04. 白銀に種は蒔かれた
凍てつく風が鋭利な刃物のように頬を切り裂き、睫毛に張りついた氷が、瞬きのたびに音を立てた。だが、その寒さは均等ではない。足を踏み出す場所によって、温度が微かに異なる。
視界は、どこまでも白い。
そこには、後輩であるヒューイたちの身を案じ、彼らが向かったとされる深部へと急ぐ二人の男女の姿があった。
「……おかしい」
カイルが、凍りついた前髪を乱暴にかき上げる。
吐き出した息は瞬時に白く凍り、視界の端で粉雪となって砕けた。
「ここは深度1だろ。なのに、空気が……重すぎる。魔素の濃度が、明らかに異常だ」
足元の雪を踏みしめるたび、「ギュッ、ギュッ」と嫌な音が響く。
新雪の下に潜む硬い氷層が、まるで地面そのものが軋んでいるかのような錯覚を与えていた。
その隣で、リーザは胸元に手を当てていた。
銀の指輪がはめられた指先が、祈るように震えている。
「胸騒ぎが、止まらないの」
声はかすれ、風に攫われそうになる。
「昨日……あの子たち、あんなに笑ってたのに。ヒューイくんも、ダンくんも、ロザリオちゃんも……」
昨日、ギルドの門出で手渡した最高級の回復薬。
不安そうにしながらも、期待に満ちた瞳で受け取ってくれた、あの瞬間。
――嫌な想像が、頭から離れない。
「一秒でも早く、合流しないと……」
その予感は、最悪の形で現実となった。
二人の足が、同時に止まる。
雪原の一角が、異様な色で汚れていた。
白銀を侵食する、乾ききらない赤黒い染み。
「……っ」
リーザが、反射的に口元を押さえた。
雪の中央に横たわっていたのは――
人の形をした、“モノ”。
「……は?」
言葉にならない声が、カイルの喉から漏れた。
それは、黒い軽装を纏い、昨日までヒューイたちを導いていたはずの男の成れの果てだった。
「……ハイン、さん……?」
両腕は、根元から存在していない。
無理やり引き千切られたような断面が、雪に埋もれていた。
愛用していたはずの長槍は、数メートル先で飴細工のようにへし折られ、無惨に散らばっている。
白目を剥いたまま固まったその顔は、
“戦い”ではなく、“蹂躙”の末路を雄弁に物語っていた。
「嘘だろ……」
カイルの声が、凍えた空気に溶ける。
「B級探索者だぞ……? こんな……」
彼がいたという安心感が、音を立てて崩れ落ちる。
――この平原は、安全ではない。
その時だった。
ぞわり、と。
肌を撫でる寒気とは別の、“視線”を感じた。
「……いる」
カイルが低く呟く。
雪煙の向こう。
平原の中央に、何かが立っていた。
最初は、小鬼だと思った。
緑がかった肌。
醜悪な顔つき。
人より小柄な体躯。
深度1では、最弱に分類されるモンスター。
臆病で、数でしか勝負できない、取るに足らない存在。
だが――
「……一匹、だけ?」
リーザの声が震える。
そいつは逃げない。
仲間を呼ぶ様子もない。
ただ、返り血を浴びたまま、獲物を見る獣のような目でこちらを見ていた。
「……おい」
カイルが短剣の柄に手をかける。
「待って、カイル!」
リーザが叫ぶ。
「ヒューイくんなら……こんな時、絶対に一人で突っ込んだりしない……!何かおかしい!お願い、落ち着いて――」
だが、その声は届かなかった。
小鬼が、ゆっくりと口元に手を運ぶ。
握られていたのは――
黒い手袋の、切れ端。
「……まさか……」
リーザの声が、悲鳴に変わる前に。
小鬼は、嗤った。
その瞬間、空気が爆ぜた。
見えない重圧が冷風と化し、平原全体を押し潰す。
呼吸が、できない。
「……下がれ!!」
カイルが叫び、前に出る。
「俺が、引きつける!!」
飛び出したカイルの短剣が、確かに“当たった”。
鈍い感触。
肉を裂く手応え。
「……やれる!」
その瞬間だった。
小鬼の姿が、消えた。
「――がっ……!」
カイルの体が、宙を舞った。
何が起きたのか理解する前に、彼は雪原に叩きつけられる。
骨が軋む音が、はっきりと聞こえた。
「カイル!!」
リーザが弓を構える。
「きゃあぁぁぁあっ!」
だが、矢は放たれる前に、叩き落とされた。
見えない衝撃。
圧倒的な速度。
「――逃げ……」
カイルの声は、途中で途切れた。
血飛沫が舞う。
リーザの視界が、真っ赤に染まる。
そして――
すべてが、静止した。
風の音が、消える。
雪が、止まる。
代わりに響いたのは――
ギギッ……ギギギ……と、石が擦れ合うような音。
吹雪の奥から、白い“何か”が現れた。
人の形をしている。
だが、肌も髪も、纏う衣服も、すべてが石膏の質感だった。
「ーーーーーー」
その存在が指を掲げた瞬間、
カイルとリーザの肉体が、音を立てて白く変わっていく。
叫びは、もう上がらない。
やがて二人は、あと数センチで触れ合う距離を保ったまま、
完全な“静止”として固定された。
「……相変わらず完璧ですね」
背後で、穏やかな声がした。
いつの間にか立っていたハインが、静かに手袋を嵌め直す。
纏う服はいつの間にか白い司祭服へと変わっていた。
「彼らは救われました。恐怖も、迷いも、未来への不安も──この時すべて“停止”したのですから」
ハインはそう言いながら、石像となった二人の表情を、その“完成度”を確かめるように視線を走らせ、ほんの一瞬だけ、眉を寄せた。
「さて。次は、どこに向かいましょうか」
ハインは誰に向けるでもなく呟き、白銀の平原に背を向けた。
その足取りには、仲間を失った後輩への哀悼も、教え子を死地へ導いたという自覚も、――一人の少年がそこで命を落とした“重さ”すら存在しなかった。
ほんの一瞬だけ、彼は振り返る。そこは、つい先ほどまでヒューイが立っていた場所。
「彼が生きていれば……あなた方は、もう少しだけ運命を先延ばしできたでしょう」
それが人の死を悼む言葉なのか、それとも計画の順序を思案する声だったのか、吹雪は何ひとつ答えを残さず、すべてを白に塗り潰した。
ハインと白い何かの姿はやがて雪煙の向こうへ溶け、平原には、動かぬ二つの像と、名もなき絶望だけが残された。
その日、白銀の平原に蒔かれたのは種ではなく、二度と元には戻らない“運命”であった。




