影響を与え合うんだよ!そこに本来の萌えの形が現れるんだ!そう、
この『兄』をそうさせたように!今の君のように!そして多くの聖徒達がビックサイトの祭典に集うようにね!」
「まぁ落ち着けよ。取り乱すとせっかくの話が台無しだぜ?」
「そうだな。続きを話そう」
「続けてくれ」
「兄は固い決心をして妹のもとを訪れる。それもまた健気な話で、妹は兄のようになりたい一心で
自分じゃ絶対行かないような高級レストランでメイドのようなバイトをしていたんだ。
褒めてもらいたかったんだね」
「…そして、兄は何食わぬ顔で席に座る」
「気づかない彼女を優しく制すように立ち止まらせ」
「コーヒーを注文する」
「妹は驚きを隠せない。まさか自分の働いている姿を憧れの兄が見に来てくれるなんて」
「彼女は注文を二度聞き逃す」
「僕は三度目もコーヒーを注文する」
――二人は無言のまま冷めたコーヒーに口をつけた。
店内は二人の演奏者への拍手が続いている。
雨音のように無秩序な拍手は次第にリズムを打ち始め、
演奏者たちに名残惜しさを伝える。
彼らはそのリズムについ誘われてしまったといわんばかりに
調律を始める。
拍手が止み始め、まるで雨上がりのような清々しい空気が
店内に満ち始める。
その静寂の中、リュウは自分たちの方へ近づいてくる足音を聴いた。
カッ、カッ、と規則正しく、そして次第にそれは大きくなっていく。
音が止むと同時にリュウは顔を上げた。
さっきの女性店員がそこに立っていた。
彼女は優しく微笑んでいた。
「おかわりはいかがでしょうか」
「いや、僕はいいよ」
ハルキは強い眼差しを彼女へ向けた。
正確に、そして誠実に自分の意思を伝えるために。
「僕はおかわりはいらない。もう十分なんだ」
「あぁ、俺もいらない」
「かしこまりました」
彼女は微笑みを絶やすことなく
最後まで店員としての態度を貫いていた。
ハルキは何も言わずすっと立ち上がり、去っていった彼女を追っていった。
リュウはそれを冷えたコーヒーを啜りながら見ていることしかできなかった。
――帰ってきたハルキの表情は落胆に満ちていた。
「だめだったよ」
「…そうか」
「店の決まりでね、アドレスを教えたりするのは禁止されているらしいんだ」
「……??」
ハルキはつまらなさそうに机の角を軽く指で叩いた。
「まったくまいったね。あの娘が僕の妹だったらいいのになぁ」
「……あぁ、そうだな。同感だ」
リュウは今ではコーヒーかどうかもわからないような
黒くて冷たい水を飲み干すと、さぁここからが正念場だと
言わんばかりの活気に満ちた笑顔をハルキに向けた。
「じゃあ今度は俺の番かな?」
「そういうことになるね」
リュウは女性店員をもう一度呼び戻しコーヒーを二つ注文した。
店員は少し気まずそうに目を伏せ、ハルキは気恥ずかしそうにシャツの襟の形を気にした。
ささやかな復讐を終えたリュウは今日一番の清々しい顔を見せた。
「俺はな、ハルキ、魔法少女が世界で一番萌えるという結論に至ったよ」
少し長かったでしょうか…?
もう少し短くまとめたかったですし、展開も
いかにもお話チックになってしまい何とも言えない
気持ちですが、少しでも楽しんでいただけたなら
ワイナップル渾身のガッツポーズです!