22. 聖女の誤算
全てが順調だった。
――引き返すことが出来なかった。
何もかもが思い通りに運んだ。
――誰かに止めてほしかった。
聖女と呼ばれるようになってから歩み始めた第二の人生。
最善の未来へ向けて駒を動かすだけの、簡単な作業。
――最悪の未来へ向けて自分を進めるだけの、単純な作業。
王、王女、僧侶、塔、騎士、歩兵。
駒を盤上に並べ、王都ハインルッツェを手中に収めるまで、時間はかからなかった。
――その間に、友人も、両親も、恋人も。
かつて宝物と呼んだものは、すべて両手からこぼれ落ちていた。
退屈な日々。
――後悔の日々。
それでも私は、間違っていないと信じていた。
未来が見えるのだから、迷う必要などないのだと。
――けれど今になって、ようやく分かった。
それは、選べる者だけに許された、贅沢な錯覚だった。
そして、ようやく出会えてしまった。
私の想像を超え、未来の外側から現れた存在に。
突如終わりを迎えた、最高の結末を迎える物語。
ーようやく解放される、最悪の結末を迎える物語。
誰でもいいから教えてほしかった。
私の未来を。
私自身が、どこへ向かっていたのかを。
――それでも。
毎夜見続けた悪夢のような未来が、今はまだ来ていない。
それだけで、私は安心してしまった。
それが救いなのか、破滅の始まりなのかも分からないまま。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
「――クハハハハハハハッッ! 隠れてねぇで出てこいよォ!ユディィィ!!」
愉悦に満ちた嗤い声が石壁に反響する。
「俺と遊ぼうぜぇ!もちろんチェス以外でなァ。あれは勝てなくてつまんねぇからよ……そうだな、鬼ごっこなんてどうだ? この間やりたいって言ってただろ? こんなところでやれる機会なんて、滅多にないぞ」
捲し立てるような早口と共に、足音がゆっくりと近づいてくる。
玉座も、赤絨毯も、燭台の炎すら、すべてが静まり返っている。
そんな無人の王宮を、愉しげに“鬼”が歩く。
初めて見る未来。
ユディの未来視に映らなかった展開。
分岐など存在しないはずだった物語。
完璧に管理していた盤上に、突然、盤ごと踏み砕く何かが乱入してきた。
喜劇だと読み進めていた物語が、終章で怪異譚へと裏返るような、あの感覚。
ついさっきまで笑っていたはずなのに、気づけば逃げ場がない。
今日に至るまで、あらゆる手を先読みしてきた異能と、盤上のすべてを思い通りに動かしてきた祝福。
それが、あの鬼人には通用しない。
「痛い……」
頬の奥がずきりと疼く。
「痛い痛い痛い……」
殴られた衝撃が、今さらになって鮮明に蘇る。
骨の軋み。歯の震え。視界の揺れ。
「え? 夢かな? 夢だよね……?」
自分に言い聞かせるその声は、ひどくかすれていた。
「そうだよね……うん、夢だよ。こんなの夢に決まってる……」
王宮一階の一室。
重厚な机の下に身を縮め、聖女は膝を抱えていた。
豪奢な装飾も、金の縁取りも、今はただの影を落とす障害物にすぎない。
小さく縮こまり、呼吸を殺す。
"盤上ノ遊戯"の効果の一つ――自動回復。
これによりユディの砕けた骨も、裂けた皮膚も、とっくに修復されている。
それでも。
殴られた“痛み”だけは、消えていなかった。
頬の奥に残る鈍い震え。
脳を直接揺らされたような、不快な残響。
ユディは無意識のうちに親指の爪を噛み、血の滲む音も気にせずぶつぶつと呟く。
「ロイス君が私のところまでたどり着いて、それをロッツォが捕らえて連れて帰って、時間をかけて洗脳して……それで私の駒になる。それから今度こそ万全な状態で、帝国の奴らと戦うはずだったよね?」
溢れた言葉は止まることなく早口になる。
「……なのに、なんで私、ロイス君に殴られて、追いかけられて、隠れてるの?」
理解が、追いつかない。
「なんで??」
聖女として歩んだ第二の人生で、初めて受けた顔面への"拳”。
その衝撃が、思考回路を焼き切っていた。
「あり得ない、あり得ない……! だってただの駒なのに!」
修道服の裾が床に擦れ、白布が灰で汚れていく。
そんなことはもう、どうでもいい。
四つん這いになり、拳で床を叩く。
「私は盤を握る側なの!外にいるの!あなたは駒なのよ!ぜんぶ、ぜんぶ思い通りに――」
「へぇ……俺も、あんたの駒だったのか」
背後から、低い声が落ちる。
穏やかすぎるほど、穏やかな声で。
「それは、知らなかったな」
「そうだよ!私は動かす側で、あなたは動かされる側!全部、決まってるはずで――ぇ……?」
声が、そこで凍りついた。
恐る恐る顔を上げる。
机の縁に手をかけ、関節の軋む音とともに、身を折って覗き込む鬼人。
三日月のように裂けた口元。
しかしその目は笑っていない。
赤黒い瘴気が天井を這い、逃げ場を塞ぐように広がる。
その熱が、頬に触れる。
「ヒッ」
喉の奥から、情けない音が漏れた。
すぐ目の前で、影が揺れる。
「なぁ、ユディ」
拳が、ゆっくりと振り上がる。
「今、盤の上に立ってるのは――どっちだ?」
理解が追いつくより、速く。
二度目の拳が、聖女の顔面を容赦なく撃ち抜いた。
「――ッ、あ゛ああああああああッ!!」
悲鳴とともに、身体が宙へと叩き出される。
王宮の壁を一つ、二つ、三つ――
石造りの隔壁を紙のように突き破り、机も椅子もまとめて粉砕しながら、聖女は弾丸のように一直線に貫いていった。
壁を貫くたび、骨が折れ、肉が裂ける。
それを、己の祝福が即座に修復する。
破壊。
修復。
破壊。
積み重なるのは、痛みだけ。
やがて勢いを失い、ユディは大階段の手前に叩き落とされた。
仰向けのまま、視界に入るのは高い天井とシャンデリア。
冷たい光が、何事もなかったかのような身体を照らしていた。
「……ゆ、ゆめじゃ、ない……?」
掠れた声が、広間に虚しく響く。
見開いた瞳の端に、じわりと涙が滲んだ。
「あのヒト……何……? 何なの……?なにも分からない……なにも、見えない……!」
未来も、分岐も、結果も。
これまで当たり前のように視えていたものが、すべて闇に沈んでいく。
――ガタッ。
背後で、何かが鳴った。
「っ……!」
全身が跳ねる。
脳裏に浮かぶのは不敵に嗤う鬼人。
「いやだ……来るな……来るなぁぁぁぁぁぁ!!」
叫びながら跳ね起きると、目の前の階段へとただ逃げるように駆け出した。
紅い絨毯が敷かれた螺旋階段。
振り返る余裕などない。
二階、三階、四階――
階段はどこまでも続くように感じられ、
肺が焼け、脚が悲鳴を上げても、足は止まらなかった。
「はぁ……はぁ……はぁ……!」
息も絶え絶えになりながら、
ついに最上階――王の寝室の前へ辿り着く。
震える手で大扉を押し開き、転がり込むように室内へ滑り込んだ。
「…… 招集。選択“王”」
かすれた呟きが、空気を裂く。
次の瞬間、空間が不自然に歪み、そこから瀕死のノア王が引きずり出された。
祝福による強制招集。
支えを失った王の身体が、床へと無造作に投げ出される。
「は、早く……っ、立って……!」
よろめきながら駆け寄り、胸ぐらを掴む。
指先が食い込み、布が軋む。
「うぐっ……聖女様、何を……」
「転移! 聖教会に! 今すぐ! 今すぐに!!」
目は血走り、呼吸は荒い。
聖女とは思えぬ形相で、王を揺さぶる。
「早くしてって言ってるでしょ!?唱えろ!!早く!!」
「……落ち着――」
「あいつが来るっ!落ち着いてる暇なんてないの!!」
動揺しながらも、ノア王は震える手を掲げた。
「王命――配置。"聖教会"」
瞬間、王冠の紋章が床に浮かび上がり、幾重にも重なった魔法陣が部屋いっぱいに展開する。
細かな光の線が石の継ぎ目をなぞり、盤上に罫線を引くかのように床を駆け巡った。
円と紋章が重なり合い、空間そのものを囲い込む。
眩い光が炸裂し、視界を塗り潰す。
やがて。
光が引いた先は、聖教会地下の大広間だった。
先日の戦闘の痕跡は綺麗さっぱり消え失せ、
磨き上げられた大理石の床が静かに広がっている。
頭上には巨大なステンドグラス。
聖女を模した慈愛に満ちた女の姿が、こちら見下ろしていた。
その下で、ノア王は床に手をつき、辛うじて身体を支えていた。
顔色は土気色。呼吸は浅い。
「……ここまで来れば……」
ユディは王を振り返りもせず呟く。
「一旦は……耐えられる、はず……」
ユディは自分に言い聞かせるように呟き、一歩踏み出す。
その時。
床に映る自分の影が――二つに割れた。
「……っ!?」
影が、水面のように波打つ。
黒が盛り上がり、そこから一人の人物が“浮かび上がった”。
黒い仮面はない。
包帯に覆われた整った顔を、惜しげもなく晒している。
灼けるような髪。
深紅の瞳。
王都随一の情報屋――ベルベット。
「やっぱり、ここに逃げると思ってたよ。聖女サマ」
軽い声音が、やけに鮮明に響く。
「情報屋……! いつから私の影に!?」
「“最初から”って言えたら格好よかったんだけどね。
ついさっきさ。ロイスの影を通して、お前の中に潜り込んだ」
「そんな……いつの間に……」
未来視に、そんな分岐はなかった。
「あれ? お得意の未来視はどうしたのかな?」
ベルベットは口元を吊り上げる。
「だったら――それも知らないかもね」
指先が、ゆっくりと背後を示す。
つられてユディが振り返った。
その視界の端。
光を呑み込むような、異様に濃い影があった。
「っ、まさ……か……」
ベルベットの異能、影位相のもう一つの効果。
登録した二地点を、影で繋ぐ転移のトンネル。
影に入った者を、そのまま“向こう側”へ通す力。
聖協会と繋がる先はーーー。
「あ……ああ……」
顔が引き攣り、声にならない。
ユディの影が、大理石の床の上で不気味に波打つ。
黒が盛り上がり、歪み、
そこからゆっくりと――鬼人が浮かび上がった。
赤黒い瘴気が地下聖堂の空気を侵食する。
ステンドグラスの女神が、まるで嘲笑うように揺らめいた。
「鬼ごっこは、もう終わりか?」
低く、響く声。
「随分あっけなかったな。……もう打つ手が無いなら」
漆黒の瞳が、真正面からユディを射抜く。
「ユディ=ポルガーノ。あんたは、ここで終わりだ」
ロイスから溢れ出た闇が、奔流のように押し寄せる。
「う……あ……ッ!」
呼吸が潰れる。視界が歪む。
ユディは圧に耐えきれず、よろめき、後ずさる。
かかとが何かにぶつかり、動きが止まった。
――背後。
ゆっくりと振り向く。
そこに立っていたのは、満面の笑みを浮かべたベルベット。
包帯越しの赤い瞳が、愉快そうに細められている。
右拳を引き、腰を落とし、構える。
「やめっ――――」
「これは、この前の分っ!!」
言葉を最後まで紡ぐ暇はなかった。
乾いた破裂音。
ベルベットの拳が、真正面から聖女の顔面を撃ち抜いた。
視界が白く弾け、次の瞬間、床が遠ざかる。
祝福が傷を癒やすより早く、屈辱と衝撃が脳を揺らした。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
「そろそろ道を譲っていただけませんか。このままでは我々がユディ殿に叱られてしまう。……それに貴方は、今回の件には関わらないと仰っていたはず」
王都ハインルッツェ正門前。
閉ざされた大門を背に、ロッツォを除くシュバルツ・シャッハの五人と、探索者ギルド最強の男――正義執行が対峙していた。
石畳を軋ませる圧が、両者の間で静かにぶつかり合う。
「ふふ……誰から聞いたのかは知らないが、私は“直接関与しない”と言っただけさ。見物くらいは許されるだろう?現にこうして立っているだけだ。何か問題でも?」
腕を組んだまま、正義執行は微動だにしない。
対峙する五人はエルフ、ヴァンパイア、ドワーフ、リザードマン、そして獣王。
種族も出自も異なるものの、この世界で名を知らぬ者はいない実力者。
その五人が、揃って足を止めている。
「……ならば、その殺気を収めていただきたい」
獅子の頭を持つ巨躯が、ゆっくりと息を吐く。
膨れ上がる圧が石畳を震わせるが、正義執行は笑みを崩さない。
「はて、何のことやら。君ほどの男が、この程度で足を止めるとは思えないがな――獣王」
わずかに空気が軋む。
背後で、ヴァンパイアの瞳が細められ、ドワーフが足元の石を踏み締める。
リザードマンの尾が低く揺れ、エルフだけが静かに正義執行を観察していた。
「我々は天に選ばれなかった者。あなたのような“枠外”の存在に並び立つほどの力は持ち合わせていない」
丁寧な口調とは裏腹に、獣王の威圧は一段階上がる。
「冗談はよしたまえ。その顔で謙遜とは、似合わんな」
ピクリと眉を動かし、睨み合う2人。風が強まり、互いのマントが靡く。
「……なぜロッツォだけを通したのですか」
獣王の問いに、正義執行の口角がわずかに上がる。
「確かめるためだよ。彼に備わるものが、“王たる器”かどうかを」
空気が、さらに重くなる。
「あのロイスという少年のことですか。少々買いかぶり過ぎでは?」
「見る目が無いねぇ、獣王。人の上に立つ者としては失格だ」
その挑発にも、獣王は動じない。ただ静かに大剣の柄へと手をかける。
背後で四人も同時に構える。
五つの圧が重なり、門前の風が止まる。
それでも、正義執行は腕を組んだまま動かない。
一対五。
数の上では有利。だが、誰一人として優位を確信できない。
「……貴方がそこまで言いますか。少々興味が湧きました」
獣王が低く言う。
「この後、自分の目で確かめるとしましょう」
王都の外で、怪物たちの衝突が、今まさに幕を開けようとしていた。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
聖教会地下。
ロイスとベルベットに挟まれる形で、ユディは頬を押さえたまま俯いていた。
青白い光が淡く周囲を漂い、裂けた肌や折れた骨はすでに癒えている。
――それでも、彼女は動かない。
何も聞こえない。
水音も、足音も、息遣いも。
地下聖堂を満たしているのは、
押し潰すような静寂だけ。
「……ロイス、なんかおかしくない?」
囁くようなベルベットの声が、やけに大きく響く。
「あぁ」
短く返したロイスは、視線を逸らさない。
時間が引き伸ばされたかのように、数秒が異様に長く感じられた。
次の瞬間。
「――――あは」
乾いた笑いが、喉の奥で転がる。
小さく、何度も。
聖女の肩が揺れる。
指が頬から離れ、だらりと垂れた。
顔が上がる。
怯えも、懇願も、痛みも。
さきほどまでそこにあったものは、跡形もなく消えていた。
代わりにそこにあるのは、空気を歪ませるほどの異様な圧。
「ッ……!」
ベルベットの喉が詰まり、大粒の汗が頬を伝う。
足が床に縫い止められたかのように、一歩も動けない。
鬼人であるロイスでさえ、わずかに目を見開いた。
ユディの両目。
その奥に、蒼く輝く魔方陣が浮かび上がる。
左右の円環の中で、六つの駒が、音もなく回転を始めていた。
「あはははははははははははは!もういい、何もかも、もう!どうでもいい!」
狂気を帯びた笑い声が地下聖堂に響き渡り、壁や柱にぶつかって歪んだ反響となる。
聖女は天を仰ぎ、両腕を広げた。
天井のステンドグラスが眩い光を放ち出す。
赤、青、緑、紫。
虹色の光が照明のように幾重にも重なり、地下空間を満たしていく。
「ベルベット!下がれ!!」
ロイスの第六感が、今までにないほど強く警鐘を打ち鳴らした。
叫びながら踏み出し、腕を伸ばす。
――その瞬間。
ふわり、と。
一枚。
二枚、三枚。
十枚、百枚。
無数の白い羽根が、天井から零れ落ちはじめた。
雪のように。
あるいは、祈りの残骸のように。
ゆっくりと、静かに。
ユディの声が、地下聖堂に響く。
「祝福《盤上ノ遊戯》――異界降臨《天獄》」
その瞬間。
ベルベットの動きが止まった。
表情を歪めたまま、彫像のように固まる。
傍らで、ノア王もまた膝をついた姿勢のまま静止した。
驚愕に見開いた瞳、そのままに。
羽根も、宙で止まる。
音が、消える。
世界から色が抜け落ちていく。
虹色に輝く天井のステンドグラスだけを残し、
すべてが白と黒へと塗り替えられた。
さらに――
ロイスとユディの二人を囲むように、巨大な駒が出現する。
六種、十二体。
王、女王、塔、僧、騎士、兵。
それぞれが宙に浮かび、完全に静止する。
音が遠ざかる。
振動が意味を失う。
王都を流れていた時間が、ぎしりと軋みながら歪み――
そして。
王都ハインルッツェのすべての時間が、停止した。




