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異世界奇譚  作者: ツチノコ太郎
ep.1 選別
3/5

03. とある探索者の敗北

『エーテル大平原』冬区画を覆っていたのは、昨日までとはまるで別物の静寂だった。


音がない。

正確には、音が“届いてこない”。


風は吹いているはずなのに、雪を巻き上げる唸りも、耳を刺す冷気の音も感じられない。ただ、世界そのものが息を潜めているような、重く湿った沈黙だけが広がっていた。


テントを畳み、ハインさんとの合流地点へ向かっていた僕たちは、ほぼ同時に足を止めた。


理由は、視界の先にあった。


白銀の雪原。その一角だけが、まるで絵の具をぶちまけたように赤黒く汚れていた。


「……っ、なによ、これ……」


ロザリオが口元を押さえ、無意識に一歩退く。

弓を握る指が、かすかに震えていた。


血だ。

しかも、量がおかしい。


雪の上に飛び散った鮮血は表面だけでなく、踏み固められた下層にまで染み込んでいる。つまり――ここで、かなりの時間をかけて、何かが壊された。


嫌な予感が、背骨をなぞるように這い上がってくる。


「おい……冗談だろ……」


ダンの低い声が、やけに遠くに聞こえた。


視線の先。

血溜まりの中央に、ひとつの“塊”が転がっている。


最初は、何なのか分からなかった。

人の形をしているはずなのに、そうと認識するまでに、妙な間があった。


「――――――――は?」


僕の喉から漏れたのは、言葉にならない空気だった。


そこに横たわっていたのは、ハインさんの遺体だった。


昨日まで黒い軽装に身を包み、白龍蛇を圧倒していたB級探索者。その面影は、どこにも残っていない。


両腕は、肘から先が消失していた。

切断ではない。引きちぎられた、と言った方が正確だ。骨の断面は露出し、筋肉は無残に裂け、血が凍りついた跡が雪と一体化している。


愛用していたはずの長槍は、数メートル先に転がっていた。

いや、転がっているというより――砕け散っている。


金属製の槍身は、飴細工のようにねじ曲げられ、穂先は原形を留めていない。あれほどの武器を、正面から壊した何かがいる。


白目を剥いたまま固定されたハインさんの顔は、恐怖とも驚愕ともつかない表情のまま凍りついていた。


「……嘘、だろ」


ダンの声が、かすれる。


「ハインさんが……負けたのか? 深度1の……こんな場所で……」


誰も、すぐには返事ができなかった。


昨夜、焚き火の前で聞いた言葉が、脳裏に浮かぶ。


―― 期待していますよ、ヒューイさん。


――君たちは、誰も届かない場所へ行けます。


その“優しさ”が、音を立てて崩れ落ちていく感覚があった。


胸の奥が、気持ち悪く冷えていく。

吐き気と恐怖が、区別のつかない塊になってこみ上げてくる。


ふと、感じる違和感。


僕は無意識のうちに口元に手を当てた。


ーーーハインさんをここまで無惨に殺した存在が、まだ、いる。


僕は、必死に周囲を見渡す。


「ーーーーーーーーっ!」


雪煙の向こう。

平原の中央付近に、ぽつりと“何か”が立っていた。


最初は、小鬼(ゴブリン)だと思った。


緑がかった肌。

醜悪な顔立ち。

人より小柄な体躯。


深度1に最も多く生息する、最弱種の魔物。臆病で、群れなければ何もできない存在。


かつて資料で見た姿と一致する。


――なのに。


そいつは、たった一体で立っていた。


逃げない。

隠れない。

仲間を呼ぶ素振りすらない。


ただ、獲物を選別する獣のような目で、こちらを見ている。


「……おい。なんだ、あの小鬼」


ダンが大剣を握り直す。

怒りと混乱が、声に滲んでいた。


「一匹、だけ、か?」


「待って、ダン……」


僕は反射的に声を上げる。


おかしい。

どう考えても、おかしい。


周囲に伏兵はいない。

地形も単純だ。

それなのに、あの一体から感じる圧が――重すぎる。


昨日ハインさんが倒した白龍蛇とは、比べ物にならない。


(小鬼……じゃ、ない)


僕たちが知っている“小鬼”では、断じてない。


その“何か”は、小さな手を口元へ運んだ。


握られていたのは、黒い布切れ。

血に濡れ、歯形のついた――手袋の切れ端。


「……っ」


喉が、鳴る。


「うそ、ハインさんを……食べたの……?」


ロザリオの悲鳴が、空気を裂いた。


次の瞬間、そいつは笑った。


はっきりと、嘲るように。


その瞬間、空気が変わった。

いや、空気そのものが押し潰される。


奴を起点に魔素(エーテル)が嵐のように渦を巻き、肌を刺す。

本能が、警鐘を鳴らしていた。


――今すぐ逃げろ。


「ダン! 待って!!」


しかし、僕の叫びは、雪を蹴って飛び出した彼の背中に届かなかった。


怒りに駆られた金髪の戦士は、大剣を構え、一直線に突進する。


その一歩が、彼を“戻れない領域”へ連れていった。


(やめろ……!)


言葉にならない恐怖が、胸を締めつける。


僕はまだ、この時は知らなかった。


この雪原で起きている惨劇を、

どこかで“観測している視線”が存在することを。


そして――

ここから先が、地獄の始まりだということを。







ダンの背中が、雪煙の中へ溶けていく。


「くそ……!」


僕は歯を食いしばり、後を追おうとした。

だが、その瞬間――世界が、ひどく歪んだ。


一歩。

ダンが踏み込んだ、その“次の瞬間”。


視界から、彼の姿が消えた。


「――え?」


違う。

消えたんじゃない。


()()()()()()


轟音すらなかった。

ただ、空気が一瞬だけ沈み込み、雪原が大きくえぐれた。


「ダ、ン……?」


視線の先。

さっきまで彼がいた場所には、巨大な足跡のような凹みと、赤黒い飛沫が散っていた。


骨の砕ける音が、遅れて耳に届く。


それは、人の体が“叩き潰された”音だった。


「……あ、ぁ……」


喉が、震える。


ダンの大剣が、雪の上に転がっていた。

持ち主の手を離れ、刃は無様に欠け、柄の部分には――指だったものが、まだ絡みついている。


「う、そ……」


ロザリオの声が、か細く掠れた。


次の瞬間、彼女は反射的に弓を引き絞っていた。


「離れて! ヒューイ!」


矢が放たれる。

空気を裂く鋭い音。

狙いは正確だった。


だが――。


“それ”は、矢を見ていなかった。


視線を向けることすらせず、ただ腕を振った。


パキャ。


空中で、矢が砕け散る。

木と鉄が、まるで紙屑のように弾けた。


「な……」


次の瞬間、視界の端で、ロザリオの体が宙を舞っていた。


見えなかった。

何で殴られたのか、分からなかった。


ただ、彼女の細い体が、雪原を数メートル転がり、力無く止まったことだけを認識した。


「ぁ……ロザリ、オ……」


背中から落ちたはずなのに、首の向きがおかしい。

弓は折れ、弦は千切れ、指先は不自然な方向に曲がっている。


口元から、赤い泡が溢れていた。


「……や、だ……」


絞り出すような声。


それが、ロザリオの最期だった。


「ーーーっ、ぁ」


“それ”は、ゆっくりとこちらへ歩き出す。


雪を踏みしめる音が、やけに大きく響く。


その顔には、感情らしいものがなかった。

あるのは、理解不能な静けさと、底知れない余裕。


まるで――

最初から、勝敗など決まっていたかのように。


深度1に紛れ込む、明らかな『異常(イレギュラー)』。


「ーーッ!!」


無意識のうちに後ずさる。


ダンも、ロザリオも。

一瞬だった。


技も、連携も、勇気も。

何ひとつ通用しなかった。


――それでも。


僕は、剣を握り直す。


逃げなかった。

逃げられなかった。


背後には、仲間の死体がある。

ここで背を向けたら、全部が無意味になる。


「……来いよ」


声が、震える。


喉は乾き、手は冷たい。

それでも、剣先は“それ”に向いていた。


「ーーー」


“それ”は、初めて僕を見た。


その視線が、僕を値踏みする。


――弱い。

――遅い。

――壊れやすい。


そんな“評価”が、脳裏に流れ込んでくる錯覚。


そして、ゆっくりと。


“それ”は、笑った。


まるで――

この先の展開を、すべて知っているかのように。


(来る……)


僕は、剣を構え、地を蹴った。


足が沈み、次に踏み出すまでのわずかな時間が、異様に長い。

心臓の鼓動が、耳の奥でうるさく響いている。


(――嘘だろ)


“それ”は、もう目の前にいた。


咄嗟に剣を振る。

体重を乗せ、教わった通りの軌道で、全力の一撃。


しかし、手応えは、ない。


金属が何かに当たった感触すらなく、剣は空を切った。

次の瞬間、視界が横に流れる。



矢のように飛び戦場からはじき出されたその体は、いくつもの木々をなぎ倒してようやく止まる。


「がっ、はっ……」


朦朧とする意識の中、必死で息を吸い酸素を取り込む。


仰向けに横たわる僕は、全身の痛みに意識を保つので精一杯だった。


血まみれの体躯、左目は塞がり、右腕は動かず使い物にならない。


装備はボロボロでもはや機能しているとは思えない状態になっていた。


一撃。たったの一撃でもはや戦える状態では無くなってしまった。


……こんなにも、差があるのか。


折れそうになる心。


それでも、動かなければ。


ゆっくりと、“それ”は、歩いてくる。

急がない。

勝敗が決している者の歩き方だった。


(ダメだ……距離を……)


転がるように立ち上がり、距離を取る。

足がもつれ、何度もよろける。


視界の端に、ダンの大剣が見えた。

慌てて拾おうとした、その瞬間。


「ーーーーーーごがっッッ」


再び、空気が軋んだ。


「ぉえっーーーー」


腹部に、鈍い衝撃。

内臓が揺れ、口の中に鉄の味が広がる。


「――っ!」


雪に顔を擦りつけながら転がる。

視界が白と赤で滲む。


(まだ、立て……立て……!)


教わった。

倒れたら、終わりだと。


膝をつき、剣を支えに立ち上がる。

息が荒く、喉が焼けるように痛い。


“それ”は、首を傾げた。


まるで、

「なぜまだ動く?」

とでも言うように。


「……うるさい」


声は、自分でも驚くほど掠れていた。


「……能力上昇(ブースト)


異能の使用により魔素(エーテル)が消費され、全身が青白く発光する。


「ーーーーっ」


瞬きすら許さぬ速度で奴の懐に潜り込み、剣を振り抜いた。


確かな感触。

肉を裂いたはずの感覚。


だが。


刃は、浅い。

致命には程遠い。


“それ”は、ようやく少しだけ表情を変えた。

興味を持った、という程度の変化。


次の瞬間。


世界が、反転した。


地面が上に、空が下に来る。

何が起きたのか理解する前に、背中に激痛が走った。


骨が、悲鳴を上げる。


「ぐ……っ!」


視界が暗くなり、音が遠のく。

それでも、剣だけは離さなかった。


(終わる……?)


そんな考えが、ふと浮かぶ。


ダンの顔。

ロザリオの声。

ハインさんの背中。


「……能力上昇(ブースト)


立ち上がる。


「……能力上昇(ブースト)」「……能力上昇(ブースト)


足が、震える。

体は、もう限界だった。


「……能力上昇(ブースト)」「……能力上昇(ブースト)


「……能力上昇(ブースト)」「……能力上昇(ブースト)



“それ”は、動かない。

ただ、待っている。


――来い。

――見せろ。


そう言われている気がした。


「……っ、あああああああああああああああああああ!」


叫びながら、最後の力を振り絞る。


「……能力上昇(ブースト)おおおおおおおおおおおオオオォォ!!」


剣を振る。

斬る。

突く。

薙ぐ。


何度も、何度も。


限界を超えた異能の行使に、目から、耳から、鼻から、口から血が絶えず流れ出る。


だが、それでもなおーー

目の前の怪物には届かない。


最後の一撃。


剣が、弾かれた。


空中で回転し、雪に突き刺さる。


(あ……)


手が、空になる。


“それ”が、近づいてくる。


ゆっくりと。

確実に。


異能の効果が消え、視界が、白く霞む。

寒さが、急に遠のいた。


次の瞬間――

頭部に、衝撃。


遠くで、誰かの声がした気がする。

それとも、風の音か。


意識が、沈んでいく。


(……ごめん)


誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。


降りしきる雪が、目の前の怪物が、全てがスローモーションになった世界で、僕は意識を手放した。




白銀の平原。

倒れ伏す少年の身体。


その少し離れた場所で、

誰かが静かに、それを眺めていた。


「……予想以上ですね」


風に紛れるような、優しさを含む声。


「この段階で、ここまで足掻くとは」


足元の雪を踏みしめ、

その人物は、満足げに微笑んだ。


「さて……」


誰にも聞かれることのない独白。


「芽吹くかどうかは……その先次第、ですか」


白い世界に、足跡が一つ増え、

やがて、それも吹雪に消えた。



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