16. 怨嗟の鬼
「あ?」
白。
白、白、白。
上下も奥行きも判別できない、圧倒的な“無”。
ロイスが視線を巡らせても、距離という概念そのものが存在しなかった。
足裏には、確かに地面の感触がある。
だが、硬さも冷たさも感じられない。
重力すら、どこか曖昧で、現実味を欠いていた。
風は吹かない。
音もない。
自分の心臓が刻むはずの鼓動さえ、ロイスの耳には届かなかった。
「……は?」
喉から漏れた声はやけに軽く、
次の瞬間には白の中へ溶けるように消えていく。
――生きている。
そう結論づけた瞬間、
それを否定する違和感が、背筋を這い上がった。
ロイスは確かに覚えている。
イヴァンの一撃が胸を貫いた感触。
血が溢れ、視界が暗転していった、あの確かな死の実感を。
それなのに――
彼の身体は、完全だった。
痛みも、傷も、裂けたはずの痕跡すら残っていない。
「……夢、か?」
無意識に零れた呟き。
だが、夢にしては感覚が鮮明すぎる。
白は、逃げ場のない現実として、そこに在り続けていた。
「やぁ、初めましテ。アナタに会えて嬉しいですヨ」
声だけが、背後に“置かれた”。
空気を震わせるでもなく、
耳元へ直接流し込まれたかのような、不快な距離感。
ロイスの肩が、わずかに強張る。
「っ――!」
ロイスは反射的に振り向き、背中の剣を探した。
だが、そこにあるはずの重量がない。
視線の先。
白い椅子に、いつの間にか“それ”は座っていた。
振り向いたロイスの視界に映ったのは、一人の人物だった。
白い椅子に長い脚を組み、くつろいだ様子で腰掛けている。
上下は真っ白なタキシード。手には同じく白いティーカップ。
まるで、この白の世界に溶け込むためだけに用意された存在。
――だが、顔だけが認識できない。
霧のような靄がかかり、どれだけ目を凝らしても輪郭すら掴めなかった。
視線を合わせようとするほど、思考の焦点がずれていく。
「名乗るような名は無いのですガ……便宜上、案内人とでも呼んでくださイ」
中性的な声。
年齢も性別も判別できず、その曖昧さが生理的な不快感を呼び起こす。
ロイスは思わず舌打ちし、相手を睨みつけた。
「質問に答えろ。俺は確かに死んだはずだ」
その瞬間だった。
ロイスの背後に、音もなく白い椅子が現れた。
いつの間にか“そこに在る”としか言いようのない、不自然さ。
言葉も身振りもない。
だが、座れと言われていることだけは、はっきりと理解できた。
ロイスは舌打ちを噛み殺し、背もたれのない簡素なパイプ椅子に腰を下ろした。
「そうですネ。つい先ほど――いや、アナタの世界で言えば、
確かに出血死によって命を終えていまス」
淡々と告げられる。感情の介在しない宣告だった。
「……なら、ここは死後の世界とでも言うのか」
「そんなもの信じてるんですカ?案外、可愛いところもあるんですネ」
案内人は肩をすくめる。
その仕草ひとつひとつが、わざとらしく軽い。
ロイスは黙ったまま、視線を逸らさなかった。
苛立ちが、静かに腹の底で渦を巻く。
「ここは“白キ領域”。選ばれた者だけが訪れる権利を得る、高尚な場所でス」
さらりと、特別であることを強調する。
「尤も――ごく稀に、迷い込んでくる輩もいますガ」
はた迷惑な話ですヨ、と付け加えながら、
案内人は再びティーカップに口を付けた。
「……選ばれた者、だと?」
低く、探るような声。
「そうでス!君のことは、ずっと前から目を付けていたのですヨ」
案内人は愉快そうに続ける。
「私の直感では、彼らになかなか需要が有りそうな気がしましテ」
意味深な言い回しと共に、カップが白い机へ置かれる。
次の瞬間。
指が軽く打ち合わされ、
乾いた音が、何もない空間に染み渡り、
すう、と。
カップが、最初から存在しなかったかのように消えた。
そして――
案内人の背後に、
音も、予兆もなく、
巨大な白い本棚が“在っていた”。
その高さは、頂上が霞んで見えるほど。
隙間という隙間を埋め尽くすように、
白い本が、無数に並んでいる。
「……な」
思わず、ロイスの口から声が漏れた。
現実感を拒む光景。
だが、この白の世界では、
それが異常であるという確信すら揺らぐ。
案内人は、その反応に満足したように一度頷き、
ゆっくりと姿勢を正した。
「これは、様々な世界の物語でス」
白い本棚を示しながら、語る。
淡々と、しかし誇らしげに。
「探索者、騎士、奴隷、魔導士、傭兵、勇者......。
異なる理が支配する数多の世界で、懸命に足掻き、戦う者たチ。役割も、立場も、世界も違ウ。
しかし――どれも紛れもない“本当の話”でス」
ロイスが言葉を失ったまま本棚を見上げている間も案内人は続ける。
「この本一冊一冊が、
人知れず、最後まで奮闘した彼らの存在証明」
一拍、間を置いて。
「奇しき伝説。語り継がれし魂の偏執。
私たちは、これらを敬意を込めて、こう呼びまス」
“異世怪奇譚”
その言葉だけが、白キ領域に残響のように漂う。
壮大で、抽象的で、どこまでも要領を得ない話。
置き去りにされたままのロイスの感情だけが、じわじわと苛立ちを増していく。
ロイスは、ため息交じりに視線を逸らした。
「……で。結局、お前は何が言いたいんだ」
ロイスは吐き捨てるように言った。
突拍子もない話だ。
白キ領域、異世怪奇譚、選ばれた者。
目の前の存在が何者なのか、自分がなぜ呼ばれたのか――
何ひとつ、腑に落ちない。
ここはどこだ。
真っ白な空間。
夢にしては、感覚があまりにも鮮明すぎる。
無意識に、太腿を強く抓る。
鈍い痛みが、確かに返ってきた。
――現実、だ。
選ばれた者だけが訪れる権利を得る、高尚な場所。
その言葉が、
思考の奥に、引っかかる。
「……選ばれた、者」
口元に手を置き、小さく呟いた瞬間、
ロイスの動きが止まった。
どこかで、聞いた。
いや、聞かされた。
視界の端で、案内人が面白そうにこちらを眺めている。
その視線を意識的に無視し、ロイスは記憶の底へと沈んでいく。
――あれは、確か。
脳裏に蘇るのは、
鈴を転がすような、あの憎き女の声。
『ある日突然、何者かに導かれるみたいに力に目覚めて』
『最初から、自在に使いこなせる能力』
『その能力を“祝福”と呼び――使用者を――』
「……選定者」
言葉が、自然と口を突いた。
次の瞬間。
ロイスは、はっと顔を上げ、椅子を蹴って立ち上がっていた。
「大・正・解!」
案内人も同時に立ち上がる。
楽しげに、両手を打ち鳴らした。
パチ、パチ、パチ。
乾いた拍手の音が、
白の空間に、不気味なほどよく響いた。
「ええ、全くその通リ!漫画でよくあるパワーアップイベントでス!」
「……は?」
ロイスの眉が、露骨にひそめられる。
「まんが? なんだ、それ」
「おっと、失礼。つい興奮してしまいましタ」
案内人は咳払いをひとつ。
「他の世界の言葉でしタ。こちらで言うところの――物語、ですネ」
軽い仕草でそう言うと、案内人は再び白い椅子に腰を下ろす。
それにつられるように、ロイスも椅子へと戻った。
「既にご存じかとは思いますガ……アナタの世界には、選定者と呼ばれる者たちが複数存在しまス」
一拍。
「因縁のある聖女などは、分かりやすい例ですネ」
ロイスは黙って頷いた。
否定の余地はない。
「彼らは“祝福”と呼ばれる異端の力を、それぞれの目的のために振るっていまス」
案内人は、ゆっくりと背後を振り返る。
白の空間にそびえる、巨大な本棚。
無数の白い本。
「その圧倒的な力の源が、ここにありまス」
指先が、棚をなぞる。
「あらゆる世界で、無限に紡がれてきた異世界奇譚」
「その中から、アナタに“適合する力”を見つけ出せたなラ」
わずかに、声が弾む。
「晴れて、アナタも選定者となル」
愉快そうな笑い声。
だが、その表情は相変わらず霧に覆われ、ロイスには見えない。
ロイスは一拍置き、低く言った。
「……要するに、俺を、その“選定者”に仕立てるつもりなんだな」
イヴァンとの戦い。
力を渇望した、あの瞬間。
だが――あまりにも都合が良すぎる。
胸の奥に、きな臭い予感が燻る。
「その通リ!……と言いたいところ、ですガ」
案内人は大げさに肩を落とした。
「先程から申し上げている通り、私はあくまで案内人。悩める人々を招き、導くだけの存在でス」
「さっきから何が言いたいんだ。回りくどい言い方はやめろ」
「ふム。そろそろよろしいでしょウ」
その瞬間、案内人の軽薄な空気が霧散した。
白キ領域を満たす空気が、突然、重く、圧し掛かる。
ロイスの背筋を、一瞬で凍りつかせるほどの――存在感。
イヴァンや聖女の放つ威圧感など、比ではなかった。
「ッ!」
思わず息を呑む。
しかし案内人は一切微動だにせず、ただ姿勢を正し、低く声を響かせた。
「汝、いかなる力を欲し、その力で何を成ス」
目の前の人物から放たれる“格”。
それは言葉以上の説得力を持ち、自然とロイスに畏怖を抱かせる。
膝をつきそうになりながらも、ロイスは過去の記憶を次々と思い出す。
霊脈の森で、仲間を見殺しにしたあの日。
修練場でダンに敗北した時。
聖教会地下で、聖女を取り逃がした夜。
そして、つい先ほど――イヴァンに殺されたあの瞬間。
力があれば。
己は毎日、限界を超えるほど剣を振った。
他の探索者の動きを盗み、イヴァンという王都随一の騎士に従事した。
限界まで己を追い込んだつもりだった。だが結果は、この有様だ。才能の欠片すら感じられない自分に、呆れるしかなかった。
「……そもそも、俺は一体何をしたんだろう」
小さな村で生まれ、平凡に育っただけの自分。
少し人より優れていただけで、調子に乗って探索者になったことは間違いだったのか。
何故、こんな目に遭わねばならない。
いつからこんなに、くだらないことで悩むようになったのか――昔の自分は、もっと素直だったはずなのに。
「うぜぇ」
ロイスの口から、自然に言葉が零れた。
「ムカつくんだよ、何もかもが。俺を見下すあいつらの目がうぜぇ。
お前じゃ無理だと、決して勝てないだろうと侮るあの顔がうぜぇ」
どろり、と、怨嗟が濃く流れ込む。
イヴァンとの戦闘をきっかけに、緩んだ蓋は戻ることはない。
根底に溜まった黒が、今、完全に顔を出す。
顔を上げるロイスの視線は、もはや案内人の圧力など恐れていなかった。
「案内人」
「なんでしょウ」
「俺が欲するのは――全てを破壊する力だ。
その力で、理不尽なこの世界の不条理に復讐する。これが、俺の答えだ」
その言葉とほぼ同時に、背後の本棚がガタガタと震え始め、白キ領域全体も地鳴りのように揺れた。
だが二人の視線は、微動だにせず絡み合う。
やがて揺れが徐々に収まると、本棚の間から一冊の本が宙に浮かび、ゆっくりと回転しながらロイスの元へと降りてきた。
手に取った白い本。黒字で浮かび上がる文字が、ロイスの目に飛び込む。
――"怨嗟ノ鬼"
元の軽薄な雰囲気に戻った案内人は、すぐ隣で静かに覗き込むように本を見ていた。
無視して本を開こうとするロイスの手を、案内人は軽く上げて制した。
「一つだけ忠告ヲ。アナタは確かにこの方のお眼鏡に叶いましタ。しかし、本番はこれからでス。
実際に対面して気に入られなかった場合、この場所に関する記憶を全て失い、現世に戻ることになりまス。
傷に関しては特別サービスで完治した状態にしておきますが、混乱したアナタは再びあの男に敗北するでしょウ。
それだけは覚悟しておいてくださいネ」
ロイスは一瞬、視線を落とす。
だが胸の奥で煮えたぎる決意が、声となって口をついて出る。
「はっ、下らねえ。何があろうと俺は自分の感覚に従って行動する。もう悩むのは止めだ」
言い切った瞬間、周囲の空気に小さな静寂が落ちた。
案内人は軽く頭を下げ、ゆっくりと一歩下がる。
「おや、いらぬお節介でしたカ。失礼しましタ。
それでは、ロイス=ヴァルフリート様。アナタが無事に戻ってくることを祈っておりまス」
モヤの向こうの表情は依然として不明だが、真剣な視線だけが確かにロイスに向けられている。
「……ふん」
鼻を鳴らしたロイスは、手にした本へ目を落とした。
決意を込め、ゆっくりとページをめくった。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
異世界№2456352726372726
『怨嗟ノ鬼』
その世界では、かつて鬼とヒトが協同して暮らしていた。
鬼は力を。
ヒトは知恵を。
互いの不足を補い合い、村は静かに、しかし確かに繁栄していた。
だが、その日常はあまりにも容易く、無残に打ち砕かれる。
狩りを担う鬼たちが村を離れていた、その僅かな隙に。
村に残っていた鬼たちは一人残らず殺されていた。
女子供も例外なく。
抵抗する力すら持たない者たちが、皆。
異変を察して戻った鬼たちが、ヒトへ詰め寄る。
理解できなかった。
何が起きたのか。
なぜ、こうなったのか。
だが、答えは言葉ではなく、向けられた“武器”だった。
無数の鉄の筒。
鬼たちが初めて目にするそれは、“銃”と呼ばれていた。
ヒトたちは平然と口を開く。
理由は特にない。
ただ、邪魔だっただけだと。
体格の大きな鬼は、ヒトの何倍も食う。
そのせいで被害を受けるのは我々ヒトだ――そう声高に訴える。
理解できなかった。
確かに鬼は多くを食らう。
だが、その食糧を調達していたのは、他ならぬ鬼自身だった。
その事実を突きつけると、ヒトたちは鼻で笑った。
これまでは仕方なく協力してやっていただけだ。
今は違う。
この銃があれば、鬼の力など必要ない。
ならば、せめて言葉で告げてくれればよかった。
不満はあれど、いずれは村を去っただろう。
だが、ヒトは選ばなかった。
彼らは同胞を、女子供を含めて、皆殺しにしたのだ。
激昂した鬼たちは雄叫びを上げ、突撃した。
だが結果は惨敗だった。
見たこともない鉄の筒から放たれる火と音により、
鬼たちは次々と倒れ、淘汰されていく。
やがて一人を残し、全ての鬼が息絶えた。
焦げ臭い匂いが村を覆う中、
生き残った鬼は、大粒の涙を流した。
この時、心優しかった鬼は、完全に絶望した。
復讐を誓った。
当初、ヒトたちは余裕の表情を浮かべていた。
だが、弾を撃ち尽くしても倒れない相手を前に、
次第に恐怖を抱き始める。
全身に穴を穿たれ、
片眼を失いながらも、
鬼は倒れなかった。
――否。
むしろ、力を増していった。
同胞達の憎しみを力に変えて。
一人、また一人と命を刈り取り、
やがて鬼は、村のヒトを全て殺し尽くした。
泣き叫ぶ者にも、縋る者にも、
一切の容赦はなかった。
騒ぎを聞きつけ、駆けつけた他の村のヒトも、
例外なく返り討ちにされた。
やがて、誰も来なくなった。
その後、鬼は自ら城を築き、
ひっそりと暮らしたという。
たった一人で。
世界を、ヒトを、
そして己自身を恨み続けながら。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
――……。
最後の一行を読み終えた瞬間、
ロイスはしばらく、ページから視線を離せなかった。
喉が、わずかに鳴る。
だが、言葉にはならない。
胸の奥に、何かが沈殿していく感覚だけがあった。
世界を恨み、
ヒトを恨み、
それでも生き続けた、たった一人の鬼。
理不尽に始まり、理不尽に終わった物語。
救いも、赦しも、結末すら存在しない。
――それなのに。
不思議と、理解できてしまった。
「……こわっ」
ようやく零れたのは、
感想と呼ぶにはあまりにも軽い一言だった。
だがその声は、かすかに震えていた。
ページの向こうに描かれていたのは、
怪物の物語ではない。
追い詰められ、
奪われ、
選び続けた末に“そうなるしかなかった存在”。
それが、はっきりと伝わってくる。
ロイスは、無意識のうちに本を強く握りしめていた。
まるで、手放せば自分の中の何かまで零れ落ちてしまうかのように。
――その瞬間。
白い本は、音もなく霧散した。
灰すら残さず、最初から存在しなかったかのように。
ロイスは、ゆっくりと手を開く。
空っぽになった掌を見つめながら、
胸の奥に残った“重み”だけが、
それが夢でも幻でもなかったことを告げていた。
次の瞬間だった。
白が、崩れた。
ひび割れるような前兆はない。
音も、揺れも、光の変化すらなく、
ただ「白であること」そのものが意味を失った。
気づけば、ロイスは立っていた。
――夜。
頭上には、赤い月。
血のように濃い色を宿した満月が、空の中央に鎮座している。
その下に広がるのは、城だった。
巨大な和風の城郭。
黒を基調とした壁に、金の装飾が静かに光を反射している。
威圧ではない。
誇示でもない。
ただ、在るべき場所に在る――
そんな不自然な“自然さ”。
城を囲むように、桜が咲き誇っていた。
季節外れの満開。
風に揺れ舞い落ちる花弁は、淡い桃色ではなくどこか血色を帯びて見える。
さらさらと流れる小川。
澄んだ水音に混じって、間を置いて鳴る鹿威し。
――こん、と。
乾いた音が、やけに耳に残った。
「……」
ロイスは、言葉を失ったまま景色を見渡す。
恐怖はない。
驚愕も、警戒も、後から追いついてくる程度だった。
それよりも先に、
胸の奥が、妙に静かだった。
ここが、
あの物語の続きであることを。
ここが、
“怨嗟の鬼”の終着点であることを。
理屈ではなく感覚が理解していた。
「……これを一人で、か」
誰に向けたとも知れない呟きが、夜気に溶ける。
この広さ。
この完成度。
この静寂。
たった一人で、世界を恨み続けた末に辿り着いた場所。
その時。
ぎい……と、
城門が、ゆっくりと開き始めた。
誰の手も見えない。
合図もない。
だが、はっきりと分かる。
――来い。
そう告げられている。
ロイスは、口元をわずかに歪めた。
恐怖からではない。
笑みとも、嘲りともつかない表情。
「……せっかちだな」
そう呟き、彼は一歩城内へと足を踏み入れた。
内部へと足を踏み入れた瞬間、ロイスは言葉を失った。
壁も柱も、深い闇を思わせる黒で統一されている。
だがその表面は光を拒むのではなく、磨き上げられた黒曜のように、淡く、静かに輝いていた。
随所に施された金の装飾は、ただ貼り付けられたものではない。
蔦のように、あるいは古い紋章の連なりのように、建造物そのものと一体化している。
一本一本の線に意味があり、無駄な意匠は一切見当たらなかった。
床に敷かれた石材は宝石を思わせるほど滑らかで、
一歩踏み出すたびに、靴底越しでも上質さが伝わってくる。
天井は遥か高く、支柱の一本一本が彫刻と呼べるほど精緻だ。
だが、それは王宮のように権威を誇示するためのものではない。
聖宮殿のように信仰を強制するための装飾でもない。
ここにあるのは見せるためでも、敬わせるためでもない。
存在することそのものを前提とした、圧倒的なまでの洗練。
その完成度は王宮や聖宮殿と並べて語ることすら、侮辱に思えるほどだった。
再びロイスが足を止めていると、奥の闇の中からぱたぱたと足音が近づいてきた。
次の瞬間、暗がりから小柄な影が飛び出す。
「おい貴様、いい加減にするです!主が待っているです」
甲高いが、妙に命令口調な声。
姿を現したのは、十歳前後の少女だった。
赤と金の着物を纏い、黒髪を揺らしながら腕を組んで睨みつけてくる。
「あ?」
ロイスは思わず眉をひそめる。
「……なんだお前。主人とやら以外にも住んでる奴がいたのか」
「なっ、失礼な、です!」
少女は露骨に顔をしかめ、足を踏み鳴らす。
「ヒト風情が偉そうにするな、です!ここは主の城!勝手に歩き回る場所じゃないです!」
その勢いに気圧されつつ、ロイスの視線はふと少女の額へ向かった。
――角。
小ぶりだが、紛れもない二本の角。
「……お前、鬼か?」
その一言で、空気が爆ぜた。
「お前お前うるせーです!」
少女は即座に噛みつくように叫ぶ。
「"ツムギ"には主から授かったツムギという名前があるです!以後名前で呼ぶです!」
「知らなかったんだからしょうが無いだろ。おま……」
言い直そうとして、ロイスは一瞬言葉に詰まる。
「……ツムギこそ、俺のこと貴様って呼んでんじゃねえか」
「そんなの知らないんだからしょうがねーですよ」
ツムギは肩をすくめ、さも当然といった顔で言い切る。
その態度が妙に腹立たしい。
「そもそもヒトは基本ナメていい存在です。敬語使われたいなら、それなりに態度を改めるです」
「……随分偉そうだな」
「ツムギは偉いです」
即答だった。
「お前……」
「あー!またお前って呼んだです!」
ぴしっ、と床を鳴らす勢いでツムギが一歩踏み出す。
小柄な身体を精一杯反らし、胸を張る。
「いい加減学習するです!」
「ツ・ム・ギ!三文字です!噛まずに言えるです!?」
「言えるかどうかじゃなくて、言うかどうかの問題だ」
「可愛くないこと言うです……!」
ぶーっと頬を膨らませ、じっと睨みつけてくる。
その目つきは鋭いのに、どうにも迫力が足りない。
「次に“お前”って呼んだら――」
小さな拳をぎゅっと握りしめ、
「……ほんとに、はっ倒すです」
そう言ってから、念のためと言わんばかりに付け足す。
「多分、痛いです。たぶん......」
「どっちだよ」
「そこは気持ちの問題です!」
「……ツム、ツム……」
「そこで止まるなです」
ロイスがわざとらしく言葉を濁すと、ツムギの眉がぴくりと跳ねた。
「言いかけたなら最後まで言うです!途中でやめるのが一番腹立つです!」
「いや、忘れただけだ」
「ぜっっったい嘘です!」
ツムギはじっと睨みつけ、疑うように腕を組む。
角がぴくぴくと小さく揺れた。
「……本当に忘れたなら、仕方ないです」
急に声のトーンが落ちる。ほんの一瞬だけ、視線が逸れた。
「……」
ロイスはその様子を見て、少しだけ口角を上げる。
「ツムギ」
「――!」
呼ばれた瞬間、ツムギの肩が跳ねる。
「な、なんですかです!急に普通に呼ぶの、ずるいです」
「さっき覚えろって言ったのはお前だろ」
「そうですけど……そうですけど……!」
もごもごと言葉に詰まり、最後はぷいっと顔を背ける。
「……まあ、一回目だから、許してあげるです」
「一回目?」
「次からは間違えたら即アウトです!三回アウトで主に報告するです!」
「何だその理不尽なルール」
「鬼の世界では常識です!」
「今作っただろ」
「細かいこと気にする男はモテないです」
「十歳そこそこの見た目で何言ってんだお前」
「あっ!」
またしてもツムギが振り向き、指を突きつける。
「今の“お前”もカウントしますです!」
「はいはい、ツムギ様」
「……様はいらないです」
そう言いながらも、どこか満足げに鼻を鳴らした。
そのまま二人でギャーギャーと言い合っていると、奥の闇が、ゆっくりと“形”を持った。
「……おい」
低く、腹の底に響く声。
「うるさいぞ。何を騒いでいる」
姿を現したのは、一体の鬼だった。
頭を押さえ、眉をひそめている。
背丈は、ゆうに三メートルを超える。
ツムギと同じく赤と金を基調とした着物を纏っているが布の量も質も桁違いで、動くたびに重厚な光沢を放った。
だが――
その口調とは裏腹に、顔立ちはあまりにも整っていた。
長い睫毛に縁取られた大きな瞳――その片方は、黒い眼帯に覆われている。
透き通るような肌に、眼帯の色が静かに映え、妙に様になっていた。
夜色の髪は太ももに届くほど長く、一本の乱れもなく、灯りを受けて静かに反射している。
「主!」
ツムギが振り向いた瞬間、表情が一変する。
「こいつがツムギを虐めるです!」
そう叫ぶなり、巨大な鬼の脚にひしっと抱きついた。
「……は?」
ロイスが言葉を失うより早く、鬼はため息をつく。
「ったく……どうせツムギが先に噛みついたんだろ」
「ちげーです!」
ツムギが即座に反論する。
「こいつがツムギのこと“お前”って呼ぶです!何回もです!」
「はいはい」
鬼は適当に受け流し、視線をロイスへ向けた。
「……で?」
その瞬間、ロイスは違和感を確信する。
近い。
圧が、異様に近い。
ツムギとは比べものにならない存在感。
ただ立っているだけで、空間そのものが締め付けられる。
「主……?」
思わず口をついたロイスの声に、鬼は片眉を上げた。
「ああ」
そして、にかっと豪快に笑う。
「そう警戒するな」
鬼は肩をすくめ、豪快に笑った。
「ここを治めてる鬼だ。名は"チハル"――お前が会いに来た“主”だ、ロイス」
「……」
ロイスは、言葉を失ったまま固まっていた。
女だ。
どう見ても。
だが――
先ほど読んだ“怨嗟の鬼”の物語。
世界を恨み、ヒトを皆殺しにし、たった一人で城に籠もった存在。
その像と、目の前の豪放な笑顔が、どうしても噛み合わない。
「……」
ロイスの沈黙を見て、チハルは楽しそうに目を細めた。
「その顔」
チハルは口角を上げ、面白そうにロイスを見下ろした。
「……思ってたのと、違ったか?」
その瞬間、足元から顔を出したツムギが得意げに鼻を鳴らす。
「主は、もっと怖い鬼だと思ってたです?残念でしたです!」
「......」
黙り込むロイスを見て、ツムギが甲高い声を上げる。
「おい貴様!主を無視するとは、いい度胸してるじゃねーかです!」
「あ、悪い」
ロイスは一歩前に出て、目の前の鬼に向き直った。
「ロイス=ヴァルフリートだ。……よろしく」
差し出された手を、チハルが迷いなく掴む。
その瞬間。
掌から流れ込んできた“力”に、ロイスの呼吸が詰まった。
「――っ!?」
握力ではない。
威圧でもない。
存在そのものが、格の違いを叩きつけてくる。
思わず目を見開いたロイスは、脳内で警戒度を一気に引き上げた。
――いや、それだけじゃない。
視線を走らせた瞬間、今度はツムギの方からも、先程まで気づきもしなかった圧が滲み出ているのを感じ取る。
強大。
異質。
そして――イヴァンを、遥かに上回る。
あまりにも差がありすぎて、これまで“見えなかった”だけなのだと、遅れて理解した。
初めて味わう感覚に、ロイスの背中を大量の汗が伝う。
確かに、あの胡散臭い案内人の言葉は正しかった。
今、自分の命は――目の前の鬼達の手の中にある。
ロイスなど、さじ加減ひとつで消し飛ぶ。
選択を誤れば、その先にあるのは即座の死。
理不尽なまでの力の差。
それでも。
いや、だからこそ。
ロイスが喉から手が出るほど欲していた“力”が、今、目の前にある。
世界に抗うための力が。
踏み潰される側から、踏み潰す側へ行くための力が。
どろり、と。
胸の奥で、黒い感情が滲み出す。
「……は、ははっ」
窮地だというのに、ロイスは俯いたまま笑っていた。
握手した手は、まだ離していない。
その様子を見て、ツムギが一歩引く。
「な、なんで笑ってやがるです……こいつ、気持ち悪いです……」
――だが、ロイスの笑みは、止まらない。
いつの間にか、あれほど圧迫していた威圧が、嘘のように消え去っていた。
目の前の鬼を見ると――チハルは頬をわずかに紅潮させ、愉悦に満ちた表情を浮かべている。
失礼な声が聞こえた気もしたが、ロイスは気に留めなかった。
「ク、クハハハハハハハ!」
チハルは腹の底から笑い、ロイスの手を離すと、両腕を大きく掲げて天井を仰いだ。
「俺を前にしてその表情……!やはり、ぬしを選んだのは正解だった!」
歓喜を隠そうともせずに叫ぶ主を、ツムギが胡乱な目で見上げる。
「主……本当に、こいつでいいのです?」
「あ? 文句なしの満点だ」
チハルは即答し、ツムギの頭をわしゃわしゃと雑に撫でる。
「おい、よく見ろ。この目だ。ロイスが抱え込んでる闇の深さ……それこそが、俺の力を振るうに相応しい」
そう言ってから、チハルは改めてロイスへと視線を向けた。
ロイスの瞳は、怒りでも悲嘆でもない。
ただ沈みきった闇が、底を見せずに澱んでいる。
逃げ場を探す色も、縋る光もない。
全てを抱え込んだまま、前を見るためだけに残された目。
チハルは、その奥を見抜くように、愉しげに口角を吊り上げた。
「ぬしの奮闘は、映し鏡越しに見ておった。まったく……どの世界にも、抗いようのない理不尽はあるものだな」
一拍置き、チハルは愉快そうに口角を吊り上げる。
「俺はそこに惚れた。遠慮はいらん。十割だ――すべて持って行け」
「――!? 何言ってるです!」
ツムギが声を荒げて一歩踏み出す。
「そんなの、ヒトが耐えられるわけないです!」
「それくらい出来ねえとは言わせねえよ」
チハルは鼻で笑った。
「俺が気に入った男だ。問題ない。……それとも何だ?」
ちらりとツムギを見る。
「ロイスが、心配か?」
「なっ……!」
一瞬言葉に詰まったツムギは、ぷいっと顔を背けた。
「ち、ちげーですよ!こんな雑魚、どうでもいいです!もう知らねーです!」
吐き捨てるように言い残し、ツムギはぱたぱたと足音を立てて暗闇の奥へ消えていった。
「クハハ……」
その背を見送りながら、チハルは頭を掻く。
「あいつは不器用だが、根はいい奴なんだ。色々と失礼なことを言ったと思うが……許してやってくれないか」
どこか申し訳なさそうに笑うチハルに、ロイスは静かに頷いた。
「ああ、俺も大人げなかったし、別に気にしてねえよ。それより――さっきの話なんだが……」
「十割のことか?」
チハルは即座に頷いた。
「あれは選定者に与える力の“割合”だ。量が多ければ多いほど、比例して得られる力も大きくなる。だがな――普通は、体が持たん」
肩をすくめ、指を一本立てる。
「例えるなら、小さな風船に一気に空気を詰め込むようなものだ。限界を超えれば、どうなる?」
「……破裂する、か」
「そういうことだ。ぬしたちヒトも、例外じゃない」
確かに、先ほど一瞬触れただけでも分かった。
あの圧倒的な力が、すべて自分に流れ込めば――
(……いや、本当に、破裂するのか?)
不思議と、そうは思えなかった。
なぜか、自分なら“耐えられる”という確信に近い感覚がある。
「ああ、ぬしの考え通りだ」
チハルは愉快そうに笑った。
「世の中には必ず例外がある。重要なのは“共通点”だ。与える者と、授かる者――そこに同じモノがあれば、力は拒まず溶け込む」
静かに視線を細める。
「ぬしも見ただろう。俺の奇譚を」
共通するモノ。
そんなもの、考えるまでもない。
「……怨嗟、だ」
それは恨み。
理不尽に踏みにじられ、世界そのものを呪った感情。
鬼も、ヒトも――同じ場所に辿り着いた。
「通常、どれほど適合しても七割、せいぜい八割が限界だ」
チハルは一歩踏み出す。
「だがロイス。ぬしが相手取るのは“世界”だ。聖女だけじゃない。この先、数え切れぬほどの理不尽がぬしに降りかかる」
低い声で、言い切った。
「――それでも、立ち向かう力が欲しいんだろう?」
「ああ」
即答だった。
「躊躇はいらねえ。全部よこせ」
「クハハ……!」
チハルは満足そうに笑った。
「それでこそ俺が見込んだ男だ。ならば、早速始めるぞ。時間が惜しい」
次の瞬間。
チハルは一切の迷いもなく、自らの胸に手を突き立てた。
肉を裂く音も、血の気配もない。
だが、引き抜かれた手には――
ビー玉ほどの大きさの、黒い球体が握られていた。
底知れぬ闇を凝縮したような、歪な存在。
「飲め」
「は?」
「これを飲むだけだ。簡単だろ。はようせい」
「いや、ちょっと待て、なんか気持ち悪――」
「ええい!急に女々しいな!」
言い終わる前に、ロイスの口がこじ開けられた。
黒い球体が、強引に喉奥へと押し込まれる。
「――っ!?」
異物は、落ちる感覚すらなく、影に溶け込むように体内へ消えた。
次の瞬間。
影が――内側から膨れ上がる。
「あ……が、ぁ……!」
呼吸が出来ない。
肺が、心臓が、内側から締め潰される。
ロイスはその場に崩れ落ち、床に叩きつけられた。
視界が揺れ、音が遠のいていく。
「俺は、もう手遅れだった」
意識の彼方で、チハルの声が響く。
「だが、ぬしはまだ間に合う。その力で――すべてを覆せ」
ぼやけていく視界の端。
柱の陰から、ひょっこりとツムギが顔を出した。
下まぶたを引き下げ、舌を出す。
「ばーか!です」
「……クソ、ガキ……」
最後の力を振り絞るように呟く。
「次、会ったら……ぶっとば……す……」
その言葉を最後に。
ロイスの意識は、完全に闇へと沈んだ。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
先程とは、明らかに違っていた。
白でも、光でもない。
ただ――闇。
底も、果ても、境界すら存在しない、粘ついた黒。
視界のすべてを埋め尽くし、思考そのものに絡みつくような闇が、どこまでも広がっていた。
その中心に、ロイスは立っている。
足場があるのかすら分からない。
だが、沈みもしない。落ちもしない。
困惑はなかった。
恐怖も、焦燥もない。
まるで、最初からここに在るべきだったかのように、自然に呼吸をしていた。
ロイスの正面で、闇が蠢いた。
霧のように集まり、圧縮され、やがて人の形を成す。
輪郭だけの黒い影。顔はない。
だが、一目で分かった。
それは――
不屈の剣にいた頃の、自分自身だった。
まだ、夢を見ていた頃の姿。守れると、本気で思い込んでいた頃の自分。
黒い少年が、感情のない声で告げる。
『お前が、あいつらを殺した』
『三人だ。仲間だったはずの、三人の人生を棒に振った』
普通なら、後悔に潰される。
罪悪感に膝を折り、赦しを乞う。
だが、ロイスは違った。
瞬き一つせず、即座に答える。
「ああ。その通りだ」
『……チッ』
影が舌打ちをする。
その姿が崩れ、再び闇が形を変える。
次に現れたのは、もう少し背の高い影。
剣を持ち、誰かに教える立場にあった頃――
ダンの師として振る舞っていた、自分。
黒い青年が、抑えきれない苛立ちを滲ませて言う。
『お前がダンを殺した』
『もっと強ければ、あいつは負けなかった。負けなければ、死ななかった』
ロイスは、呼吸一つ乱さない。
「ああ。その通りだ」
『あの敗北がなければ、慢心も生まれず、技を磨き続けただろう。小鬼に殺されることも無かった』
『だから、ダンを殺したのは――お前だ』
「ああ。その通りだ」
言葉が落ちるたび、闇は密度を増した。
空間そのものが、重く沈んでいく。
『お前は、王都で暮らす多くの子供を殺した』
声が、ひとつではない。
『もっと早く気付いていれば』
『もっと賢ければ』
『もっと疑っていれば』
『こんなことには、ならなかった』
「ああ。その通りだ」
闇が、空間の至る所から湧き上がる。
人の形。
人の声。
数え切れない、糾弾。
『『『お前のせいだ』』』
不屈の剣の面々が、ロイスを指差す。
『『お前のせいだ』』
ダンの声に、イヴァンの低い声が重なり、
闇が、生き物のように脈打った。
――そして、その奥。
空気が、わずかに張りつめた。
新たな闇が集まり、形を成す。
今度のそれは、少しだけ背筋が伸びていた。
無駄のない立ち姿。
実用本位の装備。二本の双剣。
そして――胸元に刻まれた、副団長の徽章。
『……久しぶりだな』
顔のない“それ”が、静かに口を開く。
声は低く、落ち着いていて。
どこまでも理性的で――聞き慣れた声だった。
副団長時代の己、ロイス=ヴァルフリート。
『判断は正しかった。被害を最小限に抑えた。感情に流されず、最善を選んだ』
淡々と、事実だけを並べる。
『それでも――』
一歩、踏み出す。
『切り捨てた。救えたかもしれない命を、見捨てた』
『お前が“副団長”だったからだ』
『お前が、選ぶ側に立ったからだ』
闇の視線が、ロイスを射抜く。
『逃げるな。お前は被害者じゃない』
『責任を負うと決めた。背負うと誓った』
『……それを忘れたのか?』
静かな糾弾。
怒号よりも、ずっと重い言葉。
ロイスは、ほんの一瞬だけ視線を落とし――
次の瞬間、ゆっくりと顔を上げた。
口元が、歪む。
「ああ」
低く、喉の奥から這い出るような声。
「忘れるわけがない」
そして、はっきりと告げる。
「――それも、全部、俺だ」
その言葉を合図に、闇がざわめいた。
『『『『『『お前のせいだ』』』』』』
無数の子供たちの影。
泣き叫び、罵り、縋るように手を伸ばしながら、
一斉にロイスを責め立てる。
逃げ場はない。
否定もできない。
闇が、言葉が、罪が――
無限に降り注ぐ。
だが。
ロイスは、笑った。
恐怖からの笑みではない。
自嘲でも、狂気でもない。
理解した者の笑みだった。
口元を、三日月のように歪めて。
「ああ……全部、俺のせいだ」
その瞬間。
ロイスの足元から、別の闇が噴き上がった。
それは、責めるための闇ではない。
裁くための闇でもない。
呑み込むための闇。
『なっ――!?』
責め立てていた影たちが、驚愕の声を上げる。
だが、遅い。
闇が、闇を喰らう。
罪も、後悔も、怨嗟も、すべてを引きずり込み、溶かしていく。
ロイスは、静かに目を開いた。
その瞳は、完全な漆黒に染まっていた。
「ク、クハハハハハハ……」
低く、腹の底から笑う。
「この程度で、俺の怨嗟を量ったつもりか?」
「奪った。壊した。殺した。確かに全て事実だ」
「だがな、今更それから逃げる気は、欠片もない」
闇が、収束する。
鬼の業と、ヒトの罪。
二つの闇が、溶け合い、一つの“核”となる。
「全部、俺の中で見ていろ」
「背負ってやる。否定も、贖罪もいらねえ」
その言葉を合図に、闇は形を成した。
玉座。
ロイスは、当然のようにそれに腰を下ろす。
この瞬間。新たな選定者が、生まれた。
力を欲した男が、世界に抗う資格を、自らの手で掴み取った。
額に、一本の黄金の角が生える。
ヒトでも、鬼でもない。
両方の業を内包した存在――鬼人。
その格は、もはや“人”の域にはない。
闇の城の最上段。
玉座から立ち上がり、鬼人は嗤う。
漆黒に染まる世界の中心で。
選定者は、世界を睨み返していた。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
「――お帰りなさいまセ。どうやら、無事に“成った”ようですネ」
正面に立っていたのは、案内人だった。
気づけば、あの白キ領域に戻っている。
何もなかった空間。
だが今のロイスには、もう“何もない”とは感じられなかった。
「ああ。あんたには感謝してるよ」
そう言って微笑むロイスの表情は、
まるで――新しい玩具を手に入れた子供のようだった。
無邪気で。
底知れずで。
そして、どこか壊れている。
「いえ、私はただの案内人。導きに従っただけでス」
案内人の視線が、ロイスの額へと向けられる。
そこに生えた一本の角。
言葉とは裏腹に、滲み出る感情は――確かな“愉悦”だった。
やがて案内人は、軽く指を鳴らす。
パチン。
その音を合図に、白キ領域がひび割れ、
次の瞬間、ガラスのように粉々に砕け散った。
「――あの聖女二。そして、世界に示してくださイ」
崩れ落ちる白の欠片の向こうで、声が遠ざかっていく。
「今のアナタなら――その牙は、全てに届き得ル」
鬼人となったロイスは、ただ静かに深く、底知れぬ笑みを浮かべていた。
澄み渡る青空。
頭上には白い太陽。
戦場へと帰還したロイスは、
自身に背を向け、出口へ向かおうとする男の背中を見つめる。
そして――呼びかけた。
「イヴァン」
その声に、もはや迷いはない。
「もう一度だ」
唇が、ゆっくりと歪む。
笑みは静かで、底知れず、どこまでも冷たい。
「構えろ」
その一言に、イヴァンが振り向く。
見開かれた瞳が、こちらを捉えた瞬間――
世界が、軋んだ。
誰かの敷いた“盤上”そのものが、歪み始める。




