08. 杯に沈み、家に眠る
「うーん、聖教会ねえ……」
酒場の奥、半個室。
薄い壁一枚向こうから、酔いどれ達の笑い声と杯の音がくぐもって聞こえてくる。それをBGM代わりに、俺は向かいの席に座る人物を見ていた。
名をベルベット。
黒いフードに、顔全体を覆う黒い仮面。表情は見えない。
線の細い体躯と中性的な声、どこか気の抜けた立ち振る舞いも相まって、ぱっと見は場末の小間使いのようだ。
――もっとも、それは擬態にすぎないのだが。
裏の世界での通り名は“情報屋”。
王都でも指折りの腕利きで、日々膨大な依頼を捌いている。
とある事情で知り合って以来、互いに近況を報告し合う、数少ない友人の一人だ。
なお本人曰く、性別は男。
よく間違えられて迷惑しているらしい。
そんな彼?は仮面をつけたまま、器用にカップを持ち上げた。
……そして、普通にコーヒーを飲む。
(……いや、どこから?)
じっと見ていると、視線に気づいたのか仮面を指で軽く叩いた。
「なに。気になる?」
「……まぁ、少し」
「企業秘密」
即答だった。
そのまま何事もなかったかのように、また一口飲む。
(情報以前にその構造が気になるんだが……)
仮面の下の素顔を、俺は知らない。
ふと、そんな当たり前の事実が頭をよぎる。
声も、仕草も、思考の癖も知っているのに――
顔だけは、知らないままだ。
(……知りたいとは、思う)
だが、それを口にすることはしなかった。
この距離が崩れる気がして、無意識に言葉を飲み込んでいた。
そんな俺の内心をよそに、ベルベットは机の上に広げた書類から顔を上げ、苦笑混じりにこちらを見た。
「確かに、ここに書かれてることが事実なら大問題だよ。子供をさらって投薬実験……ましてや聖教会が実行犯となればね」
指先で紙を軽く弾く。
「今すぐ国王様に報告すべき案件。でもさ、正直怪しいと思うんだ」
「……理由は?」
「ボクが調べた限り、なーんの証拠も出なかった」
やれやれといった様子で肩をすくめる。
「王都、いや大陸随一の情報屋ベルベット様がだよ? そんな最重要機密を、何の対策もなしに持ち歩いて、あげく君が拾うタイミングで落とすと思う?」
「……確かに。出来すぎている」
「十中八九、罠だね」
俺はカップを持ち上げる。
すっかり薄まったコーヒーを一口飲み、眉をひそめた。
「……まずい」
「でしょ。氷入れっぱなしにするから」
「お前が話し込むからだ」
「人のせいにするなよ」
軽口を叩きながら、ベルベットは俺のつまみを指先で弄ぶ。
その瞬間、ふと気づいた。
――影が、揺れた。
「……おい、何してる」
「暇つぶし」
次の瞬間、
いつの間にか消えていたつまみが、影の中からぬっと戻ってきた。
「盗むな」
「返してるからセーフ」
「そういう問題じゃない」
「細かいなあ」
けろりと言ってのける。
ベルベットの異能。
潜伏・隠匿に特化した強力な力で、裏社会での地位を築き上げた切り札だ。
「聖教会が黒に近いのは事実。でも、そこまで繋がりの深い国王まで疑うとなると……王都そのものが怪しくなる」
仮面の奥から、こちらを探るような視線を感じる。
「ボクは別に、それほどこの街に思い入れはない。でもさ、ロイスは違うでしょ?」
「ああ」
自然と、言葉が出た。
「行く当てのなかった俺を拾ってくれたイヴァン団長とヴァルフリート家。国王、王妃、ジーナ団長……受けた恩は多い。それに、聖女様との約束もある」
「騎士団長サマはともかく」
ベルベットが即座に返す。
「その聖女様こそ、限りなく怪しいと思うけどね。……で、これどうする?」
とん、と。
机の中央に置かれた“例の書類”を指で叩く。
「情報屋としては、もう少し様子見したい。でもさ」
仮面の向こうで、にやりとした気配。
「どうせロイスのことだし。考えてること、だいたい分かるよ」
「……」
「で、いつものあれは? どんな感じ?」
「今のところ、明確な反応はない」
ベルベット相手に隠し事をする気が起きず、正直に答える。
「だが……罠の可能性が高くても、この王都を守るためには王のところへ行くべきだと思う」
俺の異能《第六感》。
五感を超えた直感に近いそれは、これまで何度も俺を危機から救ってきた。
共に行動する事の多いベルベットも、その精度をよく知っている。
数秒。
二人の間に、沈黙が落ちる。
仮面の奥から向けられる視線を、俺は逸らさなかった。
「……あーもう」
ベルベットは諦めたように頭を掻く。
「分かった。ボクの負け。ロイスの言う通りにする」
小さく溜め息。
「いっつもロイスに甘いなぁ、ボクは……でも、その代わり条件が二つ」
仮面の奥で、何かぶつぶつ言いながら指を立てる。
「一つ目。あと二日、いや三日待って」
「さすがに準備ゼロで突っ込むのは自殺行為だよ。相手の戦力は未知数。それに、この内容が本当なら、聖教会の中に必ず隠し部屋がある」
ベルベットの細い中指が、書類をゆっくりとなぞる。
「大規模な研究を隠せる規模の部屋。それへの最短ルートも含めて、ボクが洗い出す」
「……それは助かるが、本当にいいのか?」
「大丈夫」
即答だった。
「誘拐事件を追う過程で聖教会はある程度調べてる。前は“候補の一つ”止まりだったけど、今回は違う」
少しだけ、声が低くなる。
「隅々まで、丸裸にする。情報屋の名にかけてね」
仮面越しでも、悪い笑みを浮かべているのが分かる。
俺は苦笑しつつ、胸の奥に小さな安堵を覚えた。
「……ありがとう」
真っ直ぐに言うと、ベルベットは少しだけ視線を逸らした。
「あー……そういうの、ずるい」
照れたように頭を掻き、すぐに指を二本立てる。
「で、二つ目」
「もちろん、潜入する時はボクもついて行く」
「ああ、当然頼む。今回も力を貸してくれ」
「ロイス一人だと、無策で正面突破しそうだからね」
軽口の裏に、本気の心配が見える。
「で、副団長サマの明日の予定は?」
「久しぶりに家に顔を出す。……気になることもあるし」
「例の、団長サマの件」
「……ああ」
「思い詰めすぎないでよ。なんでも言って」
「ありがとう」
一拍置いて、ベルベットがぽつりと言った。
「……あ、そうだ。言っとくけどさ」
「?」
「この仮面、外して酒場出ると三割くらいの確率で“可愛い子だね”って言われるから」
「……は?」
「ボクだって、好きで中性的やってるわけじゃないんだよ?」
「説得力がない」
「ひどい」
肩をすくめる仕草が、どこか楽しげだった。
さっきまでの重い空気が霧散する。
「そういえばさ」
ベルベットが、机の上で書類を揃えながら言った。
「ボクの異能の正式名称、知ってる?」
「そういえば知らないな。影とかか?」
「それがさ」
一瞬だけ間を置いてから、うんざりした声で続ける。
「”影位相”だって」
「……かっこいいじゃないか」
「やめて」
即答だった。
「どこが嫌なんだ?」
「全部」
ベルベットはグラスを持ち上げ、仮面越しに一口だけ口をつけると、顔を背けた。
「その、なんかこう……」
珍しく歯切れが悪い。
「何だ?」
「……夜の建物の屋上で黒マント羽織ってそうじゃない?」
「偏見がひどいな」
「“フェイズ”だよ? 位相だよ?」
指で空中に括弧を描く。
「絶対、黒歴史ノートに書いてあるタイプのやつ」
「名前付けた人が悪いんじゃないか、それ」
「そう!」
「!?」
突然ばん、と机を両手で叩き、勢いよくこちらに身を乗り出す。
「臆病者のボクはただ影に隠れてるだけなのにさ。なんでそんな仰々しい名前になるの」
「でも、実際は便利だろ?」
「便利だけど!」
少し声を張ってから、店内であることを思い出したのかすぐにトーンを落として席につく。
「便利と恥ずかしいは両立するんだよ」
「……なるほど」
「だから、気に入ってない。書類とか記録ならともかく、口に出すのは無理」
「なら、俺も言わない方がいいか?」
ベルベットは一瞬だけ黙って、仮面の奥で考えるような間を置いた。
「……ロイスが言う分には、まあ……許す」
その言葉の意味をどう解釈していいのか咄嗟に判断出来ず、微妙な顔を浮かべる俺の前で、ベルベットは軽く咳をする。
「信頼料だよ、信頼料」
軽く肩をすくめる。
「ほら、情報屋が自分で“影位相”とか名乗り始めたらさ、胡散臭さ三割増しでしょ?」
「元から十分胡散臭い気がするが」
「失礼だね!?」
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
翌日、昼。
王都にしては珍しく、穏やかな陽射しが街路を照らしていた。
人通りの少ない通りを歩きながら、外套の前を留め直す。
(……ここも、変わらない)
中枢区画から少し離れた場所。
貴族街と呼ぶには控えめで、下町と呼ぶには整いすぎている一角に、ヴァルフリート家の屋敷はある。
華美ではないが、無駄のない造り。
実用性を重んじた、いかにも騎士の家らしい佇まいだ。
門の前に立った瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が、わずかにほどけた。
(帰ってきた、か)
ノッカーに手を伸ばすより先に、門が開く。
「――ロイス坊ちゃま!」
快活な声とともに現れたのは、老執事アルドだった。
何もわからなかった俺に、騎士としての振る舞いを一から教えてくれた恩人の一人である。
「お帰りなさいませ。本日は非番と伺っておりましたので、もしやと」
「ただいま、アルド。急に来てすまない」
「いえいえ。いつでも歓迎でございます」
深々と一礼しながらも、その目はどこか嬉しそうだ。
屋敷の中に入ると、昼下がりの空気とともに懐かしい匂いが鼻をくすぐる。
しばらく立ち止まっていると、廊下の奥からぱたぱたと複数の足音が近づいてきた。
「……ロイス様?」
「え、今の声って――」
ひょこ、と最初に顔を出したのは、
栗色の髪を低い位置でまとめた小柄なメイドだった。
年の頃はロイスより少し下。いつも動きがせわしない。
「あっ、本当にロイス様だ!」
その声に反応して、今度は背の高いメイドが姿を現す。
すらりとした体躯に、切れ長の目。背は俺より少し低い。
そんな彼女は腕を組んだまま、じっと値踏みするようにこちらを見た。
「……似てますけど、本人?」
「おい」
三人目は、最後まで奥にいたのか、
少し遅れて、ふわりとした金髪を揺らしながら出てくる。
「ええー……?影武者、じゃないですよね?」
「失礼だな」
散々な言われように思わず苦笑すると、小柄なメイドが一歩踏み出した。
「ロイス様!? 本当に!?昨日まで“しばらく戻られません”って――」
「急に時間が空いてな」
「急すぎます!!」
即座に返ってくる。
「洗濯の予定、全部ずれましたし」
「布団も干し直しですし」
「昼食だって……!」
矢継ぎ早に不満が出る。
「……ああ、それはすまない」
頭をかくと、切れ長の目のメイドがため息をついた。
「本当に、昔から変わりませんね。急に帰ってきて、急にいなくなる」
「騎士団の仕事だからな」
「それは分かってます」
分かっている、けれど――
そう言いたげな沈黙。
その空気を、金髪のメイドがぱっと崩した。
「でも!ちゃんと生きててよかったです!」
「……言い方」
「ほら、怪我とか!顔色も、ちょっと悪いですし」
ぐい、と一歩近づいて、覗き込まれる。というより俺の顔を彼女の手が挟んでいる。
「近い」
「逃げないでください」
「逃げてない」
「逃げてます」
切れ長の目のメイドが、腕を組んだまま言う。
「痩せました?」
「そうか?痩せてないと思うが」
「痩せてます」
即答だった。
「鎧を脱いだら分かります。昔より、肩が落ちてます」
「それは成長だ」
「苦労って言うんです」
三人揃って、同時にため息。
「まったく……」
「王都騎士団副団長様だか何だか知りませんけど」
「ここでは――」
三人が、声を揃える。
「ロイス様は、ロイス様ですから」
ぴしゃり。
「……はい」
反射的に返事をすると、今度は三人とも、少しだけ視線を逸らした。
「……無事でよかったです」
「ちゃんと帰ってきてくれて」
「顔、見せてくれましたし」
「……心配かけたな」
そう言うと、金髪のメイドが小さく頷いた。
「次は、連絡してください。一言でいいんです」
「ああ、約束する。ありがとう」
ようやく解放されると背後でひそひそ声が聞こえた。
「今の、絶対本音ですよね」
「珍しいですね」
「記録しておきます?」
「聞こえてるぞー」
「聞こえるように言いました」
執事アルドが、絶妙なタイミングで咳払いをした。
「皆、ほどほどに。坊ちゃまが困っておられます」
「困ってない」
「困ってます」
即座に返され、ロイスは肩をすくめた。
「……相変わらずだな」
「はい」
執事は、穏やかに微笑んだ。
「ですが――皆、心から喜んでおります」
その言葉に、何も返さずただ小さく頷いた。
「今の、照れてますよね」
「珍しいですね」
「記録しておきます?」
「...............」
「そういえば坊ちゃま。昼食は、もうお済みですかな」
「…….いや、まだだ」
「でしたら、簡単なものでよろしければすぐに」
「悪いな、頼む」
その一言で、皆が散っていく。
相変わらずだ。
この屋敷では、俺は“副団長”ではなく、ただのロイスに戻れる。
手入れが行き届いている廊下を歩きながら、ふと思う。
――ここで過ごした時間。
イヴァン団長に拾われてから。
行き場のなかった自分を、この家は受け入れてくれた。
過去を引きずり荒れていた時も。
騎士団に入る前も。
団員として駆け回っていた頃も。
副団長に就任した今も。
変わらず、ここは帰る場所だった。
(……だからこそ)
胸の奥で、小さく何かが引っかかる。
守りたいと思う場所が、確かに、ここにある。
だから――昨日見た紙切れも、聖教会も、王都も。
簡単に疑っていいものではない。
「……」
窓から差し込む昼の光を受けながら、静かに息を整えた。
(もう一度、確かめる)
信じたいものがあるからこそ。
俺が剣を取る理由を、見失わないために。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
昼食を終えて食堂を出た俺は、思わず息をついた。
腹の奥に、まだ料理の温もりが残っている。
こんなに食べたのはいつぶりだろうか。
「……食った」
つい零れたその一言に、間髪入れず声が飛んできた。
「“食った”じゃありません」
反射のようなツッコミだった。
振り向くと、切れ長の目のメイドを先頭に、先ほどの三人が立っていた。
「お粗末様でした、が先です」
「はいはい。お粗末様でした」
軽く返しながら歩き出そうとすると、
「心がこもってません」
即座に追撃が来る。
「腹にはこもってる」
そう言って腹をさすれば、
「減点です」
三人がほぼ同時にため息をついた。
その揃い方に、思わず苦笑が漏れる。
「まったく……」
「昔から、食後だけは素直なんですから」
「そうか?」
首を傾げると、
「ええ。眠そうになるところまでセットです」
「ならない」
「もう半目ですよ」
「それは光の加減だ」
「都合のいい光ですね」
言い返そうとして、やめた。
確かに、ここに来てから少し気が緩んでいる自覚はある。
廊下を歩き出すと、自然とメイドたちが左右と後ろに散った。
守るわけでも、警戒するわけでもない。
ただ、気づけばそうなる――昔から変わらない世話焼きの配置だ。
「で」
腕を組んで歩く、切れ長の目のメイドが、横目で俺を見る。
「今日は、これからどうされるんですか」
「ちょっと、一人で奥まで」
その一言で、空気が変わった。
足音が、ぴたりと止まる。
「”ちょっと”?」
「"一人で"?」
「“奥まで”?」
三方向から向けられる視線に、思わず足を止める。
「何だその反応」
「嫌な予感しかしません」
「ロイス様が言葉を濁す時は、だいたい事件です」
「何も起きてないだろ」
「起きました」
「起きてない」
「壺を割りました」
「…あれは事故だ」
「三回」
「……べつに回数は関係ないだろ」
「あります、大ありです」
言い切られて、俺は肩をすくめるしかなかった。
この屋敷では、俺の過去はすべて記録済みだ。
「今回は本当に大丈夫だ。ただ、あれを見に行くだけだ」
「あれ」
その単語だけで、廊下の奥が少し遠くなる。
「……あの、大きいやつ」
小柄なメイドが、声を落として言う。
指先が、無意識にエプロンの端をつまんでいた。
「そう」
「……」
三人が視線を交わす。
短い沈黙だが、言葉は要らなかった。
「触らないでくださいね」
「分かってる」
「持たないでください」
「分かってる」
「振らないでください」
「分かってる」
「絶対ですよ?」
「信用ないな」
「ありません」
即答だった。
「昔、夜中に素振りしてたの、忘れてませんから」
「……音、出てたか?」
思わず声が低くなる。
「屋敷中に」
「幽霊かと思いました」
「怖かったんですから」
「剣が可哀想でした」
「最後は、執事長に怒られました」
一つ一つが、的確に胸を抉る。
俺は、視線を前に戻した。
「……全部覚えてるな」
「忘れるわけないじゃないですか」
切れ長のメイドが、少しだけ表情を和らげる。
「ロイス様が、初めて自分の剣を持った日ですから」
「キラキラした目をしてました!」
「可愛かったです」
メイド達の言葉に、胸の奥が静かに揺れた。
重さも、誇りも、未熟さも――全部、あの日のままだ。
一瞬、言葉が途切れる。
その空気を金髪のメイドがあっさりと壊した。
「今回は見るだけですよね?」
「ああ」
「なら、同行します」
「必要ないだろ」
「必要です」
「何のために」
「ブレーキ役です」
「誰の」
「ロイス様の」
「失礼だな」
「誉めてます」
「誉め方を考えろ」
そんなやり取りを交わしながら、屋敷の奥へ進む。
光の届きにくい廊下に入ると、自然と足音が小さくなった。
壁の色が濃くなり、空気がひんやりと重くなる。
「……ここ、変わりませんね」
小柄なメイドが、ぽつりと言う。
「欠かさず掃除はしてますけど、空気が重いままです」
俺は歩きながら小さく息を吸った。冷たい空気が胸の奥に落ちていく。
「……使うつもりはない」
「分かってます」
切れ長のメイドが、静かに言った。
「でも、目を合わせるくらいは許してあげてください」
その言い方が、
剣を“物”ではなく、まるで誰かのように扱っている気がして。
俺は、思わず苦笑する。
「……そうだな」
そして、屋敷の奥。古い扉の前で俺は足を止めた。
取っ手の冷たさも、木目に残る傷も、ハッキリと覚えている。
「ここから先は、俺一人でいい」
背中越しに三人の気配が止まったのを確認すると、軽く手を上げ扉を潜った。
⸻
屋敷の奥、保管庫。
扉を閉めると外の気配は音ごと遮断され、空間そのものが深く沈み込むようだった。
昼の屋敷に満ちていた温度も、人の気配も、ここには届かない。
「……懐かしいな」
思わず零れた独り言が、妙に大きく響く。
視線の先――
壁際に、一本の大剣が立てかけられている。
無骨で飾り気もない。
だが、その場に在るだけで空気の密度が変わるのが分かる。
「……相変わらず、でかい」
昔も、そう思った。
今も、そう思う。
ただ一つ違うのは、剣を前にしたとき胸の奥に生まれる、この説明のつかないざわめきだった。
一歩、距離を詰める。
床板がわずかに軋み、その音がやけに大きく耳に残る。
近づくほどに、圧が増していく。
物理的な重さではない。
過去と、未練と、届かなかった場所――それらすべてを押し付けてくるような重さだ。
「……」
柄に手を伸ばしかけ、そこで止めた。
触れれば、何かが変わる。
良くも悪くも、もう後戻りは出来なくなる――そんな確信だけがはっきりとあった。
この剣は、今の俺が振るうためのものじゃない。
力を示すためでも、誇るためでもない。
――越えるためのものだ。
ふと視線を上げると、壁に刻まれた古い傷が目に入る。
自分が付けたもの。
焦りと、悔しさと、未熟さをそのまま刻みつけた跡。
かつて、どうしても届かなかった場所。
「……」
見限られたのだと、ずっと思っていた。
期待されなくなったのだと。
だが、この剣はここにある。
捨てられることもなく、
折られることもなく、
ただ静かに、眠ったまま。
「……待ってる、って顔じゃないな」
誰にともなく呟く。
剣は、何も語らない。
ただ沈黙のまま、家の奥で時を重ねている。
――だが、その沈黙は拒絶ではない。
俺は小さく息を吐き、胸の奥に溜まったものを押し込めた。
「……もう少し、だ」
それが剣に向けた言葉なのか、自分自身への言い訳なのかは分からない。
踵を返し、扉へ向かう。
振り返らなかった。
振り返ればきっと、
今度こそ、手を伸ばしてしまう気がしたからだ。
扉を開ける直前、ほんの一瞬だけ足を止める。
「――また来る」
それだけ告げて、外へ出た。
扉が閉まり、保管庫には再び静寂が満ちる。
影は、まだ杯の底に沈んだまま。
刃もまた、家の奥で息を潜めている。
立ち上がるその瞬間をただ、確かに――待ちながら。




