15. 龍狩り
“龍狩り”イヴァン=ヴァルフリート。
王都の外にまで名を轟かせ、幾多の戦場と権力闘争を制してきた名門ヴァルフリート家。その現当主にして、ソロでA級上位探索者にまで登り詰めた男。10代の頃、当時C級だった彼が、A級指定モンスター“蒼龍ラ・ヒュヴェル”を単独討伐した功績は有名で、その際に二つ名を与えられ二階級昇進したことも知られている。
さらに、帝国の「探索者マガジン」では、“キミが思う最強の探索者ランキング”にて、S級探索者“絶対正義”に次ぐ順位で3年連続2位に輝いたこともあった。
そんな男が――今、俺の目の前に立っている。
決戦の場はヴァルフリート家修練場。広大な敷地の屋外に造られた場所で、闘技場に近い構造をしている。頭上には雲ひとつない青空。真上にある太陽が、俺とイヴァンの二人を容赦なく照らしていた。
「あんた、その格好……」
思わず声が漏れる。視線の先には、全身蒼の甲冑で身を包んだイヴァン。頭部には龍を模した兜が鎮座していた。
「これか?久しぶりに着た気がするな。やはり、どの装備よりも一番しっくりくる。そういうお前こそ……懐かしいものを持っているじゃないか」
鎧越しに響く低くくぐもった声。俺は自然と手にした大剣に視線を落とした。
無装飾で鈍色の、ただの剣。だがこれこそ、かつてイヴァンに与えられ、鍛錬で散々振り回してきた相棒の大剣だ。イヴァン曰く、外界で拾ってきたものの、耐久以外の付与効果は一切なし。
「あんたにぶっ壊されたからな……」
横に視線を移すと、あの時破壊された双剣のことを思い出す。
最後にやりあったのは、もう半年以上前。
壁に掛けられたホワイトボードには「99-0」と大きく記されている。
未だに、俺は一度もイヴァンに勝てていない。
ダンに敗れ、奥義の修得も叶わず、自由に使える時間は削られていった。
それでも鍛錬だけは欠かさなかったが、いつの間にか――模擬戦に臨む余裕さえ、俺には残っていなかった。
「ロイス」
思考に沈みかけた俺の耳に、蒼の甲冑越しの低い声が突き刺さる。
イヴァンが背中の大剣を引き抜いた瞬間、空気が悲鳴を上げ、大気そのものが震えた。
「今の俺は、ヴァイス・シャッハの“塔”でもなければ、王都騎士団長でもない。元A級上位探索者、“龍狩り”イヴァン=ヴァルフリートとして――これからお前を……殺す」
――やってみろ。
握りしめた大剣に全身の力を込める。心の奥で、久しぶりに熱が燃え上がった。
「――受けてみろ、イヴァン!」
その瞬間、俺は駆け出した。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
コト、コトッ。
静かな音を立てて、白い駒が盤上に置かれた。
「チェックメイト」
「……参りました」
言葉とは裏腹に、敗者の声に悔しさはない。
聖宮殿――王宮と中心街を挟み、向かい合うように聳える聖協会本部。その最上階の一室で、二人の女性が向かい合っていた。
椅子に深く腰掛け、退屈そうに頬杖をつくのは聖女、ユディ=ポルガーノ。
数時間後に控えた聖誕祭に備え、背中まで届く金髪は丁寧に編み込まれ、光を含んで艶やかに輝いている。
対するは銀星近衛団団長、ジーナ=ハリスティン。
背の高い体躯に無駄のない筋肉を備え、銀色の近衛団装束を着崩すことなく纏っている。飾り気はなく、その佇まい自体が盾であるかのようだった。
「ジーナ……貴方、普段はあれだけ頼りになるのに。こういう遊びは本当に弱いよね」
「す、すみません……どうしても先が読めなくて……」
聖女の視線を正面から受け止めきれず、ジーナは大柄な身体を縮めるようにして視線を逸らす。
部下や市民に向ける凛々しい姿は影を潜め、そこにいるのは年相応の、不器用な女性だった。
「ふふ。でも、今の貴方も可愛らしくて嫌いじゃないよ。――部下たちが見たら、きっと卒倒しちゃう」
「絶対に見せません!私は聖女様の盾。ヴァイス・シャッハの騎士ですから」
そう言って、わざとらしく片膝をつき、聖女の手を取る。
ころころと変わる態度に、ユディは小さく笑った。
彼女は盤上に残された白い塔の駒を手に取り、窓辺へと歩く。
窓の向こうには、聖誕祭当日の王都。
中心街は人で溢れ、色とりどりの装飾と歓声が、遠くまで広がっていた。
聖宮殿と王宮を結ぶこの道を、今日、聖女は護衛を伴って往復する。
その姿を一目見ようと、王都内外から人が集まっている。
「聖女様……?」
不意に黙り込んだユディを案じ、ジーナが声をかける。
「ううん。――楽しみだな、って思っただけ」
ユディは、手の中の塔を静かに見つめた。
「本日は私が護衛を務めます。ロイス=ヴァルフリート副団長の代わりではありますが、必ずお守りします。誰にも、指一本触れさせません」
「ありがとう、ジーナ。……本当に、頼りにしているよ」
その微笑みを真正面から浴び、ジーナは一瞬で赤面する。
「は、はわわ……」
崩れ落ちる彼女をよそに、ユディは窓を開き、バルコニーへ出た。
陽光を受け、黄金の髪が風に揺れる。
眼下には、無数の人々。
そのすべてを見下ろす位置で、聖女は静かに目を細めた。
(本当に楽しみだよ――ロイス君)
待っているのは、騎士か。
それとも、盤上に並べた次の駒か。
恋する少女のような、
そして――狩人のような微笑みが、ユディの唇に浮かんでいた。
・・・・・・・・
・・・・・
・・・
「――シッ!!」
鋭く息を吐き、俺は沈み込んだ姿勢から弾けるように飛び出した。
地面すれすれを滑るように走る。視界が低く、風圧が頬を切り裂く。
そのまま10メートルの距離を瞬時に縮め、踏み込みの勢いをそのまま刃に乗せ、上段から振り下ろす。
だが――
イヴァンは退かない。
むしろ一歩、前へ。
下段から切り上げられた大剣が、地面を砕きながら迫る。踏み込んだ瞬間、大地が悲鳴を上げてひび割れた。
二振りが激突する。
――ギィィィン!!
火花が散り、金属音が空気を引き裂く。
腕が痺れる。押し切れないと判断した瞬間、俺は空中で反時計回りに身を捻り、剣を左手に持ち替えて追撃に入った。
だが、剣先は虚空を裂いただけだった。
次の瞬間、真横から唸りを上げて迫る蒼の刃。
「チッ!」
反射的に仰け反り、刃先を躱す。
そのまま後方へ宙返りし、距離を取った。
戦闘開始から既に5分が経過していた。
ブランクのある大剣が、思うように馴染まない。呼吸が僅かに乱れる。
対してイヴァンは――まるで動じていない。
差は、明確だった。
「おい」
蒼騎士の声が響く。
「その動き……気が散っている。命のやり取りだと、まだ理解していないようだな」
「……うるせえ。もう少し間合いを掴めば――」
「急げ。お前の遊戯に付き合う暇はない」
瞬きをした――その、刹那。
世界が、蒼に塗り潰された。
「――っ!?」
考えるより先に、身体が反応する。
反射的に剣を構えた。
だが――遅い。
轟音にも似た衝撃が全身を貫き、視界が裏返る。
俺の身体は人形のように宙を舞い、数メートル先の壁へと叩きつけられた。
「――ぐ、ぁっ……!」
背中から伝わる激痛に、肺の空気が強制的に吐き出される。
視界が白く弾け、耳鳴りだけが残った。
それでも、倒れるわけにはいかない。
歯を食いしばり、床に手をついて身体を起こそうとした――その瞬間。
殺気。
――真横。
「……っ!?」
いつの間にか、そこにいた。
蒼の甲冑が、すぐ隣に。
「ぁぁぁぁぁっ!!」
理屈は無い。反射だけで剣を振り抜く。
だがイヴァンは、大剣を地面へ突き立て、刃を十字に重ねた。
ガギンッ――!
金属が悲鳴を上げ、衝撃が腕を通して骨へと叩き込まれる。
「……っ、ぐ……!」
力が、入らない。
まるで城壁を素手で殴ったかのような反動。
指が痺れ、感覚が途切れ――俺は、剣を取り落とした。
「――愚か」
その一言と同時に、衝撃。
腹部に深々と蹴りがめり込み、内臓が裏返る感覚に息が潰れた。
「――――っ……!」
声にならない悲鳴すら、喉で押し殺される。
次の瞬間、身体が浮いた。
蹴り上げられたのだと理解するより早く、足場が消える。
上下の感覚が狂い、視界が反転する。
青空と地面が入れ替わり、地面が、急速に遠ざかっていく。
その僅かな時間の中で、蒼の騎士はもう次の動作に入っていた。
地面に突き立てていた大剣を引き抜き、背へと納める。
――それだけで、空気が震える。
そして、跳躍。
一瞬。
俺の視界を、巨大な影が追い越した。
「――っ!?」
認識が追いつく前に、頭部を締め潰すような圧。
骨が軋み、思考が押し潰される。
掴まれた――そう理解した瞬間には、もう遅い。
身体が持ち上がる感覚。
重力が反転し、世界が回転する。
大きく振りかぶられ、
――投げ捨てられた。
視界が地面で埋まり、
次の瞬間、世界そのものが叩きつけられる。
ドン――ッ!!
衝撃が大地を割り、波となって周囲へ走る。
屋敷が軋み、悲鳴のような音を上げて揺れた。
身体の芯に、破壊が直接流し込まれる。
骨が鳴り、内臓がずれ、
――俺の中で、何かが砕けた。
「――っ、が……ぁ……っ」
喉が勝手に痙攣し、胃液が込み上げる。
咳き込むように、えずく。息が、入らない。
呻く俺の前に、影が落ちた。
気配すら感じさせず、イヴァンが地に降り立っていた。
「武器を手放すなと、何度言わせる」
視界の端から、鈍い音。
いつの間にか回収されていた俺の剣が、足元へ投げ返される。
「拾え。――まだ、終わりではないだろう」
その一言で、時間が止まった。
俺は地面に指を食い込ませ、砕けた身体を引きずるようにして起き上がる。
骨の軋む感触を一つずつ確かめる。
折れていない。――動く。
震える手で、剣を掴んだ。
「……当然だ」
喉から零れた声は掠れていたが、意思だけは揺れていない。
ゆっくりと息を吐き、視線を上げる。
「ようやく……身体が温まってきた」
「ならいい。続けるぞ」
言葉が終わる前に、俺は踏み込んだ。
地面を蹴り裂く感触。
肺いっぱいに空気を吸い込み、それを血に、筋肉に叩き込む。
「オオオオオッ!!」
右上段。
全身を賭けた一振りを、叩きつける。
何度目かの鍔迫り合い。
だが、焦りが滲む。
間合いも、動きも、付け入る隙が見当たらない。
(……くそ、強ぇ)
俺が足を止めていた半年。
その間にも、この男は前へ進み続けていた。
力、技、経験。
比べるまでもない。
俺が勝っているものなど、一つもない。
――それでも。
今回は、退かない。
踏み込め。
もっと速く。
もっと、深く。
意識が研ぎ澄まされ、世界が細くなる。
今まで霞んでいた動きが、僅かずつ輪郭を持ち始める。
ここで超えられなければ、
俺は、この先へ行けない。
「う……おおおおおおおお!!」
全身を絞り切り、振り下ろそうとした――その瞬間。
空気が、変わった。
蒼騎士の存在そのものが、膨張する。
圧が、重力となって押し潰しにかかる。
イヴァンが、両手で剣を掲げる。
上段。
隆起した筋肉が、蒼の鎧を内側から軋ませ、悲鳴を上げさせる。
大地が、わずかに沈んだ。
――来る。
(……まずい!)
思考が焼き切れる寸前、判断だけが先に走る。
迎え撃てば、砕かれる。
なら――
俺は、退いた。
刹那。
「ヴァルフリート流奥義――轟雷」
世界が、落雷に呑まれた。
斬撃が、雷鳴そのものとなって振り下ろされる。
剣先が目と鼻の先を通過し、遅れて解き放たれた衝撃が、嵐となって全身を引き裂いた。
空気が爆ぜ、視界が歪み、皮膚が裂ける。
それでも――
(躱した……!)
一度その身に受けた経験から生まれた勝機。
だが――
砂埃の中で、俺は凍りつく。
イヴァンの剣先が、止まっていた。
地面すれすれで、不自然に。
第六感が、警鐘を鳴らす。
(……嘘だろ)
次の瞬間、イヴァンの体軸が反転する。
沈めた重心が、跳ね上がる。
振り向きざまの切り上げ。
俺の知る“轟雷”には存在しない軌道。
生涯一度も、見たことのない技。
「轟雷・弐式」
蒼の刃が唸り、
雷が――天へ昇った。
地を裂くはずの一撃は軌道を裏切り、
蒼白い光となって奔り、空気そのものを引き裂く。
腹部を――深く、抉られた。
両断は免れた。
だが、それだけだ。
熱いものが一気に溢れ出し、視界の端が赤く滲む。
血が噴き上がり、足元を濡らした。
指から力が抜け、剣が音を立てて転がる。
膝が折れ、地面が近づいた。
感覚が、ひとつずつ剥がれ落ちていく。
痛みも、重さも、熱も――現実味を失い、遠のいていく。
視界が狭まり、闇が滲む。
世界が、静かに――沈んでいった。
(……これが、死――)
そう理解した瞬間、妙な違和感が胸を刺した。
浮かばない。
幼い頃の記憶も、誰かの笑顔も、守りたかったはずのものも。
名前すら曖昧な声さえ、脳裏には何ひとつ現れなかった。
代わりに、底から滲み出してきたのは――
憎しみ。
理屈も理由もない。
ただ、喉に絡みつき、肺を塞ぎ、心臓の鼓動にまとわりつく感情。
聖女が憎い。
すべてを見透かした顔で、命を弄ぶ――その冷酷さが。
イヴァンが憎い。
裏切りながら、なお導こうとする――その傲慢さが。
仲間が憎い。
勝手に期待し、勝手に背負わせてくる――その無責任さが。
そして――
俺自身が、何よりも憎い。
力もないくせに抗い、
覚悟もないくせに届くと信じた――その浅ましさが。
結局、何ひとつ掴めず、
何ひとつ守れないまま、
ここで終わろうとしている――この俺の弱さが。
黒い感情が、心の底の器を突き破る。
どろり、と。
血よりも濃く、闇よりも重く。
心臓より深い場所から溢れ出し、
内側を塗り潰し、
身体の隅々まで――粘つくように、満たしていった。
その瞬間。
閉じかけていた視界に、強引に焦点が引き戻される。
「……ぁ……」
声にならない息が漏れた。
気づけば俺は、裂けた腹を――掴み潰していた。
指が肉に沈み込み、ぬるりとした感触が掌に絡みつく。
次の瞬間。
どくり、と。
押し出されるように血が噴き上がり、指の隙間から溢れ落ちる。
床に滴り、赤黒い水溜まりが広がっていく。
――なのに。
痛みが、ない。
あるはずの激痛も、恐怖も、すべてが遠い。
代わりに胸の奥で煮え滾っていたのは、
ただ一つ。
――殺したい。
思考より先に、喉が動いた。
「イ”ヴァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ン”!!」
声が裂ける。
肺が悲鳴を上げ、喉の奥が焼ける。
それでも止まらない。
血を撒き散らしながら、俺は立ち上がった。
足元がふらつく。
内臓が軋み、身体はとっくに限界を越えているはずなのに――
膝が、折れない。
否。
折れさせない。
理性も、生存本能も、とうに押し潰されていた。
そこに残っていたのは、
血と憎悪だけで立ち上がる――獣じみた意志だった。
殺す。
理由はいらない。
正義も、未来も、もうどうでもよかった。
残っているのは――
目の前の男を、殺すという衝動だけ。
それ以外の思考は、すべて焼き尽くされた。
――だが。
視界の端で、世界が不自然に鈍る。
音が遠ざかり、空気の流れさえ止まったかのように感じる。
低く、深く沈み込み。
突きを放つためだけに、剣を限界まで引き絞った蒼騎士。
それを見た瞬間――
背骨が、凍りついた。
呼吸が詰まり、
足が、動かない。
(……あ)
間に合わない。
「轟雷・参式」
世界が、裂けた。
閃光が視界を焼き、
爆音が鼓膜を引き千切る。
音も光も、痛みさえも――
意味を失った。
次の瞬間。
胸の奥に、冷たい“何か”が突き立った。
呼吸が、止まる。
――ああ。
そう理解したときにはもう、
俺の心臓は、深々と貫かれていた。




