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異世界奇譚  作者: ツチノコ太郎
ep.2 聖女
8/22

08. 杯に沈み、家に眠る

「うーん、聖教会ねえ……」


酒場の奥、半個室。

薄い壁一枚向こうから、酔いどれ達の笑い声と杯の音がくぐもって聞こえてくる。それをBGM代わりに、俺は向かいの席に座る人物を見ていた。


名をベルベット。


黒いフードに、顔全体を覆う黒い仮面。表情は見えない。

線の細い体躯と中性的な声、どこか気の抜けた立ち振る舞いも相まって、ぱっと見は場末の小間使いのようだ。


――もっとも、それは擬態にすぎないのだが。


裏の世界での通り名は“情報屋”。

王都でも指折りの腕利きで、日々膨大な依頼を捌いている。

とある事情で知り合って以来、互いに近況を報告し合う、数少ない友人の一人だ。


なお本人曰く、性別は男。

よく間違えられて迷惑しているらしい。


そんな彼?は仮面をつけたまま、器用にカップを持ち上げた。


……そして、普通にコーヒーを飲む。


(……いや、どこから?)


じっと見ていると、視線に気づいたのか仮面を指で軽く叩いた。


「なに。気になる?」


「……まぁ、少し」


「企業秘密」


即答だった。

そのまま何事もなかったかのように、また一口飲む。


(情報以前にその構造が気になるんだが……)


仮面の下の素顔を、俺は知らない。


ふと、そんな当たり前の事実が頭をよぎる。

声も、仕草も、思考の癖も知っているのに――

顔だけは、知らないままだ。


(……知りたいとは、思う)


だが、それを口にすることはしなかった。

この距離が崩れる気がして、無意識に言葉を飲み込んでいた。


そんな俺の内心をよそに、ベルベットは机の上に広げた書類から顔を上げ、苦笑混じりにこちらを見た。


「確かに、ここに書かれてることが事実なら大問題だよ。子供をさらって投薬実験……ましてや聖教会が実行犯となればね」


指先で紙を軽く弾く。


「今すぐ国王様に報告すべき案件。でもさ、正直怪しいと思うんだ」


「……理由は?」


「ボクが調べた限り、なーんの証拠も出なかった」


やれやれといった様子で肩をすくめる。


「王都、いや大陸随一の情報屋ベルベット様がだよ? そんな最重要機密を、何の対策もなしに持ち歩いて、あげく君が拾うタイミングで落とすと思う?」


「……確かに。出来すぎている」


「十中八九、罠だね」


俺はカップを持ち上げる。

すっかり薄まったコーヒーを一口飲み、眉をひそめた。


「……まずい」


「でしょ。氷入れっぱなしにするから」


「お前が話し込むからだ」


「人のせいにするなよ」


軽口を叩きながら、ベルベットは俺のつまみを指先で弄ぶ。

その瞬間、ふと気づいた。


――影が、揺れた。


「……おい、何してる」


「暇つぶし」


次の瞬間、

いつの間にか消えていたつまみが、影の中からぬっと戻ってきた。


「盗むな」


「返してるからセーフ」


「そういう問題じゃない」


「細かいなあ」


けろりと言ってのける。


ベルベットの異能。

潜伏・隠匿に特化した強力な力で、裏社会での地位を築き上げた切り札だ。


「聖教会が黒に近いのは事実。でも、そこまで繋がりの深い国王まで疑うとなると……王都そのものが怪しくなる」


仮面の奥から、こちらを探るような視線を感じる。


「ボクは別に、それほどこの街に思い入れはない。でもさ、ロイスは違うでしょ?」


「ああ」


自然と、言葉が出た。


「行く当てのなかった俺を拾ってくれたイヴァン団長とヴァルフリート家。国王、王妃、ジーナ団長……受けた恩は多い。それに、聖女様との約束もある」


「騎士団長サマはともかく」


ベルベットが即座に返す。


「その聖女様こそ、限りなく怪しいと思うけどね。……で、これどうする?」


とん、と。


机の中央に置かれた“例の書類”を指で叩く。


「情報屋としては、もう少し様子見したい。でもさ」


仮面の向こうで、にやりとした気配。


「どうせロイスのことだし。考えてること、だいたい分かるよ」


「……」


「で、いつものあれは? どんな感じ?」


「今のところ、明確な反応はない」


ベルベット相手に隠し事をする気が起きず、正直に答える。


「だが……罠の可能性が高くても、この王都を守るためには王のところへ行くべきだと思う」


俺の異能《第六感》。

五感を超えた直感に近いそれは、これまで何度も俺を危機から救ってきた。

共に行動する事の多いベルベットも、その精度をよく知っている。


数秒。

二人の間に、沈黙が落ちる。


仮面の奥から向けられる視線を、俺は逸らさなかった。


「……あーもう」


ベルベットは諦めたように頭を掻く。


「分かった。ボクの負け。ロイスの言う通りにする」


小さく溜め息。


「いっつもロイスに甘いなぁ、ボクは……でも、その代わり条件が二つ」


仮面の奥で、何かぶつぶつ言いながら指を立てる。


「一つ目。あと二日、いや三日待って」


「さすがに準備ゼロで突っ込むのは自殺行為だよ。相手の戦力は未知数。それに、この内容が本当なら、聖教会の中に必ず隠し部屋がある」


ベルベットの細い中指が、書類をゆっくりとなぞる。


「大規模な研究を隠せる規模の部屋。それへの最短ルートも含めて、ボクが洗い出す」


「……それは助かるが、本当にいいのか?」


「大丈夫」


即答だった。


「誘拐事件を追う過程で聖教会はある程度調べてる。前は“候補の一つ”止まりだったけど、今回は違う」


少しだけ、声が低くなる。


「隅々まで、丸裸にする。情報屋の名にかけてね」


仮面越しでも、悪い笑みを浮かべているのが分かる。

俺は苦笑しつつ、胸の奥に小さな安堵を覚えた。


「……ありがとう」


真っ直ぐに言うと、ベルベットは少しだけ視線を逸らした。


「あー……そういうの、ずるい」


照れたように頭を掻き、すぐに指を二本立てる。


「で、二つ目」


「もちろん、潜入する時はボクもついて行く」


「ああ、当然頼む。今回も力を貸してくれ」


「ロイス一人だと、無策で正面突破しそうだからね」


軽口の裏に、本気の心配が見える。


「で、副団長サマの明日の予定は?」


「久しぶりに家に顔を出す。……気になることもあるし」


「例の、団長サマの件」


「……ああ」


「思い詰めすぎないでよ。なんでも言って」


「ありがとう」


一拍置いて、ベルベットがぽつりと言った。


「……あ、そうだ。言っとくけどさ」


「?」


「この仮面、外して酒場出ると三割くらいの確率で“可愛い子だね”って言われるから」


「……は?」


「ボクだって、好きで中性的やってるわけじゃないんだよ?」


「説得力がない」


「ひどい」


肩をすくめる仕草が、どこか楽しげだった。


さっきまでの重い空気が霧散する。


「そういえばさ」


ベルベットが、机の上で書類を揃えながら言った。


「ボクの異能の正式名称、知ってる?」


「そういえば知らないな。影とかか?」


「それがさ」


一瞬だけ間を置いてから、うんざりした声で続ける。


「”影位相(シャドウフェイズ)”だって」


「……かっこいいじゃないか」


「やめて」


即答だった。


「どこが嫌なんだ?」


「全部」


ベルベットはグラスを持ち上げ、仮面越しに一口だけ口をつけると、顔を背けた。


「その、なんかこう……」


珍しく歯切れが悪い。


「何だ?」


「……夜の建物の屋上で黒マント羽織ってそうじゃない?」


「偏見がひどいな」


「“フェイズ”だよ? 位相だよ?」


指で空中に括弧を描く。


「絶対、黒歴史ノートに書いてあるタイプのやつ」


「名前付けた人が悪いんじゃないか、それ」


「そう!」


「!?」


突然ばん、と机を両手で叩き、勢いよくこちらに身を乗り出す。


「臆病者のボクはただ影に隠れてるだけなのにさ。なんでそんな仰々しい名前になるの」


「でも、実際は便利だろ?」


「便利だけど!」


少し声を張ってから、店内であることを思い出したのかすぐにトーンを落として席につく。


「便利と恥ずかしいは両立するんだよ」


「……なるほど」


「だから、気に入ってない。書類とか記録ならともかく、口に出すのは無理」


「なら、俺も言わない方がいいか?」


ベルベットは一瞬だけ黙って、仮面の奥で考えるような間を置いた。


「……ロイスが言う分には、まあ……許す」


その言葉の意味をどう解釈していいのか咄嗟に判断出来ず、微妙な顔を浮かべる俺の前で、ベルベットは軽く咳をする。


「信頼料だよ、信頼料」


軽く肩をすくめる。


「ほら、情報屋が自分で“影位相(シャドウフェイズ)”とか名乗り始めたらさ、胡散臭さ三割増しでしょ?」


「元から十分胡散臭い気がするが」


「失礼だね!?」




・・・・・・・・

・・・・・

・・・




翌日、昼。


王都にしては珍しく、穏やかな陽射しが街路を照らしていた。


人通りの少ない通りを歩きながら、外套の前を留め直す。


(……ここも、変わらない)


中枢区画から少し離れた場所。

貴族街と呼ぶには控えめで、下町と呼ぶには整いすぎている一角に、ヴァルフリート家の屋敷はある。


華美ではないが、無駄のない造り。

実用性を重んじた、いかにも騎士の家らしい佇まいだ。


門の前に立った瞬間、胸の奥に溜まっていた緊張が、わずかにほどけた。


(帰ってきた、か)


ノッカーに手を伸ばすより先に、門が開く。


「――ロイス坊ちゃま!」


快活な声とともに現れたのは、老執事アルドだった。


何もわからなかった俺に、騎士としての振る舞いを一から教えてくれた恩人の一人である。


「お帰りなさいませ。本日は非番と伺っておりましたので、もしやと」


「ただいま、アルド。急に来てすまない」


「いえいえ。いつでも歓迎でございます」


深々と一礼しながらも、その目はどこか嬉しそうだ。


屋敷の中に入ると、昼下がりの空気とともに懐かしい匂いが鼻をくすぐる。


しばらく立ち止まっていると、廊下の奥からぱたぱたと複数の足音が近づいてきた。


「……ロイス様?」


「え、今の声って――」


ひょこ、と最初に顔を出したのは、

栗色の髪を低い位置でまとめた小柄なメイドだった。

年の頃はロイスより少し下。いつも動きがせわしない。


「あっ、本当にロイス様だ!」


その声に反応して、今度は背の高いメイドが姿を現す。

すらりとした体躯に、切れ長の目。背は俺より少し低い。

そんな彼女は腕を組んだまま、じっと値踏みするようにこちらを見た。


「……似てますけど、本人?」


「おい」


三人目は、最後まで奥にいたのか、

少し遅れて、ふわりとした金髪を揺らしながら出てくる。


「ええー……?影武者、じゃないですよね?」


「失礼だな」


散々な言われように思わず苦笑すると、小柄なメイドが一歩踏み出した。


「ロイス様!? 本当に!?昨日まで“しばらく戻られません”って――」


「急に時間が空いてな」


「急すぎます!!」


即座に返ってくる。


「洗濯の予定、全部ずれましたし」

「布団も干し直しですし」

「昼食だって……!」


矢継ぎ早に不満が出る。


「……ああ、それはすまない」


頭をかくと、切れ長の目のメイドがため息をついた。


「本当に、昔から変わりませんね。急に帰ってきて、急にいなくなる」


「騎士団の仕事だからな」


「それは分かってます」


分かっている、けれど――

そう言いたげな沈黙。


その空気を、金髪のメイドがぱっと崩した。


「でも!ちゃんと生きててよかったです!」


「……言い方」


「ほら、怪我とか!顔色も、ちょっと悪いですし」


ぐい、と一歩近づいて、覗き込まれる。というより俺の顔を彼女の手が挟んでいる。


「近い」


「逃げないでください」


「逃げてない」


「逃げてます」


切れ長の目のメイドが、腕を組んだまま言う。


「痩せました?」


「そうか?痩せてないと思うが」


「痩せてます」


即答だった。


「鎧を脱いだら分かります。昔より、肩が落ちてます」


「それは成長だ」


「苦労って言うんです」


三人揃って、同時にため息。


「まったく……」


「王都騎士団副団長様だか何だか知りませんけど」


「ここでは――」


三人が、声を揃える。


「ロイス様は、ロイス様ですから」


ぴしゃり。


「……はい」


反射的に返事をすると、今度は三人とも、少しだけ視線を逸らした。


「……無事でよかったです」


「ちゃんと帰ってきてくれて」


「顔、見せてくれましたし」


「……心配かけたな」


そう言うと、金髪のメイドが小さく頷いた。


「次は、連絡してください。一言でいいんです」


「ああ、約束する。ありがとう」


ようやく解放されると背後でひそひそ声が聞こえた。


「今の、絶対本音ですよね」

「珍しいですね」

「記録しておきます?」


「聞こえてるぞー」


「聞こえるように言いました」


執事アルドが、絶妙なタイミングで咳払いをした。


「皆、ほどほどに。坊ちゃまが困っておられます」


「困ってない」


「困ってます」


即座に返され、ロイスは肩をすくめた。


「……相変わらずだな」


「はい」


執事は、穏やかに微笑んだ。


「ですが――皆、心から喜んでおります」


その言葉に、何も返さずただ小さく頷いた。


「今の、照れてますよね」

「珍しいですね」

「記録しておきます?」


「...............」



「そういえば坊ちゃま。昼食は、もうお済みですかな」


「…….いや、まだだ」


「でしたら、簡単なものでよろしければすぐに」


「悪いな、頼む」


その一言で、皆が散っていく。


相変わらずだ。

この屋敷では、俺は“副団長”ではなく、ただのロイスに戻れる。


手入れが行き届いている廊下を歩きながら、ふと思う。


――ここで過ごした時間。


イヴァン団長に拾われてから。

行き場のなかった自分を、この家は受け入れてくれた。


過去を引きずり荒れていた時も。

騎士団に入る前も。

団員として駆け回っていた頃も。

副団長に就任した今も。


変わらず、ここは帰る場所だった。


(……だからこそ)


胸の奥で、小さく何かが引っかかる。


守りたいと思う場所が、確かに、ここにある。


だから――昨日見た紙切れも、聖教会も、王都も。


簡単に疑っていいものではない。


「……」


窓から差し込む昼の光を受けながら、静かに息を整えた。


(もう一度、確かめる)


信じたいものがあるからこそ。

俺が剣を取る理由を、見失わないために。




・・・・・・・・

・・・・・

・・・




昼食を終えて食堂を出た俺は、思わず息をついた。

腹の奥に、まだ料理の温もりが残っている。

こんなに食べたのはいつぶりだろうか。


「……食った」


つい零れたその一言に、間髪入れず声が飛んできた。


「“食った”じゃありません」


反射のようなツッコミだった。

振り向くと、切れ長の目のメイドを先頭に、先ほどの三人が立っていた。


「お粗末様でした、が先です」


「はいはい。お粗末様でした」


軽く返しながら歩き出そうとすると、


「心がこもってません」


即座に追撃が来る。


「腹にはこもってる」


そう言って腹をさすれば、


「減点です」


三人がほぼ同時にため息をついた。

その揃い方に、思わず苦笑が漏れる。


「まったく……」

「昔から、食後だけは素直なんですから」


「そうか?」


首を傾げると、


「ええ。眠そうになるところまでセットです」


「ならない」


「もう半目ですよ」


「それは光の加減だ」


「都合のいい光ですね」


言い返そうとして、やめた。

確かに、ここに来てから少し気が緩んでいる自覚はある。


廊下を歩き出すと、自然とメイドたちが左右と後ろに散った。

守るわけでも、警戒するわけでもない。

ただ、気づけばそうなる――昔から変わらない世話焼きの配置だ。


「で」


腕を組んで歩く、切れ長の目のメイドが、横目で俺を見る。


「今日は、これからどうされるんですか」


「ちょっと、一人で奥まで」


その一言で、空気が変わった。

足音が、ぴたりと止まる。


「”ちょっと”?」

「"一人で"?」

「“奥まで”?」


三方向から向けられる視線に、思わず足を止める。


「何だその反応」


「嫌な予感しかしません」


「ロイス様が言葉を濁す時は、だいたい事件です」


「何も起きてないだろ」


「起きました」


「起きてない」


「壺を割りました」


「…あれは事故だ」


「三回」


「……べつに回数は関係ないだろ」


「あります、大ありです」


言い切られて、俺は肩をすくめるしかなかった。

この屋敷では、俺の過去はすべて記録済みだ。


「今回は本当に大丈夫だ。ただ、あれを見に行くだけだ」


「あれ」


その単語だけで、廊下の奥が少し遠くなる。


「……あの、大きいやつ」


小柄なメイドが、声を落として言う。

指先が、無意識にエプロンの端をつまんでいた。


「そう」


「……」


三人が視線を交わす。

短い沈黙だが、言葉は要らなかった。


「触らないでくださいね」


「分かってる」


「持たないでください」


「分かってる」


「振らないでください」


「分かってる」


「絶対ですよ?」


「信用ないな」


「ありません」


即答だった。


「昔、夜中に素振りしてたの、忘れてませんから」


「……音、出てたか?」


思わず声が低くなる。


「屋敷中に」


「幽霊かと思いました」


「怖かったんですから」


「剣が可哀想でした」


「最後は、執事長に怒られました」


一つ一つが、的確に胸を抉る。

俺は、視線を前に戻した。


「……全部覚えてるな」


「忘れるわけないじゃないですか」


切れ長のメイドが、少しだけ表情を和らげる。


「ロイス様が、初めて自分の剣を持った日ですから」


「キラキラした目をしてました!」


「可愛かったです」


メイド達の言葉に、胸の奥が静かに揺れた。

重さも、誇りも、未熟さも――全部、あの日のままだ。


一瞬、言葉が途切れる。


その空気を金髪のメイドがあっさりと壊した。


「今回は見るだけですよね?」


「ああ」


「なら、同行します」


「必要ないだろ」


「必要です」


「何のために」


「ブレーキ役です」


「誰の」


「ロイス様の」


「失礼だな」


「誉めてます」


「誉め方を考えろ」


そんなやり取りを交わしながら、屋敷の奥へ進む。


光の届きにくい廊下に入ると、自然と足音が小さくなった。

壁の色が濃くなり、空気がひんやりと重くなる。


「……ここ、変わりませんね」


小柄なメイドが、ぽつりと言う。


「欠かさず掃除はしてますけど、空気が重いままです」


俺は歩きながら小さく息を吸った。冷たい空気が胸の奥に落ちていく。


「……使うつもりはない」


「分かってます」


切れ長のメイドが、静かに言った。


「でも、目を合わせるくらいは許してあげてください」


その言い方が、

剣を“物”ではなく、まるで誰かのように扱っている気がして。


俺は、思わず苦笑する。


「……そうだな」


そして、屋敷の奥。古い扉の前で俺は足を止めた。


取っ手の冷たさも、木目に残る傷も、ハッキリと覚えている。


「ここから先は、俺一人でいい」


背中越しに三人の気配が止まったのを確認すると、軽く手を上げ扉を潜った。





屋敷の奥、保管庫。


扉を閉めると外の気配は音ごと遮断され、空間そのものが深く沈み込むようだった。

昼の屋敷に満ちていた温度も、人の気配も、ここには届かない。


「……懐かしいな」


思わず零れた独り言が、妙に大きく響く。


視線の先――

壁際に、一本の大剣が立てかけられている。


無骨で飾り気もない。

だが、その場に在るだけで空気の密度が変わるのが分かる。


「……相変わらず、でかい」


昔も、そう思った。

今も、そう思う。


ただ一つ違うのは、剣を前にしたとき胸の奥に生まれる、この説明のつかないざわめきだった。


一歩、距離を詰める。

床板がわずかに軋み、その音がやけに大きく耳に残る。


近づくほどに、圧が増していく。

物理的な重さではない。

過去と、未練と、届かなかった場所――それらすべてを押し付けてくるような重さだ。


「……」


柄に手を伸ばしかけ、そこで止めた。


触れれば、何かが変わる。

良くも悪くも、もう後戻りは出来なくなる――そんな確信だけがはっきりとあった。


この剣は、今の俺が振るうためのものじゃない。

力を示すためでも、誇るためでもない。


――越えるためのものだ。


ふと視線を上げると、壁に刻まれた古い傷が目に入る。

自分が付けたもの。

焦りと、悔しさと、未熟さをそのまま刻みつけた跡。


かつて、どうしても届かなかった場所。


「……」


見限られたのだと、ずっと思っていた。

期待されなくなったのだと。


だが、この剣はここにある。


捨てられることもなく、

折られることもなく、

ただ静かに、眠ったまま。


「……待ってる、って顔じゃないな」


誰にともなく呟く。


剣は、何も語らない。

ただ沈黙のまま、家の奥で時を重ねている。


――だが、その沈黙は拒絶ではない。


俺は小さく息を吐き、胸の奥に溜まったものを押し込めた。


「……もう少し、だ」


それが剣に向けた言葉なのか、自分自身への言い訳なのかは分からない。


踵を返し、扉へ向かう。

振り返らなかった。


振り返ればきっと、

今度こそ、手を伸ばしてしまう気がしたからだ。


扉を開ける直前、ほんの一瞬だけ足を止める。


「――また来る」


それだけ告げて、外へ出た。


扉が閉まり、保管庫には再び静寂が満ちる。


影は、まだ杯の底に沈んだまま。

刃もまた、家の奥で息を潜めている。


立ち上がるその瞬間をただ、確かに――待ちながら。


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