18. 宣戦布告
「……」
フェイルーンはただ黙って、机の上の光景を見つめる。動揺を顔には出さずすべてを冷静に受け止めていた。
「ぬぅ……」
ノア王は手をわずかに震わせ杖を握り直す。己に長年仕えてきた者の腕前を思い浮かべながらも、今目の前で起きていることに、言葉を失う。
「聖女様!それ……」
ジーナは握った手を軽く開き、円卓に置く。思わず膝を少し引き、緊張で肩を震わせながらも目は聖女に釘付けだった。
王都の中心にそびえ立つ城、王宮。その最上階、来客室に用意された空間では、この後始まるであろう生誕祭に向けて静かに準備が進められていた。
しかし、その穏やかな時間は突如として断ち切られた。
聖女の手元には、粉々に砕け散った白い塔の駒が転がっている。
それが意味するところはたった一つ――ヴァイス・シャッハ“塔”の敗北。
予想だにしなかった出来事に、聖女を除く五人の顔には困惑と緊張が入り混じった。目を見開き、唇をかみ、互いに一瞬だけ視線を交わす――その空気には言葉では表せない重みがあった。
「イヴァンが負けたみたいだね」
ユディは手元の砕けた駒を軽く指先で弄りながら、いつも通りの落ち着いた調子で呟いた。眉間の皺もなく、表情には微かな興味すら感じられる。
「やはり、先ほどの一時的な魔素の消失は、彼の仕業だったのですね」
隣に座るエルダーは顎に手を当て、慎重に言葉を選ぶように呟く。眉間に皺を寄せ、視線は砕けた駒から逸れない。
イヴァンの敗北により、ユディの祝福“盤上ノ遊戯”の契約は自動的に解除される。
強力な力を手にする代償として、一度契約が切れた者は、生死を問わず二度とその力を手にすることはできない。
「あーあ、お気に入りだったんだけどね。やっぱりこうなったか」
部屋の中心に置かれた円卓に肘をつき、ぷくーっと頬を膨らませるユディ。表情は軽やかだが、目は冷静に状況を見極めていた。
その対面に座るノア王は腕を組み、砂になった塔の駒をじっと見つめる。長年傍で見守ってきたイヴァンの敗北をまだ心が受け入れられず、視線にわずかな震えが混じる。
「まさか……イヴァンが……」
ノア王は唇を噛み、かすかに震える声で呟いた。王都騎士団団長としてのイヴァンの実力を思い、信じたくない気持ちが滲む。
ジーナはユディの前に紅茶を置くと、肩の力を抜かず背筋を伸ばして立った。目線は短く伏せるが手足の動きには迷いがなく、決して感情に振り回されてはいない。目の奥に微かに影が差すのは、愛着の残滓だろう。しかしその影はすぐに消え、団長としての覚悟と聖女への忠誠が表面を支配していた。
彼女はユディの前に湯気の立つ紅茶を置き、手元を整えると軽く一礼した。
「ありがとう。……もっとも、結果は最初から分かっていたけれど」
ユディは平然と答え、手元の駒を指先でくるくると回す。
「それなら、どうしてあの二人を戦わせたの? 一人で行かせる必要はなかったでしょう」
王妃の声が、張りつめた部屋に落ちる。
ユディはその問いに、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。答えは返さず、視線を手元の盤へと落とす。
砕けた駒を指先で転がしながら、何かを確かめるように。
そのとき、中央通りからざわめきが漏れ聞こえた。
「聖女様! あれを!」
最初に反応したのはジーナだった。彼女は素早くバルコニーに駆け寄り、視線を外に向ける。
次いで他の面々も次々とバルコニーに出た。
「……来たか」
「ほう、随分と派手だな」
生誕祭で賑わう中央通りは、相変わらず人で溢れている。
だが次の瞬間、ざわめきは潮が引くように収束し、無数の視線が自然と一点へ吸い寄せられていった。
中央通りの入り口――
そびえ立つ大門の上に、ひとりの男が腰を下ろしていた。
灰色のインナーの上から、夜を切り取ったような黒のローブを羽織り、背には人の背丈を超える大剣を無造作に背負っている。
腰まで伸びた銀髪が風に揺れ、陽光を受けて冷たい光を放っていた。
その姿は、祝祭の喧騒から完全に切り離された異物。
にもかかわらず、否応なく視線を引き寄せる存在感があった。
「あの人って……ロイス様?」
「副団長の?なんであんなところに……」
囁きはやがてざわめきへと変わり、好奇と警戒が入り混じった空気が、中央通り全体へと静かに広がっていく。
門の上で、ロイスはポケットから小型の拡声器を取り出した。
電源を入れた瞬間、掠れた機械音が短く鳴り響く。
それを合図にしたかのように、中央通りを満たしていた生誕祭の喧騒はぴたりと止んだ。
楽しげだった人々の表情が凍り、口元を押さえて互いに顔を見合わせる。
小声で囁き合う者。
シャッターを切る手を止め、カメラを構えたまま息を詰める記者たち。
誰一人として、門の上にいる男から視線を外せなかった。
ただ腰掛けているだけだというのに、
ロイスの鋭い眼差しは群衆を見下ろし、空気そのものを支配しているかのようだった。
やがて、完全な静寂の中。
ロイスは拡声器を口元へと寄せ、ゆっくりと口を開く。
「――テステス。ごきげんよう、皆様」
その声は通り全体に、まるで重く響く鐘のように届いた。群衆の視線はさらに一点に集中する。ざわめきの残り火が微かに揺れる中、人々は息を呑む。
「ご存知の方も多いでしょうが、私は王都騎士団副団長、ロイス=ヴァルフリートです」
その名が告げられると、中央通りのあちこちでざわめきが走った。
「ロイス副団長……?」
「本物だよな……?」
「なんで門の上に……?」
「騎士団の制服じゃないぞ?」
驚きはあれど、恐れはない。
むしろ、戸惑いと困惑――そして拭いきれない違和感。
「生誕祭の日に、何かあるのか……」
「いや、あの人が無茶をするとは思えないが……」
人々は互いに顔を見合わせながらも、視線を逸らさなかった。
彼は信頼されている。だからこそ、胸騒ぎがする。
やがて、ざわめきは自然と静まっていく。
門の上から響くロイスの声には、
かつて人々を率い、背中で安心を示してきた男の重みがあった。
誰もが口を閉ざす。ロイスの声には、人々の心を掴み離さない、圧倒的な力があった。
「ここ数日、私はとある依頼を受け、秘密裏に調査をしておりました。内容は、少年少女達の行方不明事件についてです。噂を耳にした方も、少なくないでしょう」
通りのあちこちで、互いに小声で顔を見合わせる人々。心当たりがあるのか、ざわめき混じりに話し合う声がちらほらと聞こえる。だがロイスは一切気にせず、声を落とすこともなく続けた。
「そして、調査を続けるうちに、つい先日、魔導開発局局長――ガレノスという男がこの事件の主犯であることが判明しました」
その瞬間、中央通りは騒然となった。人々は驚き、互いの顔を覗き込み言葉を失う。この王都を支える重鎮に、そんな影が潜んでいたとは思いもよらなかったのだ。
疑念を抱く者、否定する者、そして受け入れる者。三者三様の反応が一斉に入り混じる。記者たちのカメラのシャッター音が、微かにその緊張を刻む。
ロイスはその様子を見下ろし、わざとらしく肩をすくめると、片手を上げて制した。
「はいはい、そこまで」
指先で空気を押さえつけるような仕草。
ざわめきが完全には消えないまま、彼は口角を少しだけ上げた。
「お静かに。盛り上がっているところ、申し訳ありません」
そう前置きしてから、胸元に手を当て、軽く一礼する。
どこか舞台役者めいた、計算された動きだった。
「ですが、最後まで聞いてください」
一拍置き、今度は人差し指を立てる。
「色々と調べた結果です。証拠だってあります。ガレノスだけじゃない。聖教会全体が――ほとんどまっ黒」
ざわり、と空気が揺れる。
ロイスは両手を広げ、あえて困ったように眉を下げた。
「皆様が楽しみにしていた生誕祭に水を差すつもりはありません。私自身、楽しみにしていただけに、正直心苦しい」
だが、その声には迷いはない。
「――しかし」
ゆっくりと手を下ろし、群衆を指差すように前へ突き出す。
「見逃すわけにはいきません」
王宮の後方、少し高い位置からその声は通りに響く。空気がピリリと張りつめ、一部の実力者たちは顔を強張らせた。
ロイスは右手を高く掲げ、鋭く指を前方の通りに突き出す。後方から指差すその姿は、まるで全てを見下ろす天上の審判のよう。群衆の視線は自然とその指先に引き寄せられ、静寂が通りを包む。
「そこに立っている諸君――いや、聖女率いる犯罪者ども、よく聞け」
王宮の後方に立つ聖女たちは、指先の緊張感に微動だにせず、鋭く視線を返す。群衆の胸の奥にまで突き刺さるような光景だった。
「俺は逃げる気はない。隠れるつもりもない」
肩をすくめ、吐き捨てるように続ける。
「あの女が玉座に座っていようが関係ない。一歩ずつ踏み越えて、壊して、引きずり下ろす」
低く笑う。ロイスの視線が王宮の奥を射抜く。
「俺の命がどうなろうと構わない。その前に必ず、あの女の仮面を剥ぎ、罪を白日の下に曝してやる」
一瞬の沈黙が落ちる。
ロイスは口元を歪め、牙を覗かせた。
「勘違いするなよ。これは忠告じゃない」
天に掲げた右手を、ゆっくりと握り込む。
そして一本だけ、指を立てた。
王宮のバルコニー――聖女のいる方向へ、迷いなく。
「宣戦布告だ」
指先が、わずかに揺れた。
それは恐れではなく、昂ぶりの震えだった。
「止められると思うなら――」
中指を立てたまま、ロイスは嗤う。
「総出で来い。聖女、ヴァイス・シャッハ、聖教会、王都――」
一拍。
「全員だ」
通りに、ざわりとした衝撃が走った。
「なっ……! ロイス様、正気ですか!」
「相手は聖教会だけじゃありません……王都騎士団も、完全に敵に回しますよ!」
「俺たちの……居場所まで、全部捨てるつもりなんですか!」
「今なら、まだ引き返せます……!」
必死に食い下がる声が、門の下から突き刺さる。
だがロイスは止まらない。
そのすべてを背中で聞き流し、ゆっくりと立ち上がった。
肩を回し、首を鳴らす。
まるでこれから稽古場に入るかのような、気負いのない動作。
そして、低く――だがはっきりと言い捨てる。
「……ああ。分かってる」
ロイスは門の縁に立ったまま、視線だけを下へ落とす。
「聖教会も、王都も」
言葉をそこで切ると、通りに張り詰めた空気が落ちた。
誰かが息を呑む気配が、微かに広がる。
「この先、俺の前に立つなら――区別はしない」
喉の奥で、小さく息を鳴らす。
「敵だ」
その一言が、石畳に叩きつけられたかのように残る。
そして、口元を歪める。
「だから何だ?守るために振るってきた剣が、
最初から“間違った相手”に向いてたってだけだろ」
その言葉が、決定打だった。張り詰めていた空気が、音を立てて崩れる。
「聖女様……嘘ですよね?」
「ノア王! どういうことなんですか!」
「説明を……今すぐ説明してください!」
群衆の声は波のように膨れ上がり、疑念が疑念を呼んで広がっていく。
名もない探索者の告発であれば、ここまでにはならなかっただろう。
だが相手は、王都騎士団副団長――ロイス=ヴァルフリート。
その名と実績が、疑念に現実味という刃を与えていた。
ざわめきはやがて、不安と期待が入り混じった重苦しい空気へと変わっていく。
しかし、当の本人達は注がれる無数の視線に、一切動じることなく直立していた。
やがて、聴衆を見下ろすように――聖女が一歩、前へ出る。
金の髪が風を受けて揺れ、降り注ぐ陽光が彼女を照らし出す。その姿は、まるで最初から用意されていた舞台に立つ“聖女”そのものだった。
人の域を超えた存在感が場を制圧し、先ほどまで渦巻いていたざわめきは、嘘のように静まり返る。
ユディはジーナから拡声器を受け取り、ためらいもなく起動した。
「皆様。今の一連の話は、事実無根――荒唐無稽な虚言です」
よく通る澄んだ声が、中央通りの隅々まで響き渡る。
「そこにいるロイス=ヴァルフリート氏は、私の大切な部下であるガレノスを殺害しました。そして今、その罪を我々聖教会に擦り付けようとしているのです」
「ハッ……よく言うぜ」
門の上から、ロイスが低く吐き捨てる。
ユディは一切取り合わず、淡々と続けた。
「本来であれば、彼を拘束するため皆様のお力をお借りしたいところですが……ご覧の通り、彼は王都騎士団長イヴァンをも打ち破るほどの実力者です」
その名が出た瞬間、群衆に走るどよめき。
「これ以上、無用な犠牲を出すわけにはいきません」
知らぬ間に起きていた“敗北”と“裏切り”。
一気に突きつけられた現実に、会場は再び騒然となっていった。
しかし聖女は、広がる不安と疑念を受け止めるように、群衆へ穏やかな微笑みを向けた。
そして両手を静かに前へ差し出す。掌を天に向ける、その仕草はあまりにも自然で、祈りにも、命令にも見えた。
その瞬間、空気がぴんと張り詰める。
彼女の掌の上に、青白く揺らめく五つの光の駒が、音もなく浮かび上がった。
淡い輝きは柔らかく、それでいて鋭く、中央通りの隅々にまで行き渡る。
ざわめいていた人々は、言葉を失い、ただその光を見上げることしかできなかった。
聖女は穏やかな微笑みを崩さぬまま、静かに言葉を紡いだ。
「祝福――盤上ノ遊戯」
言葉が落ちきると同時に、掌の上に浮かんでいた五つの光の駒が、役目を終えたかのように静かに消える。
わずかな静止。
次の瞬間、天を裂くように細長い光の柱が降り注いだ。
聖女の背後に控えていた五人を、正確無比な位置取りで包み込む。
それは単なる光ではない。
神々の裁きを思わせる冷ややかな威光。
柱が脈打つたび、大気は震え、空の奥で低い轟きが反響する。
闇の影すら退かせるその輝きに、群衆は息を呑み、誰一人として声を上げられない。
――まるで、
天上の意思が盤上へと駒を進めたかのように。
「どうか、ご心配なく。あの反逆者は私たちが必ず迎え撃ちます」
光の柱から姿を現した五人は、純白の鎧に身を包んでいた。王、王女、僧正、騎士、歩兵――それぞれの鎧は完全無欠で、隙間ひとつなく全身を覆い、神秘的な輝きを放つ。鎧の曲線や模様は光を反射し、五体が放つ存在感は、もはや単なる人間ではなく、聖なる戦士の化身そのものだった。
その圧倒的な威圧はただ立つだけで通りの空気を変え、誰もが言葉を失い心の奥底で畏怖の念を覚える。
光と存在感に支配された瞬間、群衆の動きは止まり、世界が一瞬、聖女の盤上と化したかのように感じられた。
聖教会最高戦力――ヴァイス・シャッハが、その長き秘密のベールをついに脱いだ。
ロイスが作り出した濁った空気は、光と存在感に押し流される。群衆は息を呑み、誰もが完全に聖女とその眷属たちに心を支配されていった。
「あー……やっぱ、あんたらが残りのヴァイス・シャッハか。
薄々は分かってたけどさ……実際に見ると、さすがに来るもんがあるな」
ロイスは目を閉じる。
脳裏に浮かぶのは、かつて自らが仕え、命を賭して守ろうとしたこの王都の姿。
拾ってくれた街――疲弊した自分を受け入れてくれた居場所。
信じて、支えてくれた人々。守るべき者たちの笑顔。
王都騎士団として、この国のために剣を振るい続けてきた日々。
副団長に任命されたあの瞬間の誇りと歓喜。
団長である義父と肩を並べ、何があってもこの国を守り抜く――誓いを立てた自分。
だが、その先に待っていたのは、あまりに冷たい裏切り。
もしあの頃のロイスのままだったなら、
抗うこともできず、真実に辿り着くこともなく、
ただ静かに潰えていたに違いない。
だが、今は違う。
抗う力がある。
この世界の不条理に、真正面から刃を突き立てる力がある。
カチリ、と。
心の奥で何かが静かに切り替わる音がした。
過去との決別。
戻れない場所へ、足を踏み入れる合図。
ゆっくりと目を開く。
そこにかつての光も、かすかな希望もない。
ただ深く、底知れぬ闇が広がる――深淵そのものの瞳。
ロイスは首を一度、鋭く鳴らした。
次の瞬間、重力に身を委ねるように背中から飛び降りる。
落下の最中、言葉を紡ぐ。
それは天に選ばれた者だけが行使できる、禁忌の力。
「祝福――怨嗟ノ鬼」
闇が爆ぜるように、ロイスの全身を覆った。
黒い気流が周囲の空気を裂き、風と共に蠢く闇が彼を中心に渦を巻く。
額からは黄金色に鈍く光る角が裂けるように生え、背から抜き放たれた大剣は禍々しい大鉈へと変貌する。
刃の輪郭からは底知れぬ闇が滲み出し、周囲の光を吸い込むかのような圧倒的存在感を放つ。
銀髪は一房に束ねられ、闇と共に空中で舞う。その視線は一点に鋭く定まり、重力さえ拒むかのような凛々しさを宿す。
地面へ落下する瞬間、空気が押しのけられ風が巻き上がる。
足先が石畳に触れると、瓦礫と砂塵が爆ぜ、粉塵が渦を巻きながら舞い上がる。
衝撃波は通りを震わせ、群衆は息を呑む――その中心に、鬼人となったロイスが立つ。
瓦礫が宙を舞い砂埃が光を遮る中、彼はゆっくりと顔を上げた。
「そこで待ってろ、ユディ=ポルガーノ。――すぐ行く」
開戦。




