三所信用金庫仏の座支店物語(下)
Ⅴ
仏の座商店街は古くは藩主薄葉公の菩提寺である臨済宗万光寺の門前町に端を発することは、商店街入り口の看板に墨痕新しく書かれているところであるが、万光寺と門前町を構成する商家や宿屋との関係が歴史的に見て常に良好であったかというと決してそうではなかった。古くは鳥羽伏見の戦いで攻め上ってきた官軍に対し、名君と言われた薄葉家第十二代当主軽光公は小大名ながらも徳川家譜代の名門として幕府に心情的な忠誠は持ちつつも、城下での戦闘を回避し領民の命と暮らしを守るため涙を流して官軍の錦の御旗の軍門に下ったのであった。多くの領民は軽光公の無念さを思い、官軍に歯向かわないまでも協力はしないとばかりに家の門を固く閉ざし、官軍の横暴にもじっと耐えたと三所市市政百年を記念して出版された「三所の歴史」に真偽の程はともかくも記されている。しかるに、藩主の菩提寺である万光寺はこともあろうか官軍の宿舎として境内を開放したことから、官軍が江戸に向けて進攻した後に門前町の町年寄りたちから大きな非難を浴びた。寺側としても官軍の要請に対してやむに已まれずという事情はあったが、明治になって住職が政府高官となった官軍将校とのツーショット写真を本堂に恥ずかし気もなく掲げたことから、門前町の店主たちは当時の住職と口も利かなくなったと伝えられている。また、戦前、種付け万光寺として子授けの寺として有名になって県内外からの祈願、参拝者が増えた時期に、当時の絶倫住職は本堂の修復と観音像の新設を計画し、その経費のほとんどを商店街からの奉納金で賄おうとした。商店街の賑わいはひとえに万光寺への祈願、参拝客のおかげであることは間違いなく、当時の店主たちは仕方なく高額の奉納金を収めたのだが、絶倫住職は美観を損なうとの理由で奉納者の名を参道階段の石柱に刻むことを拒否し、有志台帳の奉納をもって代えたことから、この時も寺と商店街の関係は決定的に劣悪なものとなった。もっとも、歴史的に見れば万光寺と仏の座商店街は良好な関係と言えないまでも相互依存の関係は維持してきたのだが、昭和の高度成長期以降、仏の座商店街が近隣住民の生活を支える市場通りへと変貌を遂げるに伴い、万光寺との繋がり自体が希薄なものとなっていったのは時代の流れであった。数件残っていた、万光寺への祈願、参拝数客を当て込んだ旅館は平成を迎える頃にはすべて廃業し、参道登り口の土産物屋が店を畳んだ時点で、仏の座商店街は万光寺の門前町として発展したという歴史的いわれを残すのみとなっていた。
万光寺の住職は胃弱住職の姉の息子が後を継ぎ現在に至っているが、現住職の息子がアメリカの大学を卒業した後、跡継ぎとして戻って来ており、既に日本一厳しいと言われる京都の総本山での修業期間を終え、檀家の間では若住職と呼ばれていた。檀家回りにシボレーコルベットの8気筒エンジンの爆音を吹かして行くので最初は眉をひそめる檀信徒も多かったが、ゴニョゴニョと何を言っているのか分からない今の住職の読経に比べ良く通る声で滔々と唱える若住職の読経は格段に評判が良く、福原酒店のおばあさんが法事の際、若住職の美声読経を聞いているうちにワープして極楽浄土を見たと居眠りの言い訳にしたのでその法力も年寄り達に評判となった。年若にもかかわらず人当たりは柔らかで常に笑顔を浮かべて説法を行い、また長髪、長身で法衣姿が颯爽としていることから女性ファンが多く、三所市教育委員会が主催する講話会の機会を通じて三所敬老会婦人部と三所女子高にファンクラブが作られるという世代を超えた人気があった。夜の方もなかなかお盛んなようで、夜のクラブで複数の美女を連れている姿も度々目撃され、壇信徒からの苦言が寺に寄せられることもあったが、絶倫住職の血筋であり、少子化対策の波に乗った種付け万光寺復活の期待の声も高かった。また地元テレビのワイドショーにも経済コメンテーターとして法衣姿で度々ゲスト出演しており知名度もあった。言わば、アメリカの大学でMBAを修めた異色の若住職は長く忘れ去られた存在であった万光寺を立て直す久々のスター住職として期待されていた。
若住職は仏の座支店の窓口業務が終わろうとする15時前に鳴門係長と一緒に正面入り口から法衣姿で入ってきた。既に窓口のお客様はなく、支店の中は職員が打つ事務機の音だけが控えめに鳴っていた。法衣姿は目立つので松子はすぐにテレビで見たことのある万光寺の若住職だと気付いたが、万光寺の取引銀行は地方銀行の三所銀行のはずで三所信用金庫とは別段取引がないことから、どうしたのだろうと訝しんだが、普段通り「いらっしゃいませ。」と窓口からにこやかに挨拶すると、若住職は立ち止まって松子の方を向いて合掌してお辞儀を返した。何故か隣の窓口に座っていたアツ子さんは無言で手元のファイルに目を落としたままであったが、若住職はアツ子さん姿を認めると、鳴門係長に「ちょっと失礼。」と断ってから、アツ子さんの窓口の前に来て、松子に向かって軽く会釈した後、「アッちゃん挨拶ぐらいしてよ。」と笑顔を向けた。アツ子さんは顔を上げて、「あら、来てたの。支店長をお待たせしたら失礼でしょう。早く行きなさいよ。」ニコリともせずに言うと、若住職は笑顔のまま、「その言葉使いはお客様に対して失礼じゃないですかねぇ。」と同意を求めるように松子を見た。松子がエッと驚いてアツ子さんと若住職を交互に見ると、アツ子さんは、「松子ちゃん相手にしなくて良いから。」と言って、「あのね、お坊さん、口座をお持ちの方が窓口のお客様なの。他のお客様の迷惑だからもう行ってもらえます。」冷たく言い放った。若住職が「客なんかいないじゃないか。」と呟いて、「じゃあお望みどおり口座作りますよ。」と返すと、アツ子さんはすかさず、「あら嬉しい、万光寺のメイン取引銀行にしていただけるんだ。お客様、ありがとうございます。」とニッコリした。若住職は苦笑しながら、松子に、「お姫様のお守も大変でしょう。」とアツ子さんに聞こえるように憎まれ口をたたいて、困惑する松子に笑顔を向けた後窓口を離れ、鳴門係長と連れ立って支店長室に消えた。
15時になって正面入り口のシャッターが降りると、後ろのサポートシートに座っていたヒロ子が待ちきれなかったらしく、「あの人万光寺の若住職ですよね。現物初めて見ちゃったな。結構イケメンですよね。アツ子さん知り合いなんですか。」と聞いた。窓口に座っている時の私語は普段は深山係長から厳しくたしなめられるのだが、深山係長もさっきのやり取りには関心があるらしく何も言わないで耳を傾ける諷であったので、アツ子さんは後ろを向いて、ヒロ子と松子を交互に見ながら、「千鳥修一郎。知り合いと言うか、親戚ね。あっちが本家でこっちが分家。」とつまらなそうに言った。松子が、「そういえば万光寺のご住職の苗字も千鳥姓でしたね。アツ子さん万光寺さんのご親戚だったのですね。」と感心すると、「親戚と言っても、一年に一度正月明けに寺で顔を合わせるぐらい。あいつとは又従兄弟になるのかな。」。「その割には若住職、アツ子さんにやたら親密そうでしたね。」ヒロ子が冷やかすと、アツ子さんは、「やめてよ。本気で嫌なのよ。あのニヤケ顔見てると虫唾が走るの。」とアツ子さんには珍しく感情を出したので、若住職について他にも聞きたそうだったヒロ子も黙ってしまった。松子が給湯室に行くタイミングでアツ子さんも立ち上がって松子の隣を歩くようにして、「あいつ何だか良からぬこと考えているみたいだから、注意するように松子ちゃんから旦那様に言ってあげて。あいつ信用したら駄目だって。」と耳打ちした。意味が分からず、「何のことでしょうか。」と聞いたら、「詳しい話は旦那様から聞いて。」アツ子さんは松子の知らないことを何か知っているみたいだった。ずっと後になるが、アツ子さんが松子だけに教えてくれた若住職を嫌う理由は、子供の時に親戚の集まりがあった時、自然と年の近い二人で遊んでいたら、若住職、その当時の修一郎少年から言葉巧みにお医者さんごっこに引き込まれてしまい、パンツを脱がされて大事な所に指を入れられてしまったらしい。「修ちゃんも脱いでと言ったら、あいつ、僕はお医者さんだから脱がないんだよとニヤニヤしてるの、ホント最低な男でしょう。」険しく眉を歪めたアツ子さんもゾクっとする程セクシーだ。
その夜、松子は若住職とアツ子さんの関係の話は省いて、万光寺の若住職が鳴門係長と連れ立って支店長室に来たことを亀次郎に告げて、「商店街連合会の関係かしら。」と水を向けてみた。亀次郎は「ほぅ。」と感心して、「マーちゃん良い勘しているね。」と褒めてから、「実は僕もこの前、鳴門君から彼を紹介されたんだよ。」と言った。「マーちゃんと出会った頃、僕が商店街のコンサルをやってたの覚えているだろう。商店街の入り口スペースに共同駐車場を作って、それはそれで集客の効果はじんわり出ているのだけど、調べる限りにおいて一足飛びにアーケードという話にはならないんだ。ただ、鳴門君としてはどうしても諦めきれない話らしく、再度、連合会のコンサルとして僕に参加してくれないかということで、吉原会長の了承は得ていると言うのだよ。僕も商店街の話は遣り残し感が強くてね。その後も色々と考えてはいたのだけど、引き受ける条件として商店街の再建策の検討に万光寺も参加してもらうことを鳴門君に提案したんだ。何と言っても仏の座商店街は万光寺の門前町から始まったものなのだし、アーケードを設置するのであれば、人の流れを中途半端に終わらせるのではなく万光寺の参道登り口まで伸ばすことまで視野に入れてやるべきだと思っていたんだ。万光寺にしても参拝客を増やす努力をしてもらわないといけない。経費負担の話は置いておくとしても、これまでのように万光寺の意向抜きで商店街だけで進める話じゃないと思ってね。アーケードというのは景観的な問題もあるしね。」。亀次郎はすっかりやる気になっているようだ。松子はアツ子さんの耳打ちが気になっていたので、「それで万光寺さんの若住職はどんな方でしたか。」と率直に聞いてみた。亀次郎は「ウン。」と言ってから、「連合会の吉原会長から派手で鼻持ちならない野郎だと聞かされていたから、どんな人かと思っていたのだけど、会ってみたら笑顔がさわやかな好青年だったよ、色々と苦労もしているみたいで謙虚で腰の低い人だった。」アツ子さんに聞かせたら人を見る目がないと一言で片付けられそうなことを言った。「そうそう、若住職、マーちゃんのことを知っているみたいで、支店の中で目立って可愛い方ですよね。あの方と結婚なさったのですか。羨ましいなぁ。って言われてしまったよ。」亀次郎は嬉しそうで、既に若住職の法力に丸め込まれているようだった。
Ⅵ
松子は翌三月に三所信用金庫を退職した。高校を卒業してからの丸四年間仏の座支店の預金係として無事勤めることができた満足感よりも、右も左も分からない金融の世界で松子を指導してくれた立鼎支店長を始めとする支店の方々への感謝の気持ちが強かった。特に、時に厳しく、時に優しく何も知らない松子に一から仕事を教えてくれた深山タツ子貯金係長には社会人として育てていただいたという師に対しての尊敬の気持ちがあった。その他、預金係の先輩たち、椋鳥シマ子、千鳥アツ子、花菱トモ子は松子を時に励まし、時にサポートしてくれながら、預金係の仲間として優しく受け入れてくれた。花菱トモ子は松子より一年先に退職して北海道に行ってしまったのだが、いつも明るく、時に図々しい花菱トモ子の存在が新人の松子にとってどんなに有難かったか計り知れない。三条清掃サービスの間夫さんや、警備会社の廓さんも松子ちゃん、松子ちゃんと自分の娘のように可愛がってくれた。信用金庫のお客様達も松子に常に笑顔を向けてくれて、松子の仕事に対してひとつひとつ、ありがとうと声を掛けてくれた。平凡で何の取柄もない自分が曲がりなりにも社会人として勤めることができたのは周りの方々の支えのおかげであったと感謝した。最後の朝礼で、立鼎支店長からねぎらいの言葉を頂き、唯一の後輩である駒掛ヒロ子から花束を貰って、支店の皆の前でお別れの挨拶をする時、松子は泣かなかった。確かに慣れ親しんだ職場を離れるのは寂しかったし悲しかったが、涙は自分の感傷のために流すもので、自分が居なくなった後の支店を支えてくださる皆さんに対して独りよがりな涙を見せるのは失礼だと思った。松子はこれまで至らない自分を支えてくださった皆に感謝の気持ちを自分の言葉で静かに伝えた、そして体を労わってどうか健康だけには留意してくださいとお願いした。これは松子の心からの気持ちだった。松子が最後に深々と頭を下げて顔を上げた時、絶対に松子ちゃんは泣くぞ泣くぞと期待していた皆の拍子抜けした顔があった。しばらく間を置いて、深山タツ子係長が、本当に大人になってと呟いて口を押えて嗚咽した。松子はその嗚咽を聞いたとたん、自分の涙腺が突然崩壊したのを感じ、大きな声で何か言葉にならない声を出していた。預金係の皆が走り寄って、力が抜けて座り込みそうな松子を抱きしめてくれた。皆の松子ちゃん、松子ちゃんと呼ぶ声を遠くに聞きながら松子は幸せだった。松子の退職セレモニーは仏の座支店退職テラーの失神騒動として長く三所信用金庫で語り継がれることとなった。
松子が無事にというかちょっとした騒ぎの中で三所信用金庫を退職した頃から、仏の座商店街再生プロジェクトは本格的に稼働し始めたようで、亀次郎は専らこのプロジェクトに掛かり切りになっていた。夕食のハンバーグを食べながら亀次郎が松子に教えてくれたことは、仏の座商店街の再生には万光寺の参加が不可欠であるという亀次郎の意見を商店街連合会の吉原会長も納得し、三所信用金庫の立鼎支店長の仲立ちにより、万光寺と商店街連合会との間に歴史的和解が成立したこと。和解に先立ち戦前の本堂修復と観音像の建立への各商店からの奉納金に対して有志台帳の奉納で済ませた点につき現住職より商店街連合会に謝罪があったこと。このことにより、仏の座商店街連合会、万光寺及び三所信用金庫の共同プロジェクトとして第二期仏の座商店街再生プロジェクトがスタートしたこと。プロジェクトの運営は商店街連合会に事務局を置き、プロジェクト委託会社として合同会社ファームタンク代表、つまり亀次郎が事務局長となり、三所信用金庫からは仏の座支店の鳴門渉外係長が、そして臨済宗万光寺からは副住職の千鳥修一郎が実行委員として参加することとなったこと。「つまりね。」亀次郎は続けた、「要は、鳴門君と千鳥君と僕とでアーケードの設置投資に見合う商店街の集客力の向上についてアイデアを出していこうということになったんだよ。この点は僕が前から主張していることで、鳴門君には悪いけど今の商店街を存続させるという基本線を危うくするような融資はあり得ない。まずは集客力の向上で商店街の足腰を強くしてから、次のステップとして起爆剤のアーケードの設置に進むべきなんだ。その為にはプロジェクトに万光寺の参加は不可欠で、商店街と万光寺がこのプロジェクトでウィン・ウィンの関係になれば、商店街だけでなく万光寺も融資先として期待できるのだから、三所信用金庫にとっても決して悪い話じゃないんだ。急がば回れって感じでね。」。何事も慎重に考える亀次郎さんらしいと松子は思ったが、ちょっと気になって、二人の出会いの切っ掛けになった前回の商店街専用駐車場の設置による集客力の向上効果について亀次郎に尋ねてみた。亀次郎は少し渋い顔をして「効果はでているよ。」と言った。「効果は出ているし、それは数字的にも表れている。ただ、鳴門君や吉原会長から見たら、こんな僅かな増加じゃ物足りないって意見なんだ、でもマーちゃん、僅かな増加でもそれが定着すると集客力の基礎数値が上がったということで、すごいことなんだけどなぁ。イベントとかやってのお客さんを集めたということじゃなくて、日々の購買者の数が確実に上がっているということだからね。集客数が小さくても確実に上がるという正のルーティンが長期的な販売額に与えるインパクトはすごいことなんだ。そのあたりのことをなかなか理解してくれなくてね。鳴門君からは、信用金庫も立場を引いて谷渡の意見に同意したのだから、責任を持ってもっと効果が目に見えるような提案をしてくれないと困るよと言われているのだよね。でも、千鳥君の意見はちょっと違っていて、千鳥君は最初、僕が作ったデータを一瞥しただけで、へぇーっ凄い資料だなって感心して、ちょっと持ち帰って良いですかとデータを何日かかけて見てくれて、駐車場ぐらいで期待値のベクトルが上向きに変わるんですね、費用対効果から見て画期的なことですよ。低迷が続いていた商店街の集客が上向きになったのは三十年振りぐらいじゃないですか?それにしても色々な視点から数値を拾ってますね。大変だったでしょう、一流のコンサルの方ってここまでやるんですねって評価してくれたんだ。でも、融資額を考えるともうひとつ何か正のインパクトが必要ですねって、さすがMBAは違うなと感心させられたよ。」アツ子さんが聞いたら目を吊り上げて怒りそうな評価と信頼を若住職に与えていた。ただ、松子としては亀次郎さんの友人として信頼していた鳴門係長の冷たい態度に比べて、万光寺の若住職が夫の仕事を褒めてくれた事実に対して、なんだ、若住職って結構良い人じゃないの?と夫婦揃って若住職の法力に丸めこまれていた。
亀次郎と松子の新居のあるスズシロタウンから松子の実家までは仏の座商店街入り口まで歩いてバスに乗ると片道30分の行程であり、松子は退職すると母親から料理を習うために定期的に実家に帰省するようになった。料理のレパートリーの少なさは結婚当初から自覚していた。働いていた時はスーパーヨシムラの総菜コーナーにもちょくちょくお世話になっていたのだが、亀次郎の会社を手伝うとはいえ、家に居るのだからミツ子さん程までは行かなくとも極力手の込んだ料理を亀次郎さんに振舞いたいと思って、料理スクールに通いたい旨言うと亀次郎は少し考えた後、「お義母さんに教われば良いのではないですか。」と提案してきた。「何度か頂きましたけどマーちゃんのお義母さんは料理が上手ですよね。折角良い先生が居るのだから習わない手はないですよ。」。亀次郎と結婚してから、松子は近い実家に帰ろうとはせず、正月も隣県にある亀次郎の実家には泊まったが、自分の実家には新年の挨拶に立ち寄っただけだった。結婚をして新しい家庭を作ったのだから、私が頼るべきは夫である亀次郎さんであり、いつまでも親を頼りにしてはいけないという松子のささやかな覚悟と意地でもあった。そんな松子の想いも理解した上で松子の負担にならないように料理にかこつけて実家に帰ってご両親に顔を見せなさいとさり気なく背中を押してくれる亀次郎の優しさに松子は感謝した。ただ、独身の時に亀次郎が実家で出されて喜んで食べていた料理のほとんどは近所のスーパーの総菜であったような気がしないでもなかった。松子のお願いに、母は、あらまぁと驚き、父は、ほっほぅと喜んだ。母に台所で料理を習っていると父は食卓に座って松子の背中に向かってあれやこれやと近況を訊ねた。母と異なりスズシロタウンの新居には一度も顔を見せない父ではあったが、お父さんなりの気の使い方なのだろうな、本当は私に会いたかったのだなと思い、赤ちゃんが生まれたらちょくちょく実家にも顔を見せに行こうと考え直した松子だった。なお、母が総菜に頼っていたのは単に効率性と経済性を追求した結果であり、実は母の料理のスキルはかなり高かったのだと、同じく主婦として台所に立つようになった松子は知ることとなった。ほとんどのレシピは頭の中に入っており、調味料は一見目分量のように見えて最適な分量による味を作っていた。ミツ子さんもそうだが、プロの主婦は手の速さが違う。そこを褒めたら母は「反復は経験となり、経験は技となって料理が上達するの。料理を作ることは難しいことじゃないのだけど、今晩何にするかを決めるのは難しいわねぇ。」達人語録を残した。
松子が母と作った筑前煮と金目鯛の酒蒸しをタッパーに入れて帰宅すると取り込んだ洗濯物の山を前に亀次郎が座り込んでいた。松子が「取り込んでくれてありがとうございます。後は私がやりますよ。」と言いながら荷物をダイニングテーブルに置いて洗面に向かうと、後ろから「マーちゃん。」と亀次郎が松子に声を掛けた。「何ですか。」と洗面所から返すと、「ちょっと来てもらえますか。」と亀次郎が気の張った声を出した。再び、「何でしょうか。」と言いながら松子が隣に座ると、亀次郎は目の前に取り込んだばかりの松子のショーツを広げてしげしげと凝視しながら「これってマーちゃんのパンティですか。」と聞いてきた。松子は吃驚して、目の前に広げられた自分のショーツを認めると慌てて置かれたショーツを回収して手の中に丸めて両手を後ろに回して隠した。「はい、私のものですけど、何か?」と事態が把握できないまま聞くと、亀次郎は「知らなかった。」と呟いた。松子は良くは分からなったが、義務感も手伝って「何を知らなかったのですか。」と聞くと、亀次郎は「マーちゃんがそんなパンティ履いていたなんて知らなかった。」と残念そうな声で呻いた。えっと思ったが、そう言えばこのショーツはこの前の日曜日にアツ子さんとお茶をして、その帰りにAimerに寄って買ったもので、確かに昨日初めて履いたショーツであった。フルバックであるが総レースのショーツでフロントは可愛い刺繍で上手く隠しているもののバックは完全にスケスケであり、Aimerでこのショーツを手に取った松子をアツ子さんがチラ見して、やるわねと小さな声で推奨してくれたものだった。もちろん買った時は亀次郎の好みを意識して買ったのだが、昨日は履き心地を確かめるつもりで身に付けてみたものだった。亀次郎は「知らなかった。」と悲しそうな声で呟き、「マーちゃんは昨日このパンティを履いていたのですね。」と言って、「昨日はちょっと忙しくてそこまで気が回らなかったんです。」と付け加えた。松子は「そうなんですか。」と作り笑いを浮かべながら、私のショーツで人生が終わったようなような声を出すこの人は毎日私の下着をチェックしているのだろうか、陽気のせいで頭がおかしくなったのかもしれないと疑った。暫くの間、ショーツを後ろ手に隠した松子と亀次郎はお互いを探るように無言で見つめ合っていたがやがて亀次郎が「そんなに小さなパンティにマーちゃんのお尻が入るのですか。」と失礼なことを平気で尋ねてきた。「入ります。」と反射的に答えたものの、何も亀次郎のペースに合わせることもないのだと思い直して、「私のお尻は私が責任を持って入れます。それから、これからは私が洗濯をしますから、亀次郎さんは洗濯物に触らないでください。」と警告を発した。亀次郎はハッとした様子で、急に正気に戻ったらしく、「否、あっ、失礼しました。決してそんなつもりではなく、マーちゃんのパンティを見たらあまりにセクシーなので、色々と妄想してしまいました。本当にごめんなさい。」としょんぼりとしてしまった。亀次郎のしょんぼりした姿を見ると、松子はなんだか可哀そうになって、「伸縮性のあるストレッチ素材なので大丈夫なんですよ。」とショーツを亀次郎の目の前で広げて見せた。「ほら。」と言ってショーツを横に伸ばして見せると、亀次郎の目はショーツにくぎ付けになって、「もともと透けているのに履くともっと透けてしまうのでしょうか。」と聞いてきた。「さぁ、どうなんでしょうか、確認したことはないのですが。」と口を濁すと、亀次郎はコホンと咳ばらいをしてから、「マーちゃん、これはマーちゃんのお尻にとって非常に重要な問題なんです。是非確認してください。」と鼻息を荒くした。何が重要なのか松子はピンとは来なかったが、日頃より亀次郎の松子のお尻へのこだわりは熱いものがあるので、亀次郎の鼻息には、ははぁんとピンと来て、「はぁ。」と気のない素振りは見せつつも、内心はノリノリで「じゃあ亀次郎さんに確認してもらって良いですか。」と水を向けると、「いいですよ。えぇ、これはとっても重要なことです。何が重要かって本当に重要なんです。」と頭の中が煩悩でショートしたらしい亀次郎はうわ言のように繰り返した。バスルームでショーツを履き替えた後、スカートを捲り総レースにブリブリぴっちり収まったお尻を亀次郎の顔に向けて、「どうですか、透けちゃってますか。」とお尻を左右にプルンプリンと振ると、亀次郎は「マーちゃん、透けて、収まって、丸い桃が、ぴっちりと、綺麗に割れて。」と呻ぎ、鼻息を荒くして松子のお尻に縋りついてきた。今日はこのままの流れなのかなとほんわりウキウキしていた松子であったが、そうだ、ダイニングテーブルのタッパーを冷蔵庫に入れるの忘れていたと思い出し、「ちょっと待ってください。」とお尻をポンと後ろに突き出すと、松子のお尻に弾かれて亀次郎の嬉しそうな顔は後ろに吹っ飛んだ。
Ⅶ
亀次郎から「申し訳なさそうにお客さんを家に呼んで良いでしょうか。」と聞かれたのは気象台の梅雨明け宣言がないままに仏の座商店街が長期に渡るサマーセールを始めた7月上旬のことであった。二人の新居には松子の母を始めとして、友人や仏の座支店の預金係の元同僚達もちょくちょく訪れてくれていたが、亀次郎の関係者と言えば、新居を決めた時に亀次郎の母親が、ちょっと思い立ってとエアコンを業者に運ばせて来た時だけであった。この時は、義母は松子の吃驚しつつも感動した顔に満足して、邪魔にならない大きなお土産を色々考えたのよ。ドッキリ大成功と変な自慢をしてすぐに帰っていった。「はい、大丈夫ですよと答えて、どなたが見えられるのですか。」と亀次郎に聞くと、「いゃぁ、この前、鳴門君と千鳥君と打ち合わせしている時に、マーちゃんの料理が美味しくてとつい自慢したら、鳴門君がへぇー松子ちゃんが料理をねぇ、それは是非ご馳走してもらわないと。お前にはそれぐらいの貸しがあるよなぁ。」と言われてね、と亀次郎は言い訳から始めた。「ということは、鳴門係長がお見えになるのですか?」と言いつつ、料理上手のミツ子さんの味に舌が慣らされている鳴門さんはなかなかの難敵だなと考えていたら、亀次郎は続けて、「そうしたら千鳥君が、そう言えば3人とも奥さんは三所信用金庫仏の座支店に勤務していたという縁もありますね。ここはひとつリーダーである谷渡さんにご足労いただいて、谷渡さんの家で奥さんたちも一緒に暑気払いとしゃれ込みましょうか。」と言い出したんだ。ということは全員で6名か、取り皿を買い足す必要があるなと考えながら、松子は何か釈然としないものを感じて、すぐにその理由に思い当たった。「千鳥さんは万光寺の若住職ですよね。あの方結婚なさっていたのですか?それも奥様が仏の座支店勤務って誰なのでしょう。」と聞いたら、亀次郎は、「千鳥君がそう言うからそうなのでしょう。マーちゃんが入る前に退職した人かも知れませんよ。」あまり関心はなさそうだった。一瞬、若住職に興味津々だった駒掛ヒロ子の顔が浮かんだが、まさかね、とあり得ない組み合わせとして脳内処理された。いずれにしても、当日になればハッキリすることだと思って、松子は亀次郎の妻自慢を裏切ることにならないように何を作ろうかしらと迷いながら、こっそり母にもお願いしよう。大きなタッパーは実家にあったかしらと良からぬことを考えていた。
当日の土曜日、亀次郎から飲み物は鳴門君と千鳥君が持ってきてくれるそうだよと聞かされていた松子は、調理器具の関係で仕込みは実家でやるからと亀次郎に苦しい言い訳をして、前日に母にお願いしていた料理を昼過ぎに持ち帰り、冷蔵庫に仕舞いつつ折角だから私も前菜の一品でも作ってみようと材料を並べていたら、ミツ子さんが、「松子ちゃんヘルプに来たわよ。」とクールネックカットソーで胸の谷間を見せるカジュアルながらセクシーないで立ちで現れた。「今回は旦那が無理言ったみたいでごめんね、松子ちゃんの邪魔したら悪いかなと思ったけど足りないより余る方が良いと思って。」料理の入ったタッパーをいくつか並べた。松子は「やっぱり心配ですよね。」と自戒しつつ冷蔵庫を開け、タッパーに入った料理を見せた。ミツ子さんは吃驚して「えっ、松子ちゃんやるじゃない。凄い、信じられない。」と褒めてくれた。松子はどう繕ったところでミツ子さんにはバレる話だと覚悟を決めて、「母の料理です。」。正直に言うと、ミツ子さんは目を丸くしてプッと噴き出した後、「ごめんなさい、松子ちゃんがあまりにも潔いので。」と謝ってから、「本当に谷渡君と松子ちゃんはお似合いの夫婦だなぁ。」褒めているのかどうか微妙なことを言ってからもしばらくは笑いが止まらない様子だった。ミツ子さんにお茶を出しながら、ミツ子さんなら知っているのかもと思い、万光寺の若住職の事を聞いてみた。ミツ子さんは「旦那からは何も聞いていないのだけど。」と前置きして「確か独身だと思うよ。三所市では一応有名人なのだから結婚したらそれなりの情報が出回るんじゃないの。」これもさほど関心はなさそうだった。「でも、奥さんが仏の座支店の方だっていうから私も気になって。」松子が言うと「それは嘘だね、若住職は私が支店に勤務している時にアメリカから帰国したと聞いたから、OGも含めて支店の誰かと結婚したなら私の耳に入らないことないもの。適当に話を合わせただけじゃないの。お坊さんなんて口八丁でお布施を巻き上げる職業でしょう。」。仏教会が聞いたら怒りそうなことを平気で言った。時間の30分前には亀次郎がアルコールを買い込んだ鳴門係長と連れだって帰宅した。鳴門係長と合うのは松子の退職以来であり、型通りの挨拶を済ませた後に危惧した通り松子の退職セレモニーでの失神騒動を話題にされた。亀次郎にもちょっと泣いて過呼吸状態になってピンチだったとその日の出来事としてさり気なくは伝えてはいたのだが、何も今更蒸し返さなくてもと松子がちょっと困った顔をしたら、ミツ子さんが敏感に松子の気持ちを察したらしく「松子ちゃんが仕事に全身全霊を打ち込んでいたからでしょうが。あんたみたいにちゃらんぽらんな仕事しかしてなくて、成果も上げていない男に言われたくないわよ。」と旦那に向かって早口にまくし立てた。鳴門係長は「ごめん、ごめん、久しぶりに松子ちゃんの顔見たら嬉しくてイジりたくなるんだよ。何と言っても仏の座支店の伝説のマドンナ最後のエピソードだからね。」とフォローにもならないことを言った。「女性は感性が敏感なのだから、退職とか離別とかの場は感傷的になるものなの。」ミツ子さんが旦那に説諭したが、松子はちょっと違うと思って思わず口を出した。「違うんです。あの時、私、なんて幸せなんだろうと思って、皆さんとお仕事ができて、あぁ、幸せだったなぁ、何か言わなきゃと思っていたら知らないうちに気が遠くなってしまったんです。」その時の心情を解説した。ミツ子さんは笑って「そこが松子ちゃんの凄いところだよね。多分松子ちゃん以外の女が同じことを言ったら、何あざとい事言っているのってなるけど、松子ちゃんが言うと本当のことに聞こえるもの。」ととんでもないことを言い出したので、慌てて「本当なんです。」。松子が言う言葉に「マーちゃんは結婚式の時に気を失いませんでしたよね。心から幸せとは思えなかったんですか。」。亀次郎がしょげた様子で言葉を重ねてきた。松子が、もう、ややこしい事言ってと亀次郎に少しイラっとして「幸せな時にいちいち失神していたら身が持ちません。」叫ぶ横で失言の責めから解放された鳴門係長が「そりゃそうだ。」と笑いながら合いの手を入れると、ミツ子さんが「そもそもアンタがつまらない事言うからでしょうが。」と旦那様をアンタ呼ばわりして収拾が付かない状況になったタイミングで呼鈴が鳴った。「千鳥さんですね。」。松子が混沌となった諍いの終了を3人に告げて玄関に小走りに寄ると「千鳥です。」と外から声が聞こえた。「はい、お待ちしていました。」。松子が玄関ドアを開けると、ブレザー姿の若住職の笑顔が現れ、その背中越しに立つ女性は思いかけず仏の座支店の真のマドンナであった。人間は全く予想外の事態が起こった時に体も予想外の反応を起こすらしい。松子は「えっ。」と声を漏らした後、衝撃で力が抜けて腰が砕けてしまった。千鳥修一郎がとっさに一歩踏み出して松子の腕を掴んで支えてくれたので、松子は玄関口でへたり込むだけで済んだ。アツ子さんが驚いて「松子ちゃん大丈夫?どうしたの。」と後ろから覗き込んだが、アンタが驚かすからだよと心の中だったが松子は憧れのアツ子さんのことを始めてアンタ呼ばわりした。松子はとりあえずソファーに座らせられて、寄り添うように隣に座った亀次郎は「マーちゃん大丈夫?貧血かな?」とオロオロした。鳴門夫妻は松子の驚愕の理由を理解したらしく、ミツ子さんが代表して「まさかアッちゃんが来るとは思わなかった。」とアツ子さんに言った。アツ子さんは「御免ね、驚かせるつもりはなかったのよ、修一郎から松子ちゃんが料理を振舞ってくれるらしいから行こうよと誘われて、松子ちゃんの手料理が食べたくて付いてきてしまったのだけど、当然修一郎が私も参加することを事前に伝えていたものだと思っていたの。」ミツ子さんと松子の顔を交互に見ながら謝り、「でも、そんなに驚かなくても。」と付け加えた。ミツ子さんは、イヤイヤと顔を振って「松子ちゃんが驚いたのは、千鳥さんが奥さんを連れてくると聞いていたからなの。その状況でアッちゃんが来たらそりゃ驚くでしょうが。」と松子の腰砕けの理由を説明した。アツ子さんは眉をひそめて「えっ、何を勝手に決めているの。」と修一郎を睨んだが、「まぁ、そのことは食事を頂きながらおいおい話をしましょう。実は僕はワインはフランスよりもイタリアワイン推しでね、今日はとっておきを持ってきましたよ。」修一郎が持参した紙袋からワインを出すと、鳴門夫妻は「バローロ。」と声を揃えて、多分ワインの銘柄であろう名を叫んだ。「一度飲んでみたかったんだよ。」興奮する鳴門係長に続けて「いくらしたの?高かったでしょう。お金持ちは違うわねぇ、さぁ、入って入って。」ミツ子さんはパーティのホステス気取りで修一郎を招き入れた。アツ子さんは一瞬呆れたような顔をしたが「おじゃまします。」と松子に笑顔を向けて、お土産と有名店のケーキの包みを渡す時に、「優しい旦那様。松子ちゃん幸せだね。」松子と亀次郎にだけ聞こえるように囁いた。
食事は大皿に盛られた、鶏ごぼう煮、カブのイタリアンソテー、回鍋肉、パエリア、小鯵の唐揚げ、白菜のあさり餡かけ、モッツァレラチーズとトマトとバジルのサラダ、ちらし寿司、フランスパンがキッチンに置かれて、各自取り皿で好きな料理を取ってダイニングテーブルで食べるスタイルとなった。母とミツ子さんが作った多国籍料理を前にしてどうしようと悩んでいた松子であったが、好き勝手に食べさせれば良いのよとミツ子さんがビュッフェスタイルを提案して、なるほどと松子はミツ子さんの知恵に感心してしまった。皆で乾杯した後、それぞれ取り皿を持って各種料理を前にして、まずアツ子さんが「松子ちゃん凄い。」と褒めてくれて、修一郎が「いやぁ、これは壮観かつ眼福ですね。」驚いた声を出した。鳴門係長は「これは旨そうだ。」と唐揚げに箸を伸ばしながら「なかなかに無秩序な料理のセレクションだな。」と痛いところを突いてきた。松子は良心の呵責もあり「実は。」と口を開きかけたところで、ミツ子さんが「何。松子ちゃんと私の料理に文句があるの?あんた達は準備しろと言うだけで気楽だけど、作る方は色々と考えて大変なんだから。」と文句を言った。「マーちゃんは僕の体を気遣って基本和食を出してくれるのですが、週末とかには新しい料理にチャレンジしてレパートリーも増やしているんですよ。」。亀次郎が鼻の穴を膨らませると、アツ子さんが「それはご馳走様。」と笑い、修一郎はすかさず「可愛らしくて優しくて料理上手の奥様で谷渡さんはよくぞこの方を見つけたというところですね。」と持ち上げ、亀次郎の満面の笑みを前にして松子は強張った作り笑いをするしかなかった。松子は料理の真実を明らかにする機会を完全に逃してしまった。
「別に公にすることでもないので黙っていましたが、アッちゃんは僕の許嫁ですよ。」という修一郎の爆弾発言に、慎ましく白菜のあさり餡かけを食べるアツ子さんを除く全員の動きが止まってしまったのは、皆が一通り料理の出来栄えを褒め、ミツ子さんが若住職とアツ子さんの関係を興味津々に問いただした直後であった。アツ子さんは余計な事をと白菜をつつきながら、「生まれた時に親同士が勝手に決めたことで、当事者である私が御免被りますと言っているのだからもう白紙なのよ。今の時代に生まれた時に結婚相手が決められてるって何なのよ。人権侵害よ。」抑揚のないトーンで否定した。松子は皆のためにちょっと前提を明らかにしておくべきと気を回し、「お二人がご親戚だとは昔お聞きはしていたのですが。」控えめに言い足すと、鳴門夫妻は「ヘッ。」と驚いた顔をした。「そう、修一郎が千鳥本家で私の家が分家で遠い親戚ね。だからと言って人の将来まで本家の意向で決められたら堪らないわ。」と言うアツ子さんに向かい修一郎が苦笑して、「千鳥の家の中ではそういう関係になりますが、アッちゃんのご母堂の旧姓は薄葉で、薄葉家14代当主の娘さんで現15代当主のお姉さんになります。つまり千鳥の分家が恐れ多くも主君筋からお輿入れいただき、その娘さんがアッちゃんになります。時代が時代であればアッちゃんは薄葉一族のお姫さまなんです。単なる坊主の千鳥の家柄とは格が違うんですよ。」と解説した。鳴門夫妻はぽかんと口を開けて「はぁ、知らなかった。驚いた。」と呟き、三所市に縁の薄い亀次郎は「薄葉家は名君を多く輩出した家柄ですよね。」とピント外れの世辞を言った。三所市出身の松子は郷土史の授業で度々目にする薄葉家のお姫様が目の前に居ることに感動していた。そういえば、若住職が仏の座支店を訪れた時に、松子に、お姫様のお守も大変でしょうと言ったことを思い出し、アツ子さんは本物のお姫様だったんだ。アツ子さんの美貌と気品は血筋だったんだと納得した。アツ子さん十二単とか来たら綺麗だろうなと誤った史実観でうっとりとなり「本物のお姫様。」と松子が目をキラキラさせてうわ言のように言うと、アツ子さんは既に若住職の法力に取り込まれた松子の目を覚まさせるために、松子の目の前でパチンと手を打って言った。「私の王子さまは坊さんではないわ。」
「若住職は有名人だから薄葉家のお姫様と結婚したら大騒ぎでしょうね。」ミツ子さんが真面目な顔で言うと、修一郎は「いやいや、そんなことはないです。」と有名人の否定なのか、大騒ぎの否定なのか微妙な謙遜をした。「ミツ子さん変な事周りに言わないでよ、私本当に迷惑なのだから。」アツ子さんが釘を刺す横で、松子はアツ子さんと石清水さんはどうなったのだろうと考えていた。若住職は颯爽としたイケメンだからアツ子さんとは美男美女のお似合いのカップルなのだけど、無口でちょっと陰があってもさり気ない優しさを見せる石清水さんのほうがアツ子さんの横に立つ男性として好ましいような気がしていた。石清水さんとの話は、松子がアツ子さんと遠慮なく話が出来るようになったずっと後に「アツ子さんは石清水さんと結婚するとばっかり思っていました。」と言う松子の話に「笑える話なのよ。」とアツ子さんは教えてくれた。修一郎から求婚されたアツ子さんは石清水さんと付き合っているから無理と理由を付けると、なんと修一郎は石清水さんに合って、アツ子さんが薄葉家の血筋で、自分の許嫁なので身を引いてくれとお願いしたそうである。「普通は、何馬鹿な事言っているんだってなるじゃない。でも現実は石清水のやつ、そうですか。分かりましたって田舎に帰っちゃったの。お幸せにだってさ。呆れて涙もでなかった。なかなか松子ちゃんと谷渡さんみたいに上手くいかないね。」アツ子さんは寂しそうに笑った。ただ、松子は石清水さんの気持ちも少しは分かるような気がした。自分の彼女が薄葉家のお姫様だとカミングアウトされたらその先に予想される家と家との揉め事を配慮し、アツ子さんのことも考えて自ら身を引いたのではなかろうか。三所市においてはそれぐらい薄葉の名は大きいのである。石清水さんはどこまでもクールな人だったなと松子は思った。
アツ子さんが本気で怒りそうなので、話題を変えるべきと判断したのか、鳴門係長が亀次郎と松子の馴れ初めについて話始めた。ただ鳴門係長は少しデリカシーに欠ける人なので、酔いも手伝ってか松子が危惧したとおりに松子のお尻が原因となった立鼎支店長も巻き込んだ騒ぎについて面白可笑しく話した。修一郎が「へぇー、谷渡さんは目が高いというか鑑識能力がすごいというか、そんなことってあるのですね。鳴門夫妻も大変でした。」と笑った。「あんた達ね、そういうのセクハラと言うのだよ。」ミツ子さんが注意すると、「でもね。」とアツ子さんが割って入り、「松子ちゃんのお尻はね、エロとかそういうのじゃなくて神が造りたもうた創造物なのよ。例えるならミロのビーナスとか広隆寺の弥勒菩薩とかのレベル。後世のために美術品として石膏で固めたいぐらいなのよ。」顔を赤くして力説した。アツ子さんは少し酔っているようだった。「だから?」ミツ子さんが不満げに聞くと「だから、美術品なんだから観賞はしても良いのよ。でも触るのは駄目、美術館は触るの厳禁でしょう。」とアツ子さんは解説した。ミツ子さんは思い当たる節もあるようで「それもそうね。」と納得してしまった。亀次郎はアツ子さんの話にいちいち頷き、話したそうにウズウズしていたがミツ子さんの納得した様子を切っ掛けにここぞとばかりに話し始めた。「そうなんですよ。マーちゃんのお尻は大殿筋でなく脂肪で桃尻を形作っているのがすごいのです。出っ尻と混同されては困ります。出っ尻は訪米人のような狩猟民族が走る目的のために筋肉で作られたものです。筋肉ですから金髪モデルのプリッとしたお尻も我々がイメージする柔らかいお尻ではないということは申し添えておきます。本来、農耕民族である日本人のお尻は立ち止まっての屈伸運動の関係で扁平になる確率が非常に高いので、おっしゃられたようにまさしくマーちゃんの桃尻の美しい形は神が作りたもうた創造物と言っても過言ではないでしょうね。」。「もう、いい加減にしてください。」と松子は妻のお尻自慢を始めた亀次郎の暴走を制止しようとしたが、残りの四人が興味深そうに首を縦に振るのに気を良くしたのか、亀次郎は松子に、「ちょっと今大事なところだから。」と右手で松子の口を封じ、「ではマーちゃんの桃尻がどうして生み出されたかは皆さんは分かりますか。」四人に問うた。皆が首を横に振るのを見て亀次郎は満足そうに頷き、「マーちゃんのお尻は体形に比して大きいのですが、増してマーちゃんの腹横筋の動きが非常に活発ではないのかと私は推察します。腹横筋が活発に動くと腰の、」と言いながら亀次郎は自分の腰の後ろを指さした。「この部分に脂肪が付きにくくなります。つまりウエストラインに脂肪が付かず自然と美しい桃尻が生まれるのです。」。アツ子さんとミツ子さんが自分の後ろの腰に手を当てて脂肪の付き具合を確認し、ミツ子さんがアツ子さんに何か耳打ちしたが、口の形はやばいと動いていた。「理想的な桃尻はそれだけでも美しいのですが、歩くと更に美しく見えます。」と亀次郎は続けた。「上部から綺麗に割れた美しい桃の形のお尻は歩くとプリンプリンとクロスするように揺れて左右のお尻の盛り上がりが規則正しく円を描くようにポンピングしながら上下します。マーちゃんの歩く後ろ姿を始めて見た時、僕はあまりの美しく魅惑的なお尻の動きに気付いたら無意識にマーちゃんの後ろを付けていました。これは僕だけでなく、僕の気付いた限りマーちゃんとすれ違う男達の視線は必ずマーちゃんのお尻に向けられ、加えてそのうちの少なくない男達が無意識にホゥと呟いてしまう現実を踏まえると、先ほどおっしゃった、」とアツ子さんを見て、「美術品という評価は正しいものと言えるでしょう。」亀次郎はドヤ顔で言った。亀次郎の熱弁に皆はなんとも言えない顔でしばらく黙っていたが、「私はね。」ミツ子さんが口を開いた。「谷渡君が誠実な男だっていうのは分かっていたし、本当に松子ちゃんが好きなんだと言うから、お互い知らない同士が知り合うキッカケは何でも良いと思うと松子ちゃんに言って、谷渡君のお尻フェチをかばうようなことも言ったのだけど、ここまでくると応援して良かったのかどうか不安になるわ。」と気遣うような顔を松子に向けた。松子は亀次郎の妻として夫の暴走を制止しつつもなんとか奇人変人としての分類から夫を救い出さなければならないと焦った。「私はお尻のことは良くは分かりませんけど、私は何も取柄がない平凡な人間で、こんな私でも亀次郎さんが褒めてくれる所があるというのは嬉しいのですが、人様の前で言うことではないですよね。」やんわりと亀次郎をたしなめた。「でもお尻が人様の前にあるのも現実だしね。」とアツ子さんはワイングラスを傾けて、「いいんじゃないの。旦那様がこんなにも熱く自分の奥さんを語れるなんて素敵じゃない。日本の男って外向けには家の愚妻がとか、ひどいのになるとお見せするようなものじゃないとか言って絶対に褒めないじゃない。谷渡さんが堂々と奥さん自慢するのを聞いてると、松子ちゃんはこんなにも愛されているんだな、幸せそうだなと私はなんだかほっこりしちゃうのだよね。」。アツ子さんの意見は確かに正論ではあったが、皆は頷きながらも何かしっくり来ないなと感じていたのも事実であった。その引っ掛かりを松子が一言で明らかにした。「でも、褒めてくれるのお尻だけなんですよ。」。
それまで聞き役に徹していた千鳥修一郎が口を開いたのは鳴門係長が2本目のワインを開けた後だった。「先ほどの谷渡さんの話なのですが」と控えめに会話に割って入り、「もう少し詳しく聞きたいところがあるのですが。」亀次郎に目を向けると、亀次郎は待ってましたという感じで「腹横筋の話ですね。」と嬉しそうに言うのを「違います。」と冷徹に否定して、「松子さんの後ろ姿を男達が追いかけていたというような話があったと思うのですが。」と言うと、亀次郎は少し気まずそうに、「あぁ、それね。」と呟き、「まぁ、正確に言うと追いかけていたのは僕だけなのですが、男達の視線がマーちゃんのお尻に集まっていたのは事実で、美しい女性や可愛い女の子とすれ違うと、オッと思って振り返ったりしますよね。普通は、綺麗だなとか可愛いなという賞賛と言うか敬意の念で女性の後ろ姿を確認すると思うのですが、マーちゃんの場合は後ろ姿のチラ見ではなく、明らかに振り返る時間が長いと言うかお尻にへばりつく様な下卑た視線を集めていたのでハラハラしました。マーちゃんは単に歩いているだけなのに。」その時の記憶が蘇ったのか自分のストーカー紛いの行為を棚に上げて非難の声をあげた。修一郎は頷いて、「変な話ではなく真面目な話として聞いて頂きたいのですが。」と前置きして、「先ほどのアッちゃんの話の時にも少し思っていたのですが、谷渡さんの奥様のお尻ってひょっとして人を魅了して虜にする価値あるものじゃないかって考えていたんです。」と言って亀次郎をニンマリさせた。名前を出されたアツ子さんは、「私何か言ったかしら。」と呟いて「あぁ、美術品レベルのお尻ってことか、うん、それは保障する。」と言ってから、「それがどうしたの。」と修一郎に先を促した。「我々は今、仏の座商店街の集客力の向上というテーマでプロジェクト内で色々と検討していて、谷渡さんから見せて頂いたデータによると商店街の専用駐車場の設置により小さいながらも確実に上向きになってはいるのですが、そこには駐車場建設と言う少なからぬ投資が必要とされた訳です。でも、ひょっとしたらもっと安易かつ投資抜きに集客力を上げる方法があるんじゃないだろうかと思ったんです。」と修一郎は言葉を切った。「勿体ぶらないで教えてよ。」ミツ子さんが催促したら、アツ子さんが「松子ちゃんのお尻か。」と代弁した。「えっ、どういう事ですか?」松子が訳の分からぬまま自分のお尻が話題にされていることに不満の表情を見せると、言葉に詰まった修一郎の代りにアツ子さんが言った。「要は、松子ちゃんがバニーガールみたいな恰好をして仏の座商店街をお尻を振りながら歩いたらスケベな男達がお尻見たさに集まってくる。加えて、松子ちゃんはプロジェクトリーダーの谷渡さんの奥さんなのだから無料で活用できますね。ということよ。さもしい男の考え付きそうな話よ。」アツ子さんは鼻で笑った。修一郎は苦笑して「バニーまでは考えていませんでしたけど、松子さんが艶やかな服で頻繁に商店街を歩いたら噂になって人が集まるんじゃないのかなと思い付いたもので、でも言われてみると、確かに、商店街におじさん達が集まっても仕方ないですね。余計な話でした。」と頭を下げると、「否。」とそれまで熱心にワインを飲んでいた鳴門係長が割って入ってきた。「俺は面白いと思う。谷渡の資料によると商店街の利用者は70%超えだっけ、」亀次郎に確認して、「高齢者が購買層を占めているんだ。利用世帯の世帯主の多くは既に退職していると考えられるが、今の高齢男性は働いている頃から比較的家事にも参加してきた人が多い。新規の買い物客として開拓するのも面白いし、仲の良い夫婦なら一緒に買い物に来て、ご主人が好きな酒のつまみを選んだり、趣味のものを買ったりすることも有ると思う。もちろん商店街も男性層に向けた品揃えを準備する努力をしてもらう必要もあるが手付かずの層からの利用客の増加という観点から見ると期待できると思う。加えて、吉村商店街連合会会長は松子ちゃんのファンだ、プロジェクトに松子ちゃんも参加して商店街の為にバニーとなって一肌脱ぎますと説明したら、一も二もなく鼻の下を伸ばして賛成すること間違いなしだな。」鳴門係長は話しながら、だんだんとこれはイケると確信を持ち始めたのか声に張りが出始めた。「何でアンタたちのために松子ちゃんがバニーにならなきゃいけないのよ。」ミツ子さんが非難の声を上げたが、鳴門係長の頭の中にはプロジェクトのストーリーが出来つつあるらしく「バニーは例えの話さ、ほんのちょっとセクシーな装いで商店街で普通に買い物をしてもらえれば良いんだ、コンセプトは、そうだな何故かセクシーな若妻と出会える商店街ってとこかな、どうだ、男なら行ってみたいと思うだろう。」と自分のアイデアに酔っているようだった。「馬鹿じゃないの。私が言いたいのは松子ちゃんが何故そんな下品なことまでしなきゃいけないのかってこと。」ミツ子さんは松子のために憤慨してくれた。「別に下品とは思わないのだけど。」と言いさして、「色々と商店街集客向上に向けて検討していて、それなりに効果がでそうなアイデアも出しているのだけど、投資を前提とした話には事務局長たる谷渡が商店街の足腰を弱めることになりかねないという屁理屈でウンと言わないんだよ。商店街振興プロジェクト自体白紙に戻すかって話も出ているんだ。この状況で事務局長の奥様である松子ちゃんに少しばかり協力を願っても罰が当たる話でもないだろう。」。鳴門係長の発言に皆それぞれ思うところがあるらしく暫く沈黙が続いた。松子も時折見せる亀次郎の考え込む姿を見るにつけ、プロジェクトが順風満帆という感じてはないのだろうなと思っていたが、白紙に戻すという話が出ているとは知らなかった。亀次郎さんも辛い立場なんだなと心配して亀次郎の顔をそっと伺うと亀次郎はにやけていた。不謹慎にも松子が商店街をバニーの格好でお尻を振りながら歩いている姿を想像しているのは間違いなかった。「それで、協力するとして松子ちゃんのインセンティブはどうなるの。」ミツ子さんは松子のマネージャーになったようなことを言い出したので、松子が慌てて口を挟もうとすると、アツ子さんが松子の袖を引っ張って「後でね。」と松子を止めた。えっとアツ子さんを見ると目が面白そうに笑っており、明らかにこの顛末を楽しんでいた。もう、この酔っ払い。と松子は心の中で毒づいた。もう知らない。
「松子ちゃんに報酬を出すのは難しいかな。」鳴門係長は言った。「商店街連合会は谷渡の会社と既に業務委託契約を結んでいる。奥さんである松子ちゃんにプラス報酬を出すとなると契約改訂という手続きが必要となるのだけど、プロジェクト自体が何も進んでいない状況で事業費を増やすというのは、あの渋ちんの吉原会長ではかなり難しいだろうな。」。「じゃあ、松子ちゃんはボランティアでやらされるということなの。」ミツ子さんが非難すると、鳴門係長は「報酬的なものは出せないだろうけど、何か現物支給的なものは必要経費として交渉する余地はあるかな、例えば商店街を歩く際の洋服とかは連合会に請求するとかは可能かもしれない。」と言って、「その辺りは事務局長である谷渡の交渉次第かな。」と亀次郎に責任転嫁した。「なんだ、プロジェクトといっても実際のところ谷渡君と松子ちゃん夫婦に丸投げじゃないの、真面目に考える必要はないからね。」ミツ子さんは亀次郎に忠告した。亀次郎は松子のお尻とバニーのコラボに未練はあるようだったが、「そうですね、マーちゃん一人に負担を掛ける訳にもいかないし、買い物をする時間も限られるだろうから、正直一人だと集客効果を実感するまでは行かないと思いますね。」とやっとコンサルらしいまともなことを言ったので、どうなることかと内心ハラハラしていた松子は安堵の息を吐いた。その時、「ねぇ、ねぇ。服は自分で選んで良いの?」アツ子さんが口を挟んできた。「好きなブランドの服を商店街が提供してくれるのなら私も松子ちゃんと一緒にやっても良いかな。仏の座商店街でお買い物すれば良いのだよね、簡単な話じゃない。」と結構ノリノリであった。「でも、アッちゃん。話によるとそれなりに際どい格好を要求されるみたいよ。」ミツ子さんがたしなめると、「そりゃ松子ちゃんのお尻とまではいかないにしても、足見せぐらいでなんとかならないかな。ほら。」と座ったままスカートを捲って白い太ももを見せた。三人の男の目がアツ子さんのすべっとしたなめらかな足に釘付けとなった。どうもアツ子さんは酔うと陽気になる質らしかった。「ミツ子さんも参加すれば良いじゃない。胸の谷間を強調すれば男達がぞろぞろ付いてくるわよ。」アツ子さんがキャハと笑った。「仮装大会をやろうというんじゃないから勘弁してくれよ。」鳴門係長が顔をしかめると、「ちょっと、失礼じゃない。松子ちゃんのお尻と全然熱量が違うじゃない。」とミツ子さんが亭主に文句を言って、「私なら買い物した時に割引して欲しいな。毎日の事だからすごく助かるわ。」と主婦らしい視点でがめつい事を言った。鳴門係長は、やれやれといった表情でミツ子さんに分からないように男達に肩をすくめて見せたが、修一郎はそれには反応せずに「いけるかも知れませんね。」と真面目な顔で言った。「美女が三人揃って参加して頂けるということになると、色香漂う美しい奥様達が買い物をする商店街という口コミが広がる可能性は高いです。そうなると女性心理として、私だって負けないという奥様達が美しさを競ってくれるかも知れない。先ほどおじさん達の集客と言いましたけど、そんなさもしい話でなく、イケテいる奥様達が買い物をする商店街というイメージが出来れば自然と集客力は上がるのではないでしょうか。」。アツ子さんが「私はまだ奥さんじゃないのに。」とブツブツ言ったが、鳴門係長は「確かに。」と頷いて、「色々と整理することもあるが検討の価値はあるな。」と修一郎の説明に納得した顔で、亀次郎に「谷渡、企画書の叩き台を作ってくれないか。奥さんたちの要望も入れつつ、少ない投資で効果が見込まれる点強調してくれ。企画書は支店長も見るからお尻の話は置いといてなるべく上品にな。吉原会長のお楽しみの部分は口頭でいいだろう。」と注文した。「だから私は奥さんじゃないって。」アツ子さんが唇を尖らす横で亀次郎は額に指を付けて悩む素振りであったが、「ちょっと形にしてみるか。」顔を上げるとやり手のコンサルタントの顔になっていた。「松子ちゃんのおかげでなんとかなりそうな気がしてきたよ。」鳴門係長からお礼を言われたが、良く考えると松子は特に何も言ってはいない。ただ、若住職たる修一郎の法力なのか、この時の松子は不思議にも妻として亀次郎の手助けができることに少なからぬ高揚感すら覚えていた。それから、松子が危惧したとおり、酔っぱらったアツ子さんはプロジェクトがスタートする段になって、覚えてないのよねぇと冷たい笑みで否定した。
Ⅷ
亀次郎が苦心して作成した企画書は千鳥修一郎のマーケティング分析も入り、斬新かつ濃厚なプロジェクトとして立鼎支店長も感心した内容となったらしい。実施に向けて最も難関と思われていた商店街連合会の吉原会長も最初こそ、「金が掛かる話は儂の一存ではなぁ。」と渋っていたらしいが、鳴門係長が、「三所信用金庫仏の座支店のアイドルだった松子ちゃんがなんとですね、ここだけの話ですが、実は・・・。」とかなり際どい話を耳打ちしたところ、吉原会長の表情が一気に緩み、「松子ちゃんのアレか。」と鼻の下が伸び、「松子ちゃんの頼みと言うことであれば儂も嫌とは言えんな。よろしい、商店街の連中には反対はさせんから積極的に、否、是非やって欲しい。」と前のめりに賛成したらしい。『仏の座商店街イメージアップによる集客倍増プロジェクト』と名付けられたプロジェクト名は、「最初は”倍”じゃなかったのだけど、鳴門君が、どうせおっさん達は表紙しか見ないのだから書いた者勝ちだって、と根拠なしに付け加えたんだ。」亀次郎は渋い顔だったが、松子は、亀次郎の企画で寂しかった仏の座商店街に買い物客が溢れる姿を思い描き、谷渡さんのおかげで商店街が生まれ変わりました。さすがは谷渡さんです。と立鼎支店長や吉原会長を始めとする関係者の皆から夫が賞賛されるように、妻として頑張らなきゃと、何をさせられるのか良く分からないまま気負い立っていた。
「ミツ子さんが希望した3割引きでの買い物は何の問題もなく商店街の全店で受け入れて貰ったよ。」亀次郎の説明に、「全商品ですか。」と松子は驚いた。「こちらは食料品だけのつもりでお願いしたら、商店街全体のプロジェクトだから店に差は付けないでくれって逆にお願いされてしまったよ。」。松子は毎月の買い物額を素早く計算して、年間いくら浮くのか素早く計算してニンマリした。多分この時松子の目は¥マークになっていたはずだ。母の買い物も頼まれてあげても良いかなとずるい事も考えていた。抜け目なく買い物の割引を要求したミツ子さんの主婦としての抜け目のなさに感心した。「提供する洋服の経費についても認められはしたのだけどね。」亀次郎は続けた。「これは無制限という訳にもいかないから一応上限額を設定したのだけど、アツ子さんの希望するイタリアのなんとかいうブランド・・。」「ピンコですね。」アツ子さんから話は聞いていたので松子はすかさず教えてあげると、「そう、そのなんとかっていう服が結構値が張ってね。」。松子が危惧したとおり、食事会が終わって数日後に千鳥修一郎から鳴門係長に、「お姫様は不参加の意向のようです。」と連絡があり、その話を聞いたミツ子さんが、「あんたが自分も参加するって散々煽ったから、私も松子ちゃんも参加する羽目になったんでしょうが。何無責任なこと言ってるのよ。」と一緒に呼び出された松子を横にしてアツ子さんに激怒した。松子は自分が怒られているかのように体を小さくしていたが、アツ子さんは「覚えてないのよねぇ。」と気だるそうに言って、「で、どんな話だったの?」と内容を確認して、「修一郎に都合良く回されているだけじゃないの。」と万光寺の若住職の名を出して、「乗っかってしまったものは仕方ないか。ピンコで手を打つか。」と言って、「私ひとり者だから商店街で買うものなんてほとんどないのだけど。」と不満げに付け加えた。松子は、若住職がミツ子さんが怒ることを見越し、アツ子さんも職場の先輩であったミツ子さんには無下に逆らえないと計算して、アツ子さんのことを亀次郎ではなく鳴門係長に伝えたのかも知れないと思い当り、スマートな笑顔に隠された若住職のしたたかさに感心した。「それで私の服は自前で準備すれば良いのですね。」松子が亀次郎の話を先読みして、旦那様におねだりする気満々で言うと、亀次郎は首を横に振って、「本来であればマーちゃんとミツ子さんにも好きなブランドの服を選んでもらえれば良いのだけど、商店街連合会でプロジェクトの説明をしていたら中洲さんが、マーちゃんのためならウチも参加するよって協力を申し出てくれたんだ。ミツ子さんとマーちゃんの服については無償で提供してくれるらしいよ。」と商店街の中洲衣料店の店主の名前を上げた。「それで、マーちゃんに服を見て欲しいから一度店の方に来てくれないかと言われているのだけど、今週中にも訪ねてくれないか。僕も一緒に行きたいのだけど今色々立て込んでいてね。日時は僕の方から伝えておくから。」亀次郎は懸案がひとつ片付いたという安堵の表情であった。中洲衣料店は三所信用金庫仏の座支店の顧客であり、当然松子も存在は知ってはいたがどちらかと言うと商店街購買層に則った年配者向けの婦人服を並べている衣料品店で、アツ子さんが薄葉家のお姫様だとしても、ピンコとはあまりにも違うんじゃないのと松子がガッカリしたのも事実であった。
「松子ちゃん待っていたんだよ。結婚して益々綺麗になったんじゃないの。」松子が無遠慮にニヤつく中洲衣料店の禿げ店主に迎えられたのは翌週になってからであった。亀次郎から話があった後、「松子ちゃんどうする?なんなら松子ちゃんの服もアッちゃんのように希望するものを揃えるように亭主にねじ込もうか。」とミツ子さんから気遣いの電話があった。ミツ子さん本人は3割引きの買い物で満足しているようで、「服は貰えるものは貰って、気に入ったら着ることにするよ。」と割と無頓着であった。松子としてもピンコと中洲衣料店の婦人服のどちらに手を上げるかと問われれば秒でイタリアのブランドを選択するのは当たり前の話なのだが、亀次郎の手掛けるプロジェクトがやっと動き出した時点で妻である自分の我がママで水を差すのは避けるべきと思い直し、「私も気に入ったら着るようにしますから大丈夫です。」とミツ子さんの気遣いにお礼を言った。ただ、決して喜んではいませんよというささやかな意思表示もあり、少し間を開けて中洲衣料店に足を運んだのだった。「松子ちゃんに見て欲しいのはこれなんだ。」と店主が持ってきたのは予想外に服のカタログだった。「協力するよとは言ったものの、俺の店は年配者向けのものがほとんどでね、松子ちゃんみたいな若奥さんが着れるようなものはほとんど置いてないんだ。それで、取り寄せにしようと思ってね。松子ちゃんの好きな服を選んでくれないか。」とカタログを松子に渡した。アツ子さんと扱いが違うとちょっとむくれていた松子であったが、ちゃんとそれなりに考えてくれるのだと機嫌を直して、「ありがとうございます。お手数をお掛けします。」と笑顔を振りまいて渡されたカタログを開いた。実は表紙を見た時から違和感はあった。綺麗なナースさんが笑っていた。パラパラとめくるとメイドや制服を着たモデルさんのポーズが可愛らしかった。「あのー、これ、コスプレのカタログじゃないでしょうか。」松子は笑顔を強張らせた。「オリジナル・コスチュームって言って欲しいな。」衣料店の店主は強気にうそぶいた。「吉原会長から松子ちゃんがバニーになるそうだからと衣装を頼まれたのだけど、さすがにそんなことないだろうと信金の鳴門さんに確認したら、バニーは吉村会長の妄想と言うか冗談でしょうけど、松子ちゃんの希望も聞いて、なるべく人目を引く様なものをお願いしますと言われてさ、俺なりに色々と悩んで行きついたのがこれなんだよ。」と恩着せがましく言って、「良く見てよ、確かにコスプレもあるけど、イベント衣装やアイドル衣装それに事務・受付制服まで制作してくれるオーダーメイド制作のカタログなんだ。」と該当するページを示した。確かにメイド服は無茶だとは思うが、既製品に比べ少し丈は短いもののそれなりのデザインで可愛い服が多かった。「結構な値段なんだよ。」と店主は弾みを付けて、「松子ちゃん、いくつか気に入ったものを選んでみてよ。全部揃えるのは無理かもしれないけど、後は任せてもらってさ。」。松子とて亀次郎が中心となったプロジェクト成功のためには、それなりの覚悟を持って参加しているところであり、中洲衣料店が折角協力するというのを無下にするのも良くないなと思い直し、なるべくおとなし目の衣装をいくつか選んだ。「会長はバニーかもしれないけど、俺的には松子ちゃんはこれだと思うんだよね。」と禿げ店主はカタログをめくり、体操服のスクールブルマを履いた女の子の写真を指さした。松子は呆れつつも、卑わいにニヤつくセクハラ親父たちの捌きは仏の座支店勤務で散々訓練してきたところであり、「はい、はい。体操服は商店街で運動会をやるようになったら着させてもらいますね。」と軽くあしらった。それでも、これはどうだろう、それよりもこっちの方がと選んでいるうちに店主の事をおじさんと呼べるほどには親しくなっていた。注文サイズの目安を付けるためと採寸もされたが、おじさんはヒップ周りだけ熱心に2度3度と測り直していた。
三週間程過ぎて、注文した服が届いたと中洲衣料店から連絡があった。オーダーメイドにしては仕上がりが早く、「ちょっとした直しは店でも出来るから。」といい加減なことも言われて在庫品の取り寄せであることは見え見えであった。今回は亀次郎も付いてきたそうな素振りではあったが、受け取るだけですからとお客さんの少なそうな午前中に松子一人で店を訪れた。中洲のおじさんは、「早速だけど中身を確認してくれるかい。」と小さめの段ボールを開け、「薄いポリエステルを使うとどうしても服が安っぽく見えてしまってね、なるべく綿とか厚手の素材にしてみたんだよ。」ときれいに梱包された服を接客用のテーブルに並べた。タイトとフレアのワンピースをいくつか選んでいたのだが、おじさんの趣味と見えるミニスカートも混じっていた。最後に体操着が出てきたのには驚いたが、主婦のゆとりで笑ってやり過ごした。「松子ちゃん、試着していってくれないか。」とおじさんは試着室を指さした。松子は店での試着は想像していなかったので、おもわず「えっ。」と声を漏らしたが、確かに補正をお願いしなければならない場合は二度手間になるなと思い直して、「じゃあちょっと着てみますね。」と服の包みを抱えて試着室に入った。この日、松子はエアパンツのいで立ちだったのだが、パンツを脱ぐ段になって、うかつにも今日のショーツがティバックだと気が付いたが、さほど重要な問題でもないかと思い直し、一番上にあるフレアワンピースを身に付けた。試着室にある姿見で確認するまでもなくスカートの丈は短かすぎて前はなんとか隠れそうだがちょっと前かがみになると後ろはお尻が出てしまいそうだった。「おじさん、短かすぎるよ。」松子が試着室から文句を言うと、「大丈夫だよ裾出しするから。」と呑気な声に続いて、「松子ちゃん、どのくらい出すか測るから見せてもらって良いかな。」とおじさんの声が近づいた。まぁ、測るぐらいは良いかと裾を気にして起立の姿勢のまま松子が試着室のカーテンを開けるとメジャーを持ったおじさんが居て、松子を舐めるように見ながらニヤついて、「ほぅ。松子ちゃん似合うじゃないか。丈もそのくらいで良いんじゃないの。」と顔を引いて遠くから見るような恰好をした。「駄目、駄目。これじゃ後ろ見えちゃうよ。」と松子が恥ずかしそうに言うと、「ちょっと後ろ向いてみて。」おじさんが当然のように言うので、松子は戸惑いながらも両手でお尻の裾を押さえて後ろを向いた。おじさんは腰を屈めながら、「松子ちゃん、それじゃ測れないよ。」と笑ったが、ここで手を外すかどうか松子にとっては大問題であった。松子がそのままの格好で固まっているので、おじさんは気を使ったのか、「これはそのままにしておいて、他のも着てみるかい。」と言ってくれたが、松子は覚悟を決めて、「大丈夫です。」と裾を押さえていた手を外した。当然のごとくお尻に弾かれてスカートの裾が上がり、解放されたお尻にひんやりとした風を感じた、屈んだおじさんからは松子の生尻がバッチリ見えているはずで、果たして、「ありゃ、本当にお尻丸出しだ。それにしても松子ちゃんのお尻は綺麗に割れてるなぁ。イヒヒッ。」降って沸いた幸運におじさんの声が裏返った。最後のイヒヒッはエロ親父の歓喜の叫びであった。「ちょっと測らさせてもらうよ。」と言っておじさんは近づいてきたが、お尻の双丘に荒い鼻息を感じ、正面の姿見で確認するとおじさんは顔を屈めて松子のスカートからはみ出した丸い桃尻をニヤニヤしながら覗き込んでいた。ちょっと、ちょっと、おじさん図々しいよと松子は呆れたが、アツ子さんが松子のお尻を評して、美術品なのだから観賞はしても良いのよと決めつけたことも思い出し、おじさんもこんなに喜んでいるのだから見るぐらいは許してあげるかと諦めの心境でいると、「測るよ。」とおじさんの弾んだ声が聞こえてスカートの裾が捲られた。あーぁ、お尻丸出しじゃないのと恥ずかしさで思わずお尻を振ると、おじさんも我慢できなかったのか、つられるように剥き出しになった松子の生尻をクルンと撫ぜた。その瞬間、松子は思い切り体を捻って、ピシャリとおじさんの手を激しく叩いた。「触るのは駄目。美術品は触るの厳禁でしょう。」松子が叱責すると、中洲のおじさんは驚いてそのまま後ろにひっくり返った。松子がどうだとばかりにわずかな布で隠されただけの桃尻を突きだすとおじさんは目を丸くして、叩かれた手を摩りながら、「確かに美術品です。」とコクコクと首を上下させて、「以後、触れないように気を付けます。」と神による造形美を前に自分の不埒な行為を反省した。松子と中洲のおじさんの間に、見るのは良いが触るのは厳禁という奇妙な防犯ルールが成立したことで、おじさんは真面目に補正箇所をメモしながらも役得で遠慮なく松子の桃尻を覗き込み、松子も姿見を前にして安心して試着を楽しみつつ、時にはサービスポーズでおじさんの粘っこい視線に応えてあげた。最後にお礼の意味も込めて体操服に着替えるとおじさんは松子のぴっちりブルマ姿にあらん限りの賞賛を与えてくれて、下着の提供を申し出てくれた。
Ⅸ
万光寺の若住職である千鳥修一郎が自身の結婚についてカミングアウトしたのは、修一郎がゲスト出演していた地方テレビ局のワイドショーにおいてであった。若住職が出ているなとテレビを見ていた松子は驚いて仕事中の亀次郎を大きな声でリビングに呼んだ。女性アナウンサーが、「そう言えば、千鳥さんは最近慶事がおありのようで。」とにこやかに話を振ると、「まぁ、慶事と言うかなんと言うか、無事入籍を済ませまして、人並みに家族持ちになりました。」とわざとらしく頭を掻いた。「どちらの方と?」とアナウンサーが三所市の女性を代表して興味津々に聞くと、「一般の女性です。と言うか、幼馴染ですから、色恋抜きというか、家と家の関係で収まるところに収まったというところでしょうか。」と女性ファンを刺激しない配慮か、色恋抜きという言葉を強調した。女性アナウンサーは、「皆様もご存じのように、千鳥さんは米国でMBAを修められて経済コメンテーターとしてご活躍ですが臨済宗万光寺の副住職という顔もお持ちであり、万光寺は・・、」と寺の歴史を簡単に紹介し、「これで万光寺の系譜が繋がり、種付け万光寺としての新たな歴史が始まりそうですね。」と全国放送は出来ないコメントで締めくくった。「これってアツ子さんと結婚したということですよね。」と松子が興奮すると、「何も聞いてないなぁ。急な話ですね。許嫁と言っていたからそうなんでしょうね。」と亀次郎は特に関心なさそうだった。アツ子さんに直接聞いて良いものだろうかと悩んで、そうだ、まずミツ子さんに聞いてみようと思い立ち、電話でワイドショーの話をするとミツ子さんも全然知らなかったみたいで、「ゲッゲッ」っと驚いて、「夜にでもアッちゃんに聞いてみるから待ってて。」と突撃レポーター役を気安く引き受けてくれた。
「お待たせ。」ミツ子さんから電話があったのは夜の9時過ぎであり、今か今かと待っていた松子は携帯に飛びついた。「相変わらずテンションは低かったけど、入籍はしたらしいよ。」ミツ子さんが主格抜きで話すので、「アツ子さんが、お相手は若住職、間違いないですね。」と確認すると、ミツ子さんは、「刑事ドラマじゃないのだから。」と笑って、「間違いありません。」と報告口調になった。松子にとってアツ子さんと石清水さんは初めて大人の恋愛を感じさせてくれた理想のカップルであり、千鳥修一郎がアツ子さんを許嫁と紹介しても、二人は苦難を乗り越えて成就する恋愛なのだと意味もなく信じていただけにショックであった。「本当にアツ子さんがそう言ったのですか。」と松子がくどく確認すると、ミツ子さんは声のトーンを押さえて、「何なのよ。松子ちゃん何か隠してない?」と勘鋭く疑いを向けられてしまった。「いえ、あまり急だったもので、ビックリして。それにアツ子さんあまり若住職との話に気乗りしてないようだったから。」とごまかすと、「確かに、幸せです嬉しいですって感じではなかったわね。」とミツ子さんも納得した様子で、「でも、あの子ツンデレだから。」と松子の知らなかったアツ子さんの一面も教えてくれた。「アッちゃんはなんというか、周りに馴染まないというか、難しい子でね。薄葉のお姫様と聞いて納得はしたのだけど、本音をなかなか漏らさない子なんだよね。でも若住職には平気で文句言っている。幼馴染というのはあるのだろうけども、最も安心できる相手だったということじゃないの。若住職のアッちゃんに対するご執心もかなりのものだしね。」。アツ子さんは美しくて、スタイルが良くて、品が良くて、仕事が出来て、松子の憧れだった。アツ子さんから声を掛けて貰えることがどんなに嬉しかったことか。私、若住職に嫉妬しているのかな?おめでたい話なのに複雑な心境だった。「信用金庫もそのうち辞めるってさ。あの子がウェブデザイナーとして二足の草鞋履いていたのは結構有名な話だったから。結婚したら在宅ワークでのんびりするんじゃないの。」ミツ子さんは松子が知らなかったアツ子さんの話をポンポン撃ち込んでくる。確かに、アツ子さんの部屋にはデュアルモニターのパソコンがあった。深夜にフロアライトの明かりに照らされるモニターを睨むアツ子さんを想像すると格好良すぎる。トレンディドラマのヒロインじゃないのと呆れるぐらいだ。そんなアツ子さんが何故信用金庫に勤めていたのだろうという不思議はあって、ずっと後にアツ子さんに聞いた。アツ子さんは、「仏の座支店は私の居場所だったから。」と事も無げに言った。「深山さんが居て、松子ちゃんや皆が居て、私に居ていいよっていってくれる唯一の場所だったから。」トレンディドラマのワンシーンのようなセリフに松子が感動して涙したのは言うまでもない。「お式はまだですよね。」と言う松子に、「式はやるのらしいけど、アッちゃんのお母様のご威光で薄葉家のお輿入れの儀式みたいなものらしい。我々庶民が考えるチャラララーンとは違うみたい。本人の話だと閉所で色々なことをやらされると言っていた。それと披露宴は恥さらしになるから絶対にやらないと息巻いていた。もっとも万光寺の事情もあるだろうから、何もしない訳にはいかないだろうね。その時は私たちも招待されるんじゃない。」とミツ子さんはアツ子さんの意向も無視して期待していた。「それよりさぁ新居何処だと思う。猿山スカイマンションだよ。」と三所市に建つ唯一のタワーマンションの名を上げた。「買える訳ないでしょうとは言っていたけど、怪しいもんだね。賃貸でもウチの3倍ぐらいだよ。お姫様は違うわ。」と羨ましさと妬みを爆発させていた。「若住職は万光寺には住まないのですか。」と松子が驚くと、「実家には住まないことが条件だってさ。抹香臭いのは嫌だって言っていた。若住職はマンションから寺に出勤するらしいよ。」とミツ子さんは報告を終えた。現代に舞い降りた薄葉家のお姫様のお輿入れである。アツ子さんの打ち掛け姿は綺麗だろうな、どんな髪型にするのだろう。皇室の宮様みたいにするのかな。チラとでも良いから見せて欲しいなと松子は石清水ショックのことなどすっかり忘れてうっとりしていた。
実は、『仏の座商店街イメージアップによる集客倍増プロジェクト』の効果はさっぱりであった。松子は日頃より仏の座商店街で買い物をしているので、出動率は三人のうち最も高く、主にミニのワンピースやミニスカートをコーデして可愛い奥様のイメージで商店街で買い物をした。なるべく人の目は気にしないように自然に振舞ってはいたが、確かに視線を感じることは多かった。だがその多くは松子ファンの商店街のおじさん達のちょっとエロい応援のための視線であり、なんだか商店街の福利厚生のためにやっているみたいな危惧もあった。それでもおじさん達は松子にちょこちょこ話しかけたりもしてくれるので、松子の周りはそれなりに活気があって商店街が賑やかになったのかもと思ったりもしたのだが、亀次郎が集計する日々の集客チャートは一向に動こうとしなかった。ミツ子さんもニットのサマーセーターでHカップの胸を揺らし、大胆な胸元カットソーで見事な谷間を見せておっぱい星人のおじさん達が巨乳を目当てにミツ子さんの周りにひしめいたが集客グラフはさっぱり動かなかった。毛利元就ではないが三本の矢の最後、三所信用金庫を寿退社してフリーとなり、気兼ねなくプロジェクトに参戦した薄葉公末裔の姫君アツ子さんが切り札として投入された。アツ子さんはなんとシースルーのピンコのパンツや片足を大胆に出したアシンメトリーワンピースで商店街を闊歩し、商店街が興奮のるつぼと化した結果、なんと集客チャートは大きく下振れし、グラフを見たアツ子さんは失望のあまり、「私がやると迷惑を掛けるだけ。」と以降の参加辞退を漏らす騒ぎとなった。この時点でプロジェクト開始から2カ月が経過しており、プロジェクトリーダーである亀次郎は事態を打開すべく再び鳴門夫妻と千鳥夫妻をスズシロタウンの自宅に招集したのであった。
ホットプレートを前にしてそれぞれが小さいステンレスボールの中でお好み焼きの生地と刻みキャベツを掻きまわしていた。亀次郎がホットプレートの温度を確認して、「そろそろ良さそうですよ。」と嬉しそうに告げると、鳴門係長はカチャカチャと音を立てて、ホットプレートの上に生地を乗せ広げながら、「松子ちゃん、この前の料理とは随分違うね。」と配られた発泡酒の缶も見ながら不平を言った。「すいません。急な話で、何を出そうか迷ってしまって。宮島見物に行ったお隣さんからおたふくソースをお土産で頂いたもので。」松子が言い訳すると、鳴門係長は被せて、「千鳥君もさぁ、ご祝儀をたっぷり貰ったんだろう。なんで今日はワインじゃなくて発泡酒なの。」と地元ニュースにもなった万光寺の若住職と薄葉家の姫君の豪華な披露宴との落差を嘆いた。「見栄の張りあいだけの披露宴には恥ずかしくて呼べないの。結婚報告会に本当に大事な人達を招待するから、松子ちゃんは旦那様とそちらに出てね。」とアツ子さんから頼まれた松子は薄葉家のお姫様の打ち掛け姿を残念ながら見られなかった。「いやいや、見栄を張っちゃってかなりの持ち出しなんですよ。昨日たまたま檀家の方から発泡酒のケースを菓子折りの代りにいただいたので。」と修一郎は申し訳なさそうに言い足した。「ちょっと、あんたが広げすぎると皆の生地が乗らないじゃないの。」とミツ子さんに怒られた鳴門係長は、「あーぁ。上手く行かないものだねぇ。」とぼやいた。「お見苦しいもの見せちゃって、チャートダダ下がりだもの責任感じるなぁ。せめてミツ子さん並みに影響なしだと救われるのだけど。」アツ子さんがポツリと呟くと、「その言い方なんか棘があるね。」とミツ子さんが返し一触即発の雰囲気が漂った。「ミツ子さん、ここどうぞ。」と亀次郎は自分の生地を隅に寄せてミツ子さんが焼くスペースを提供しつつ、「まだ、2カ月ですからね。駐車場の時だって効果が目に見えるようになるまでにはそれなりに時間を要したんですよ。」とポジティブな雰囲気作りを試みたが、「負の効果はもう見えているじゃない。」アツ子さんのひと言で黙り込んだ。「あのー。」松子は控えめに会話に割り込んで、「ミツ子さんもアツ子さんも感じてはいると思うのですが、注目は集めていると思うのです。ただそれが集客に繋がっていないというか・・。」と言うと、「視線が痛い、痛い。」とミツ子さんが笑い、胸を持ち上げて大きなフォルムを誇った。「それで、私、もう少し短いスカートでも良いかなと思っていて。中洲衣料品店からもっと着丈を詰めたものも頂いているので。」とプロジェクトリーダーの妻としての覚悟を示すと、「じゃあ、私はノーブラで歩くか。」とミツ子さんが冗談とも本気とも付かないことを言い、発泡酒を飲んでいたアツ子さんが「私はノーパンね。」と薄葉家の黒歴史を作りかねないことを言って皆を驚かせた。「あのね。」と鳴門係長が両手を上げて、なんならヌードになろうかと言い出しかねないヒートした奥様達をなだめつつ、「コンセプトはイケている奥様達が買い物をする商店街のイメージを創ることなんだ。露出狂の奥様達が出没する商店街で変態を集めて買い物客が増える訳ないだろう。」鳴門係長にしては至極真っ当なことを言った。「そうですね。なんだかもう一歩なのに、というじれったい感じもあって焦ってしまいました。」松子が素直に反省すると、「見られる快感に目覚めつつあったのに残念だわ。」とミツ子さんが場を和ませた。「当人である松子ちゃんの感触を信じるとすると、素材は良いのだから後はどう料理するかという料理人の話だろう。」と鳴門係長は続けたが、直ぐに奥様達を食材に例えた失言に気が付き、「失礼。ぴったりとした表現がなかったもので。」とミツ子さんの顔を伺いながら、「こちらから打って出るというやり方もあると思うんだ。SNSを使って仏の座商店街でこんな素敵な奥様達を発見といった具合に話題を広めて効果を見てみたらどうだろう。PRを専門にする企業に頼んでも良いし、なんなら俺が発信しても良い。」と提案した。「駄目だ。」亀次郎が素早く反応した。「コンプライアンスの点から賛成できない。主催者が仕掛けたと発覚した場合に詐欺行為と非難されても仕方ないことになる。特にSNSを使う時は身バレを覚悟しておいた方が良い。それに無理に作られたブームは所詮一過性のもので長続きはしないんだよ。」。「あれも駄目、これも駄目。それも駄目。お前は後ろ向きなことしか言わないよな。」鳴門係長は亀次郎に毒づき、「MBA様の意見は?アメリカで折角マーケティングを勉強してきたんだろう。何かないの。」と三枚目のお好み焼きを熱心に焼く修一郎に振った。修一郎は、「美味しいですね。キャベツしか入っていないお好み焼きって人生始めて食べましたよ。本当に美味しいのでびっくりですよ。」と松子に向かってニッコリした後、鳴門係長に向かって、「運しかないですね。」と説法のごとく言った。「マーケティングって所詮後付けの理論なんですよ。何を作って何をすれば売れるのか分かっていたら誰も苦労はしませんよ。ある商品がバカ売れしたとして何故そこまで人気になったのかなんて企業の担当者も実は分からないのですよ。でも売れたのは事実だから理由を後付けで考えるのです。この客層にマッチさせたからだ、特別なPRをしたからだって、だから売れたのだって。それでマーケティングが優れているなんて勘違いすると次の商品はまったく売れない。何故売れたのかの一番の答えは、運が良かったから。逆に何故売れなかったのかは、運が悪かったから。これが一番しっくりくるんですよ。」。「じゃあ、どうすりゃ良いのよ。」と鳴門係長が頭を抱えると、「運気が上がるように加持祈祷でもやりましょうか。」と修一郎はステンレスボールの生地を掻きまわしながら言った。「いずれにしても、素材は良いのだから、」と亀次郎は言いかけて、慌てて、「ごめんなさい。」と奥様達に謝った後、「効果が現れることを信じて、もうしばらく今のやり方を続けましょう。大変でしょうが、もうしばらく我慢してください。」と三人の奥様達に向かって頭を深々と下げた。松子はプロジェクトリーダーの妻として率先して大きく頷き、ミツ子さんとアツ子さんはつられて小さく頷いた。この後、皆は若住職の法力のすごさを思い知ることとなる。
プロジェクトにとって幸運だったのは、三所信用金庫仏の座支店の預金係の全面的支援が得られたことであった。深山係長にとっては、千鳥アツ子も谷渡松子も新採の時から一人前のテラーとして育て上げたいわば秘蔵っ子達であり、その二人が仏の座支店の融資拡大プロジェクトのためになり振り構わず奮闘する姿に黙っていられず、協力を申し出ることは自然の流れであった。深山係長と椋鳥シマ子は若い時に三所市のディスコ、モンキークイーンでバラバラ女王を競ったライバルであったらしく、この歳ではさすがにボディコンは無理だけどと言いつつも、ペンシルスカートに透けたブラウスの出で立ちにふんだんにゴールドをコーデするとノーブルな奥様が誕生し、仏の座商店街で買い物をするセレブ奥様を演出した。決定的だったのは、深山係長から、旦那様のためにお尻で奮闘する松子の話を聞いた駒掛ヒロ子が感激して、松子直伝のヒップアップ体操の成果を商店街で披露する一方で、伝説のお尻を持つ松子先輩に出会える商店街として三所商業高校OGのためのパワースポットとして仏の座商店街をインスタグラムで紹介し、松子先輩を超えるファッションで仏の座商店街を訪れれば玉の輿成就のミソロジーを誕生させてしまった。ヒロ子のインスタグラムの効果はてきめんで、松子がミニのワンピースで買い物に行くと、見せパン無双のミニや下尻丸見せマイクロショートパンツのギャルが、「松子先輩ですかぁ。キャァーッ。」と奇声を上げて群がり、「松子先輩。一緒に写真良いですかぁ。」と失礼にも松子の後ろ姿と共に写真を撮り、その画像を仏の座商店街ナウとSNSで拡散した。万光寺若住職の千鳥修一郎は頃合い良しとして、プロジェクト成功祈願を願って加持祈祷を行い、ローカルテレビ局は、燃え盛る炎を前に汗を飛ばしてサンスクリット語で祈願する修一郎の鬼気迫る様子を地元を愛するイケメン住職の感動秘話として特番で放送した。松子自身も確かに手ごたえはあった。ただプロジェクトの初期に感じた上滑り感はやっぱり感じていて、購買層の集客にどの程度の効果が出ているのか疑心暗鬼であった。松子が、あれっと違和感を感じたのはキャベツお好み焼きパーティから更に2か月を経過した頃であった。最初はお洒落な女の人がいるなぁと思う程度であったが、しばらくするとイケてる奥様達が目立つようになり、商店街はファッションコロシアムの様相を呈し始め、商店街はセンスの良い女性の買い物客が目に見えて増えた。連れて亀次郎の集客チャートは右型上がりの傾向に転じた。
修一郎が「キャベツのお好み焼きをご馳走になって良いですか。」とひとりでふらりとスズシロタウンの家を訪れ、「完璧にバズりましたね。」とあきれ顔でいくつかのツイートを見せた。有名女優もフォローしており、つぶやきは明らかにアツ子さんのファッションを意識していた。「加持祈祷ありがとうございます。効果満点でしたね。」と亀次郎が笑うと、「苛めないでください。雨乞いは雨が降りそうだからやるのです。」と修一郎も笑った。「奥様が。」と松子を見て、「奥様が覚悟を決めた時点でこの結末は見えていましたよ。谷渡さんも分かっていたのでしょう。」と禅問答のようなことを言った。「マーちゃんと出会ったことで僕の運が良い方向に流れ始めたのは感じていました。今回の話はその中のほんの小さな出来事に過ぎないのです。」と亀次郎が誇らしげに言うと、修一郎は頷いて、「本当に福マ。」と言いかけて、「本当に福尻ってあるのですね。今回は僕も勝ち尻に乗らせていただけました。」とポカンとする松子に合掌をして「僕もアッちゃんを大事にして運を逃さないようにしますよ。」と松子に向かって言った。「もう転がり始めましたから、止めようと思っても止まりませんよ。」キャベツのお好み焼きをたらふく食べて若住職は帰っていった。亀次郎はそれでも慎重にチャートを睨んでいたがチャートが基礎ラインの倍を超えて更に伸びを示し始めると、「マーちゃん、僕やりました。」と静かに勝利宣言を妻の松子に告げた。
松子は生まれてからの二十数年間自分を不幸せな女だと感じたことは一度もないが、取り立てて人より恵まれたものだと感じたこともない、いわゆる平凡かつ人並みな二十数年だった。松子は都会に憧れず地元に親しみ、自分を平凡な人間だと認識し、これからの生活も大きな変化が訪れないように望んでいた。仕事をちゃんとやり、周りから可愛がられて、しばらくしたら東京から来た変な男性から求婚され、タイの離島に新婚旅行に行き、実家の近くに住み、専業主婦となって旦那様と仲良く暮らす母みたいなスーパーの総菜を上手に使う主婦となることを望んでいた。次は赤ちゃんかな。松子は幸せだった。
三所信用金庫仏の座支店物語 -完-




