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異世界奇譚  作者: ツチノコ太郎
ep.2 聖女
21/22

21. 祈りに拳を

手が届く距離まで詰め、ロイスは聖女と向き合った。

砕けた石畳と血の匂いを背に、二人の視線が正面から噛み合う。


「よおユディ。約束通りぶん殴りに来たぜ」


その声に、聖女――ユディは小さく首を傾げ、にこりと笑った。


「うん。ここまで来るって信じてたよ。ロイス君」


周囲を見渡しても、彼女を守る者はもういない。

王も、騎士も、兵も――すべて盤上から消えた。


それでも、ユディの表情に焦りはない。

恐怖も動揺もなく、まるで来客を迎えるかのように穏やかな笑みを浮かべている。


その様子が、ロイスの神経を逆撫でした。


「……なぁ、ユディ」


低く、押し殺された声。


「あんたがイヴァンと交わした契約……覚えてるか?」


「覚えてるよ」


即答だった。


「協力してもらう代わりに、息子くんを助けるって話でしょ?」


あまりに軽い口調。

まるで、昨日の雑談でも思い出すかのように。


ロイスは一歩、距離を詰める。


「……助ける、って言ったな」


「言ったね」


ユディは否定しない。

だからこそ、ロイスは次を重ねる。


「“助けた”のか?」


一瞬だけ。

ほんの一瞬、ユディの視線が泳いだ。


だが、それもすぐに整えられる。


「どういう意味?」


「そのままだ」


ロイスの声が、さらに低く沈む。


「ダンは今、生きてるのか」


沈黙。

ユディは顎に指を当て、少しだけ考える素振りを見せた。


そして――

困ったように、楽しそうに、口元を緩める。


「……それを“嘘だ”って言ったら?」


その言い方が、決定打だった。


ロイスの瞳が、細く鋭く収束する。


「あれは、嘘だったんだな」


「うん」


今再び、即答。


「でもねロイス君。結果として救われたんだよ。この街も、人も」


まるで正解を提示する教師のように、首を軽く傾け、優しく言う。


「なら、なにも問題ないでしょ?」


――その瞬間。


ロイスの中で、何かが切れた。


「殺す」


低く吐き捨てられたその言葉にもユディは怯まなかった。


むしろほんの少しだけ眉を下げ、

困った子を見るような表情になる。


「ロイス君」


諭すように、優しく。


「感情で物事を見ないで」


その一言に、空気が冷える。


「一人を“確実に救えない可能性”に賭けるより、多くを“確実に救える未来”を選ぶ」


淡々と、当然の前提として語る。


「私は間違えない」


一歩、ロイスに近づく。


「イヴァンも、ロイス君も、結局“選ばれなかった側”だっただけ。

 駒としての役割を果たせば、それで良いの」


その瞬間。


ロイスの右手が、音もなく握り締められる。


ノーモーション。

大鉈が風を裂き、一直線に聖女へ振り抜かれ――


束縛の鎖(オーナーズチェイン)


低く、地を這うような声が、どこからともなく響いた。


刹那。


何もないはずの空間が、ぐにゃりと歪む。

そこから、黒ずんだ鉄製の鎖が四本、獣のような勢いで飛び出した。


「――っ!?」


振り上げた腕が止まる。


鎖は一瞬でロイスの四肢に絡みつき、締め上げるように固定した。

聖女まで、あと一歩という距離で――完全に封じられる。


筋肉が軋み、骨が鳴る。

だが、びくともしない。


「……なんだ、これ……は!」


何重にも巻きついた銀の鎖は、鬼人と化したロイスの膂力をもってしても、微動だにしなかった。


「……っ!」


歯を食いしばり、筋肉を軋ませる。

だが鎖は応えない。まるで意思を持つかのように、冷たく、頑なに締め付けるだけだった。


「やーっと来たようだね。遅いよ」


呆れたような声。

目の前で、聖女ユディが小さく肩をすくめ、ため息をつく。


拘束を振りほどこうと暴れ続けていたロイスは、ふと――

背中を撫でるような、強烈な視線を感じた。


動きを止め、顔を上げる。


正面には、手を背に回して微笑む聖女。

その背後には、そびえ立つ王宮。


そして――

王宮の最上部。国旗を掲げる細い旗竿の、さらにその先端。


そこに、一人の人影が腰掛けていた。


距離のせいで輪郭は曖昧だが、

ありえない高さに、ありえない軽さで“座っている”ことだけは分かる。


ロイスが認識した、その瞬間。


人影は、ゆっくりと立ち上がった。


顎を引き、両腕を耳の後ろへ。

肘を伸ばし、姿勢を整え――


まるで水に飛び込むかのように。


指先から、空へ身を投げ出した。


「……は?」


間の抜けた声が漏れる。


上空の点は、みるみるうちに大きくなり、

次の瞬間には、視界を塞ぐほどの存在感で迫っていた。


着地のための技能も、緩衝の気配もない。


ただ――

砲弾のような速度で。


「――っ!?」


轟音。


石畳が悲鳴を上げて砕け、衝撃が地を揺らす。

砂埃が爆発的に舞い上がり、ロイスは思わず目を細めた。


舌打ちしながら顔を振り、砂を払い落として前を見る。


そこにいたのは――

聖女とロイスの間に、割り込むように立つ“無傷”の人物。


黒の肩出しボディスーツに、引き締まった体躯。

黒光りする脚は網タイツに包まれ、明らかに人外のものと分かるウサギの耳が頭から伸びている。

腰には、丸い尾。


酒場に立てば人気者、そう断じてもいい外見だ。


ただし。


その中身が、筋肉の塊のような男であることを除けば。


「は〜い! ごきげんよう、ユディちゃん!」


底抜けに明るい声が、戦場に響いた。


ロイスと比べても、さらに低く野太い声だった。

茶髪のドレッドヘアが揺れ、真っ黒なサングラスが太陽光を弾いてきらりと瞬く。


「あ〜ら、想像以上にいい男。その長い銀髪、あなたがロイスちゃんね」


親指でサングラスを持ち上げ、口角をつり上げる。


「私の名前はロッツォ。ユディちゃんに仕える《シュヴァルツ・シャッハ》の一人。

歩兵ポーン”担当よ。よろしくね♡」


褐色の肌に盛り上がる筋肉。

オカマ口調の男は、バチンと大げさにウインクを決めた。


――シュヴァルツ・シャッハ。

通称“黒”。


ヴァイス・シャッハと対をなす六名の精鋭。

全員がヒト族ではない亜人種で構成され、王都の外に散って活動する。


盾を担う“白”に対し、

彼らは純然たる殺戮装置――“剣”。


その一角、“歩兵ポーン”。

兎人族のロッツォは、腰に手を当てて戦場を見回した。


「ロッツォ……」


瓦礫の陰から、掠れた声。

意識を取り戻したのか、ノア王が地に伏したまま名を呼ぶ。


「もう。盾役のあなたたちが、そのザマ?情けないわね」


ロッツォは肩をすくめ、わざとらしくため息をついた。


「そういえば、イヴァンちゃんの姿が見えないけど……」


サングラスの奥で、視線が細まる。


「まさかとは思うけど……負けちゃったの?」


白の中でも頭一つ抜けた実力者であるイヴァンの敗北。


その事実に、ロッツォは一瞬だけ目を見張り、すぐに興味深そうな笑みへと変えた。

視線が、ゆっくりとロイスへ向けられる。


サングラスの奥。

ピンクブラウンの瞳が、妖しく艶めいた。


「ますます気に入ったわ、ロイスちゃん。顔もいいし、なにより強い」


愉しげに舌なめずりする。


「ねえユディちゃん。この子、()()に連れて帰ってもいいかしら?」


「絶対ダメ!」


即答だった。


「私のお気に入りなんだから。

それにあなたの所、物騒すぎるでしょ。ロイス君が“見せ物”になるのはごめんだよ」


「んー残念。きっと最高の目玉になると思ったのに」


軽口を叩きつつ、ロッツォは肩をすくめる。


「……」


ユディの視線は、ロイスへと戻る。


銀の鎖に縛られたまま、

いつの間にか抵抗をやめた彼は、ぐったりと俯いていた。


ほんの数日前。

イヴァンに一太刀すら与えられなかった男が、

たった一人で、王都最高戦力たるヴァイス・シャッハを相手取り、圧倒してみせた。


戦闘の心得を持たないユディにすら、はっきりと分かる。

他者と一線を画す技量。

肌を刺すような、濃密な存在感。


この世界においても、疑いようのない“上位者”。

聖女と同じ、選ばれし側の人間。


――だが、それでも。


ロイスは、まだ届かない。


「……ふ」


喉の奥で、小さく息が漏れる。


次の瞬間。

ユディの口元が、ゆっくりと三日月のように歪んだ。


聖女の微笑みではない。

慈悲も、優しさも欠片ほども含まない、

醜悪で、ぞっとするほど愉悦に満ちた笑み。


「ふ……ふふ……ふふふふふふふふ」


抑えきれない笑いが、零れ落ちる。


己の異能である未来視で“結末”を知ってから、初めてロイスを見た時のことを思い出す。

良くも悪くも、どこにでもいそうな普通の男。


そんな男が、窮地で選定者となり、復活を遂げる。


――まるで物語の主人公。


ありふれた英雄譚なら。

ラスボスたる聖女を打ち倒し、拍手喝采のハッピーエンドで幕を閉じるのだろう。


けれど。


そんな“主役”ですら――

聖女にとっては、卓上に並ぶ駒の一つに過ぎない。


ユディは両手を掲げ、空を仰いだ。

太陽の光が、まるで舞台照明のように彼女を照らす。


「――あはっ」


弾けるように、声が跳ねる。


「あはははははははははははははははは!!」


ついに、抑え込んでいた愉悦が、完全に解き放たれた。


「ほら見ろ」


ユディは陶酔したように、両腕を広げる。


「やっぱりこうなった」


声が弾み、笑みが更に歪む。


「全部、最初に見た通り!多少のイレギュラーなんて誤差よ。運命は、常に私の視界の中にある」


胸に手を当て、誇示するように名を告げる。


「私は天に選ばれた聖女――ユディ=ポルガーノ!」


吐き捨てるように、過去を切り捨てる。


「あれほどの力を誇った女ーーオルベルクでさえ、最後はあっけなく死んだ。選ばれし者じゃなかったのよ」


「黄金帝でもない」

「正義執行でもない」

「導師でもない」


一瞬、声が低く沈む。


だがすぐに、歓喜がそれを塗り潰す。


「――私だけ」


「すべてを見通し」

「すべてを配置し」

「すべてを動かしてきた」


指先が震えるほどの昂揚。


「次こそは……次こそは、私が“完全な結末”を掴む!!」


言葉を吐き出し切った途端、

熱に浮かされていた身体から力が抜ける。


両腕が、だらりと垂れた。


ユディは、静かにロイスを見る。


「だから、それまで」


声音が、甘くなる。


「私の駒として、隣で見ていてね。ロイス君?」


金髪を揺らし、愛おしむような歩調で近づく。


壊れ物に触れるかのように、慎重に。


「これで、王手(チェックメイト)だよ」


(未来視で見た、その絶望に染まった顔……)


(もっとちゃんと、見せてちょうだい)


不自然なほど静かに俯くロイス。


ユディが、その顎に指をかけ、顔を持ち上げた。


その瞬間。
















「……え?」










どろり、と。


ロイスの顔が、黒に染まった。


影ではない。

闇でもない。


もっと粘ついた、もっと生々しい――

何かが内側から溶け出し、零れ落ちてくるような黒。


肌の色が消える。

目鼻立ちが滲む。

輪郭が、熱に炙られた蝋のようにゆらりと揺らいだ。


次の瞬間、その輪郭が崩れ――


「ひっ……!」


ユディは反射的に手を離し、尻餅をついた。

地面についた掌が震えていることに、気づく余裕すらない。


ロイスは、音もなく溶けていく。

肉も、骨も、形という概念そのものが失われ、

黒い粘性の液体となって地面へ広がっていった。


「え……なに……これ……?」


視線を上げる。


――いない。


さっきまで隣に立っていたはずのロッツォの姿も、

背後にあったはずの王宮も、

空も、街も、瓦礫すらも。


すべて、消えていた。


そこにあるのは、

上下も奥行きも判別できない、無限に広がる黒だけ。


「……っ」


背筋に、冷たいものが走る。


招集(コール)選択(チョイス)全員(オール)……!」


声が震える。


招集(コール)! 招集(コール)!!」




――返答、なし。


魔力も。

異能も。

祝福も。

“世界が応じる感触”すら、ない。


「……嘘、でしょ……?」


この世界で、彼女に応じない命令など存在しないはずだった。


「なんなの……一体……!!」


声を張り上げても、

反響すら返ってこない。


初めてだった。


未来視にも映らず。

祝福も届かず。

盤面の外に、放り出された感覚。


(ここに……いてはいけない)


聖女の本能が、明確に警鐘を鳴らす。


だが――


足に力を込めても、立てない。

腕を動かそうとしても、重力が絡みつく。


まるで、

底なしの沼に、世界ごと沈められていくように。


「……いや……」


盤は、まだ終わっていない。


だが――

駒を動かしているのが、自分ではない。


その事実だけが、

確かな“イレギュラー”として、ユディの心臓を締め上げていた。






「おねぇさん、だーれ?」


「……っ!?」


不意に背後から声をかけられ、ユディは反射的に振り向いた。


そこに立っていたのは、三、四歳ほどの銀髪の男の子。

背丈は低く、服装もどこにでもいそうな子供のもの。

――だが、この場に“いる”こと自体が異常だった。


「ここで、なにしてるの?」


その声に応じようとして、ユディは自分が畦道に座り込んでいることに気づく。


いつの間に移動したのか。

見渡せば、さきほどまでの黒は影も形もなく、

周囲には田んぼと畑が広がり、ぽつぽつと民家が点在していた。


あまりにも、平凡で。

あまりにも、不自然なほどに穏やかな風景。


ユディは男の子と視線を合わせ――

そこで、言葉を失った。


その瞳。


今まで見てきたどんな闇よりも深く、

光を拒む洞窟の奥のように、

底が見えない漆黒。


「……私は、ユディ。気づいたら、ここにいたの」


喉の奥を引きつらせながら、名乗る。


「……あなた、もしかして……ロイス君?」


その瞬間、

全身に、ぶつぶつと粟立つ感覚が走った。


理屈ではない。

未来視でも、祝福でもない。


ここにいてはいけない。

今すぐ立ち去らなければ、取り返しがつかない。


聖女としての本能が、叫んでいる。


それでも――


目の前の子供が、

ほんの少し前まで、命を懸けて争っていた“彼”にあまりにもよく似ていることが

ユディの足を、縫い止めていた。


「ろいす?」


男の子は小さく首を振った。


「ううん。ぼくのなまえはーーーーだよ!」


「……え?」


確かに、声は聞こえた。

だが、肝心の“名前”だけが、音として掴めない。


耳に届いたはずなのに、

意味が脳へ落ちる前に、すり抜けて消えていく。


「――――!」


もう一度、男の子ははっきりと口を動かした。


それでもやはり、

名前の部分だけが、ぽっかりと抜け落ちる。


(……聞き取れない? いや、これは.......)



これ以上関わってはいけない。


ユディは、もはや思考を切り捨て、

元いた場所へ戻る術だけを探そうと口を開きかけ――


ぽたり、と。


頬を、冷たい感触が伝った。


「……っ!? なに?」


反射的に指で拭う。


指先に付いたのは、

墨汁のように粘り気のある、真っ黒な水。


「わ! 雨だ!」


男の子が、楽しそうに空を見上げる。


「風邪ひいちゃうから、お家に帰らないと!」


「……え?これが、雨……?」


ぽつ、ぽつ、と。


黒い滴が地面に落ち、

土を、畦道を、田んぼの水面を、

じわじわと黒に染めていく。


次第にそれは、音を伴うほどの降り方に変わった。


空から落ちるのは、水ではない。

世界そのものが、溶け落ちているようだった。


「また話そうね! ばいばーい!」


気づけば、男の子はずいぶん遠くにいる。


振り返り、こちらに向かって大きく手を振ると、

両手で頭を押さえ、

軽い足取りで奥へと駆けていった。


黒い雨の向こうへ。


その小さな背中は、

降り続く闇の中に、あっという間に溶けて消えた。


雨音だけが、世界を満たしていた。

虫の声も、獣の気配もない。

風に揺れるはずの草の擦れる音すら、どこにも存在しない。


――そういえば。


(他の住民は……どこに?)


問いが形になる前に、足元の感触が失われた。


黒い水位は、気づかぬうちに膝を越え、腰を覆い、胸元まで迫っている。

地面はすでにどこにもなく、聖女の足は宙を踏む。


それでも、雨は止まない。


「がっ……ごぼっ……!」


息を吸おうとした瞬間、喉に黒が流れ込む。

水とも違う、重く、粘つく闇。


必死に腕を振るが、掴めるものは何もない。

もがけばもがくほど、身体はゆっくりと沈んでいく。


やがて、完全に水中へ。


「…………」


視界の先に広がるのは、漆黒。


それは先ほど見た、あの銀髪の男の子の瞳と同じ色。

光を拒み、底を許さない、圧倒的な虚無。


聖女だとか、選定者だとか、

そんな肩書きが、ここでは何の意味も持たない。


このまま、自分も例外なくこの闇に溶け、

〝無〟として消えてしまうのではないか。


そんな錯覚が、確信に近い恐怖となって胸を締めつける。


全然、違う。


ついさっきまで、ロイス君も自分と同じ、

天に選ばれた存在だと信じていた。


だが、今なら分かる。


これは、同列ではない。

祝福でも、未来視でも、到底届かない。


(ロイス君……)


(あなたは、一体――何なの……)


答えに辿り着く前に、

ユディの意識は、抗うことなく深い闇へと沈んでいった。


















「っ……!?」


耳に飛び込んできた声で、ユディははっと顔を上げた。


「もう。盾役のあなたたちが、そのザマ?情けないわね」


ロッツォが肩をすくめ、ため息をつく。


その視線の先――

四本の鎖に手足を縛られ、身動きひとつ取れないロイスの姿。


先ほどと、まったく同じ光景。


(……戻った?)


理解するより先に、身体が重くなる。


「っ、はぁ……はぁ……」


ユディは膝に手をつき、俯いた。

額には大粒の汗が浮かび、呼吸は浅く、早い。


(違う……!あんなもの、私は知らない!)


本来なら、このまま何もできないロイス君を捕らえ、

すべては予定通り終わるはずだった。


未来視に映っていた結末は、そうだった。


「ちょっと! ユディちゃん、大丈夫!?」


異変に気づいたロッツォが、慌てて駆け寄ってくる。


これも、知らない現実。


(さっきの子……あれはロイス君?)


(でも、名前は違った。それに……あの場所はどこ?)


ただの幻覚だと切り捨てるには、あまりにも鮮明すぎる記憶。


(ロイス君のことは徹底的に調べた)


出身は、どこにでもある田舎の小さな村。

幼馴染の三人と共に王都へ来て、探索者となった。


(でも、さっき見た場所は……その村じゃなかった)


田畑の広がる風景。

人の気配のない集落。

そして、すべてを呑み込む黒い雨。


(それに、あの“闇”……)


(私と同じ選定者になったんじゃないの?)


(貴方の祝福は"怨嗟ノ鬼"でしょう? なら、あれは……何?)


疑問が、次々と湧き上がる。

だが、答えはひとつも見つからない。


あらゆる未来を見通してきたはずの聖女が、

初めて“理解できないもの”に直面していた。


――見てきたはずの未来とは、違う。


つまり。


ここから先は、

聖女ユディにとっても、未知の領域。


盤上にあるはずの駒が、

いつの間にか、盤そのものを踏み越えていた。


ユディの顔から、余裕という名の仮面が音もなく剥がれ落ちた。


「……ィちゃん、ユディちゃん!」


「っ!?」


気づけばロッツォに肩を掴まれ、乱暴に揺さぶられていた。


「大丈夫!? しっかりしなさい!」


一拍遅れて、先ほど聞き逃した言葉を思い出す。


「……ねぇ、ロッツォ。そういえば他の“黒”たちは、今どこで何をしているの?」


「それが―――」


「おいロッツォ! 後ろ!」


ノア王の叫びに、反射的に振り返る。


そこには――

ロイスを拘束していたはずの鎖が、粉々に砕け散った跡だけが残っていた。


誰も、いない。


「……え?」


目を見開いたロッツォの目前に、影が滑り込む。


気づいた時には、ロイスはすでに懐へ踏み込み、

武器を――先ほどの倍はあろうかという大きさにまで肥大化させた大鉈を構える。


真横後方に振りかぶられた刃に、赤黒い稲妻が絡みつく。


震えた大気が、怨嗟のような軋み声をあげた。


「ちょっ――!?」


「どけ、オカマ野郎。――“業雷”」


ロッツォが咄嗟に鎖を惑わせた両腕を交差させ、防御の構えを取る。


だが、そんなものは意味をなさない。


大鉈は防御ごと叩き潰し、

衝撃が肉体を貫通する。


「あ゛んッ!!」


不愉快な低い声と共に、ロッツォの身体が真横に吹き飛ぶ。


そのまま屋台へと突っ込み、

木材と金属が砕け散る音が派手に響いた。




聖女の顔に、影が落ちる。


「……え……あ……」


見上げた先に立っていたのは、鬼人。


肩には、常識を逸脱した大きさにまで膨れ上がった大鉈を担ぎ、その刃からは赤黒い稲妻が静かに漏れ落ちている。


今度こそ――

二人を隔てるものは、何もない。


死が、すぐそこまで来ていた。


エメラルド色の瞳に、この時初めて“恐怖”の色が浮かぶ。


喉がひくりと鳴る。


呼吸の仕方を忘れたように、胸が浅く上下する。

背中を冷たい汗が伝い、指先から血の気が引いていく。


「さて……言い残すことは?」


ロイスの身体から溢れ出す赤黒いオーラが空気を歪め、

黒い瞳は、底なしの漆黒へと沈んでいく。


それを見た瞬間、ユディの身体がびくりと跳ねた。


「……あなた、一体、誰?」


「は?」


一瞬、ロイスの眉が跳ねる。


「おいおい、イヴァンと同じこと言ってんじゃねえよ。あんたもボケたか?」


肩をすくめ、吐き捨てるように続ける。


「まあいい。――で、言い残すことは?」


「ま、待って! お願い、話を聞いて欲しいの!」


必死に縋るその姿は、

先ほどまで世界を盤上に見下ろしていた“聖女”のものではなかった。


ただ死を恐れて震える、どこにでもいる一人の少女にすぎなかった。


「はぁ......」


ロイスは一拍置き、大鉈を元の大きさへと戻すと、地面へ突き立てる。


「ユディ」


「ロイス君……」


名を呼ばれた瞬間、

説得が届いたのだと勘違いしたユディの肩から、ふっと力が抜け落ちる。


ロイスは、まるで旧友に向けるような穏やかな笑みを浮かべた。



そして。



その笑みのまま、右手をゆっくりと握り締める。


骨が軋み、空気が震えた。


「最初に言ったろ」


低く、はっきりと。


「お前を――ぶん殴るって」


「!? まっ――」


言葉は、最後まで形にならなかった。


瞬きをする暇すらなく、


ロイスの全力の拳が、聖女の顔面を真正面から撃ち抜いた。

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