23. 異界降臨
無数の羽根が、音もなく舞い散る。
白いそれらは重力すら忘れたかのように、ゆるやかな軌道を描きながら空間を漂っていた。
どこからともなく、柔らかな光が差し込む。
天より零れ落ちるようなその輝きは、羽根の一枚一枚を淡く照らし、空間全体に神秘的な気配を満たしていく。
一枚、また一枚と降り積もるたびに、光は層を成し、
やがて白は白を重ねるように、現実の輪郭を曖昧にしていった。
静寂は深まり、世界から色と音が削ぎ落とされていく。
ただ、淡い光だけがそこに在った。
その中心を避けるように――
外縁をなぞるかのように、巨大な影が立ち上がる。
数は十二。
白と黒で象られたチェスの駒。
天上の光を浴びながらなお、その輪郭だけは沈み込むように重く、塔のように高く、圧し潰すような質量を孕みながら、微動だにせずそこに在る。
降り注ぐ光と、沈み込む影。
相反するそれらが同時に存在することで、空間は歪に均衡していた。
駒は円を描くように配置され、まるで神に祝福された檻のように空間を閉じていた。
「これは……」
「やっぱり効かないかぁ。本当になんなの、"キミ"」
不意に響いた、聞き覚えのない声。
ロイスは弾かれたように振り向いた。
視線の先で――ユディの体にノイズが走る。
輪郭が揺らぎ、影が二重に重なり合う。
次の瞬間、その内側から“何か”が押し出されるように滲み出た。
肉が裂けたわけではない。
だが確かに、そこから一人の存在が“分かたれた”。
音もなく、滑り落ちるように床へと降り立つ。
背丈はユディよりも頭ひとつ小柄。
濁った茶髪が無造作に腰まで流れ、揺れるたびにわずかな違和感を残す。
純白の衣は一切の穢れを拒むかのように光を帯び、
その頂には半透明の輪が静かに浮かんでいた。
そして背中からは、幾重にも重なる白い羽がゆっくりと広がっていく。
一枚一枚が現実のものとは思えぬほど整い、同時にどこか冷たい。
それは――
神話や物語の中でしか語られない存在。
まさしく、“天使”と呼ばれるものだった。
「誰だ、お前」
低く押し出すような声が、静寂を裂いた。
ロイスの視線の先。
その足元では、ユディが力なく横たわっている。
指先一つ動かないその姿を、天使はほんの一瞬だけ見下ろした。
まるで道端に落ちた石でも見るかのように、無感情に。
次の瞬間、ふわりと体が浮かび上がる。
羽ばたきすらなく、ただ“そこにある理”のように、自然に宙へと溶け込んだ。
白い羽が、遅れて一枚、また一枚と零れ落ちる。
そして。
くすり、と小さく喉を鳴らし――
「あは……あはははははははっ!」
堪えきれなくなったように、笑みが弾けた。
肩を揺らし、愉快そうに目を細める。
「キミのせいで、計画が滅茶苦茶だよ〜。ほんと、どうしてくれるの?」
ひとしきり笑ったあと、天使はわざとらしく息を整え、ロイスを見下ろした。
その瞳に、僅かな興味の色を滲ませながら。
「ま、いいや。せっかくだし名乗っとくね」
首を傾げ、にやりと口角を上げる。
「アタシは――リリィ」
軽やかに告げられたその名は、
この神秘的な空間に、どこか不釣り合いなほど無邪気に響いた。
――リリィ。
ロイスがその名を耳にした瞬間、空気が軋んだ。
目には見えない何かが、ゆっくりと圧を増していく。
重さではない。熱でもない。
ただ“在る”だけで、周囲の理を歪めるような異質さ。
ロイスの足元で、チェスの盤の様な地面が音を鳴らす。
空間そのものが、その存在を受け止めきれず悲鳴を上げているかのように。
(……こいつ)
息を吐く間すら惜しむように、ロイスの意識が研ぎ澄まされていく。
似ている。
自らの内に受け入れた力に。
理の外から来たもの。
この世界に属していないもの。
それが、形をなして目の前にいる。
少女の様な見た目をしているが、紛れもなく己よりも上位の存在。
リリィはそんなロイスの内心など意にも介さず、くすくすと喉を鳴らした。
「……あれ?」
わざとらしく首を傾げる。
「せっかく自己紹介してあげたのに無視?冷たいね。まあいいんだけど」
その声は軽い。
だが、背後に滲む“何か”は、決して軽くない。
世界の外側から、無理やり押し込まれた異物。
それが今、笑っている。
「キミが余計なことをしたせいで、この子との契約もこれで終わり。アタシの物語ももうすぐおしまい。どうしてくれるのさ」
聞き慣れない声で、しかしどこか聞き覚えのある口調で――
目の前の天使はそう言って、楽しそうに続けた。
「この子はただの器だよ。一割も適合しなかった欠陥品。勿体ないから全部貰うことにしたんだ。見た目だけは悪くなかったからさ」
「要するに、元凶はお前ってことでいいんだな?」
「そうだよ〜。このユディっていう名前のヒトは無関係――」
約二メートル。
ロイスは予備動作もなく地を蹴った。
爆ぜた床石が遅れて宙へ跳ね上がる。
衝撃だけが残り、姿はすでにそこにない。
一瞬で距離を詰め、躊躇なく大鉈を振り上げる。
「業雷」
名をなぞるように、赤黒いスパークが奔る。
雷鳴にも似た破裂音が空間を打ち抜き、光が一閃する。
――斬。
天使の体が、抵抗なく縦に裂けた。
骨も、肉も、羽も。
すべてを断ち切った確かな手応えが、腕に残る。
だが。
音が、消えた。
裂けたはずの断面が、
まるで時間を巻き戻すかのように滑らかに寄り合う。
血は流れない。
肉は零れない。
ただ“そうでなかったこと”にするかのように――
コンマ一秒にも満たない刹那で、
天使の体は完全な形を取り戻していた。
まるで最初から、何一つ斬られていなかったかのように。
ぎょろり、と。
黄金の瞳がロイスへ向けられる。
「無駄――「業雷」」
一閃。
最後まで言い終える前に、再び刃が走った。
聖女の体が真横に両断される。
ロイスの手に残る確かな手応え。
しかし、裂けた肉体は瞬時に繋がる。
「ちっ」
ロイスは小さく舌打ちを漏らすと、反動を逃がすように身を引いた。
靴底が石畳を滑り、わずかに火花を散らす。
そのまま距離を取り、音を立てて地上へと着地した。
静かに体勢を整え、ゆっくりと顔を上げる。
「もう!話を聞いてよ!気にならないの?ここがどこかとか、アタシが何者かとか、外やキミの仲間のこととかさ」
ロイスは言葉を挟まず、ただ天使を見据えたまま口を閉ざす。
応じる気配のない沈黙だけが、静かに場を支配していた。
天使は肩をすくめ、軽く手を振る。
「……まあいいや。勝手に話すね。ここは現世から切り離された空間。分かりやすく言えば、キミの中にいる“鬼”と同じ様な異界を、無理やり現世に繋げたものだよ」
ロイスは呼吸を整え、床に落ちる光の反射を踏みしめる。
その一歩に伴い差し込む光がわずかに揺れ、自身の顔に影が落ちた。
「普通なら、契約を切った者はここに残ることが出来ないんだけど、この異界内は特別。どれだけここで過ごそうが、外では一秒も経過しないんだよ?凄いでしょ!」
微かに瞳を細めるロイス。無言のまま、天使の言葉を全身で受け止める。
「キミが外に出る為には、アタシが解除するか、アタシを殺すかの二択なんだけど――どっちも無理かな」
天使は肩をすくめ、半透明の輪っかを揺らした。そのまま人差し指を頭上に向ける。
「あそこにステンドグラスがあるでしょ?あれは魔素を貯蓄する装置なんだ。王都中から毎日少しずつ貯め続けていたんだよ」
ロイスはその指に導かれるように、視線を天井へと向けた。
虹色に輝くステンドグラス。
その奥で、青白い魔素の光がわずかに脈打ち、空間そのものを微かに震わせている。
光と影が交錯する中、見えないはずの力の流れだけが、静かにそこに満ちていた。
「そして今、この装置が保有している魔素量は、あの龍狩りの男が使った切り札の数百倍にも及ぶ!だから、ね?キミがどれだけアタシにダメージを与えようとも無駄なんだよ!」
言葉が加速するにつれ、天使は肩を小刻みに震わせ、輪っかを揺らしながら笑みを深める。
その声音には、確信と興奮が混ざり合い、勝利を疑っていない余裕が滲んでいた。
「そこの魔素を消費して、アタシの祝福が即座にこの体を回復する!そして、どれだけ足掻いても何も通じないことに気づいて、キミが絶望する未来が訪れる!これは確定した未来!!それまでせいぜいあがくといーーい......?」
言い切る直前、天使の身体がわずかに揺れた。
不意に足元の感覚が噛み合わず、バランスを崩す。
軽くつまずくように視線が落ちた、その先――
床に、腕が一本転がっていた。
「ん……?」
首をかしげる。
表情に、ほんの僅かな“違和感”が差し込む。
だが、その違和感が意味を結ぶより早く。
彼女はようやく理解する。
「……な……なに……したの……?」
目の前で起きた異常に、声が震えて漏れる。
理解が追いつかないまま、視線だけがロイスへと引き寄せられる。
その瞬間だった。
ロイスの周囲から、黒がじわりと滲み出した。
それは影ではなかった。
より重く、暗く、感覚だけで胸を押し潰すような、圧迫のあるナニカ。
深い悲しみと、果たせなかった無念を抱えたモノ。
かつて絶望し、すべてを諦めた鬼の世界。
その世界で生まれながら、なお抗い続ける理不尽な怨嗟が、次元を超えてロイスの内側へと届いていた。
鬼の世界でヤミが叫ぶ。――行き場を失い、積み重なった怨嗟を晴らせと。
ロイスの中で闇が応える。――この世界に抗うための、ありったけの力をよこせと。
選定者となった時点で絡まり合っていたヤミと闇は、さらに深く沈み込み、やがてロイスの体内、核の位置で完全に同化する。
無数の怨嗟が渦をなし、彼の力を際限なく引き上げていく。
そして、その結果は現世にまで影響を及ぼした。
それは影ではなく、夜。
ロイスの足元から、静かに夜が広がっていく。
宙に浮かぶチェスの駒が、かすかに軋みを立てた。
天井のステンドグラスを透かす光が揺らぎ、虹色の輝きがわずかに歪む。
空気が変わる。
白黒で構成されていた世界に、濃く、重く、歪んだ夜が滲み出した。
「……なに、これ」
天使の声はかすれ、呟きのように漏れる。
その視線の先に、ひらり――桃色の花弁が空から舞い落ちた。
天使の奇譚には、存在しないはずの色。
静かに、ロイスの肩に落ちるその花弁は、まるでこの異変を告げるかのようだった。
「……桜?」
彼女の声に呼応するように、足元のチェス盤が低く軋む。
ひび割れた盤面の隙間から、黒光りする石畳がゆっくりとその姿を覗かせた。
軋みは連鎖するように広がり、割れ目は次第に空間そのものへと侵食していく。
やがて――
ロイスの背後に、巨大な影が静かに輪郭を結んだ。
黒く艶を帯びた瓦屋根。
空へと突き刺すようにそびえる城壁。
夜に溶け込みながらも、確かな質量を持ってそこに“在る”城郭。
月光が雲間を割って差し込み、庭に植えられた桜を淡く照らす。
風がそっと吹き抜けるたび、枝が揺れ、無数の花弁が音もなく舞い上がった。
コトン、と。
どこか遠くで、ししおどしが乾いた音を響かせる。
静寂と気配だけが満ちる中、白黒の空間に、確かな夜が重なる。
それは――
ロイスがかつて足を踏み入れた、あの夜の城だった。
天使の作り上げた世界と、ロイスが呼び寄せた世界。
異なる法則を持つ二つの領域が重なり合い、静かに、しかし確かにせめぎ合う。
城郭の影が石畳へと落ちるたび、白黒で構成された世界の輪郭が、まるで水面の波紋のようにわずかに揺らいだ。
反対に、天井のステンドグラスが放つ虹色の光は、侵食されるかのように歪み、細かく軋む。
ひらり、と桃色の花弁が舞い降りる。
だがその一片は、空間に触れた瞬間にその色彩を揺らし、淡く、そして確実に白へと引き戻されていく。
同時に、白黒の盤面に刻まれた無機質な色もまた、ほんの一瞬だけ輪郭を曖昧にし、夜の気配へと引き寄せられる。
桜が色を保とうとすれば、白がそれを削り取る。
白が均一であろうとすれば、夜がそこに滲み込む。
押し広げようとする力と、押し戻そうとする力。
二つの世界は互いを侵食しながらも、決して完全には飲み込めず、境界だけが幾重にも重なっていく。
拮抗――。
互いに優位に立つことなく、存在そのものが歪でありながら静謐な均衡。
ロイスはその中心に立ち、足元に広がる黒と白の境界を、ただ静かに見据えていた。
呼吸は乱れない。視線も揺れない。
だが体の奥――核の位置で、先ほどまでとは比べ物にならない“何か”が、音もなく膨れ上がっていく。
抑え込むのではなく、解き放つために収束していく圧。
空間そのものが、わずかに軋んだ。
そして、世界の底から響くような低い声で、ロイスは言葉を落とす。
「——異界降臨」
重く沈んだ一言が、白黒の空間に波紋のような震えを走らせる。
空気が、僅かに押し下げられる。
続けて、さらに深く、力を込めて名を呼ぶ。
「『夜櫻閣』」
その瞬間――均衡していた境界が、わずかに“傾いた”。




