13. 恥を知れ!!
異能を封じられたベルベットは、それでもなお踏みとどまろうとした。
だが四方八方から叩き込まれる攻撃は、逃げ場も猶予も与えない。
衝撃が重なり次の瞬間、小さな身体は宙へと投げ出された。
床に叩きつけられる――その直前。
ぱき、と。
乾いた音がして、仮面にひびが走る。
続く衝撃で、それは完全に砕け散った。
白い破片が宙を舞い、ベルベットが床を転がる中で、
仮面の下に隠されていた素顔が露わになった。
「……!」
誰かが、息を呑む。
燃えるような赤髪。
深紅の瞳。
聖女にも劣らぬ整った顔立ちを持つ、ひとりの女。
蹲るその姿と、あまりにも想像とかけ離れた風貌に、
広間の空気が、音を立てて凍りついた。
誰もが言葉を失い、
誰もが視線を逸らせずにいる。
――その中心で。
ベルベットは、しばらくその場に蹲ったまま、動かなかった。
伏せられた赤い髪。
砕けた仮面の欠片が、足元で白く散っている。
荒い呼吸が、一つ。
次に、もう一つ。
それだけが、やけに大きく響いた。
誰かは、次の命令を待ち。
誰かは、次の一撃に力を込め。
誰かは――目の前の光景を、まだ理解できずにいた。
その沈黙の中、ベルベットは、床に突いた指先にゆっくりと力を込めた。
爪が、大理石の床を掻く。
片膝を立て、もう一方の足を引き寄せる。
立ち上がる――ただそれだけの動作に、
不自然なほどの時間がかかった。
途中で止めようと思えば、できたはずだ。
だが、誰も手を出さない。
――いや、出せなかった。
やがて彼女は、完全に立ち上がる。
一瞬、よろめきかけ――
それを、自分で押さえ込む。
軽く、埃を払うように肩を叩いた。
その仕草は何故か、敗者のものでも捕虜のものでもなかった。
彼女は俯いたまま、口を開く。
声は低く、静かで――
しかし、逃げ場のない響きを持っていた。
「……耳の穴かっぽじって」
一拍。
広間中の意識が、そこに縫い止められる。
「よく、聞け」
声は低く、落ち着いていた。
叫びでも、罵声でもない。
「私は、この世界が嫌いだ」
広間に、ざわめきは起きない。
だが、空気が確かに張りつめる。
先程までの彼女からは想像も付かない変化に、誰もが言葉を失う。
「人が人を踏み台にして」
「強き者の声だけが、正義として響くこの世界が」
ベルベットは、ゆっくりと顔を上げる。
赤い瞳が、この場にいる者達一人一人をなぞっていく。
異能ではない。
魔法でもない。
――それでも、誰も目を逸らせなかった。
「弱き者には沈黙しか許されない。平等なんて言葉が、最初から存在しないこの世界が」
誰も、口を挟まない。
遮ろうとする者もいない。
ベルベットの紅い瞳がまるで宝石のような輝きを放つ。
「……?」
そんな彼女の様子を見て、聖女は思わず表情を崩した。
胸の奥に、理由の分からない違和感が走る。
(……今の、なに?)
確かに見覚えがある気がした。
だが、記憶のどこを探っても答えは見つからない。
聖女は小さく首を振り、その感覚を切り捨てた。
広間に落ちた静寂を、
ベルベットの声が、再び裂く。
「生まれ落ちたその瞬間に、価値が振り分けられ」
「何の疑いもなく、贅沢を貪る者がいて」
「同じ街角で、泥水を啜って命をつなぐ者がいる」
淡々とした声で。
ただ事実だけを、順に突きつけるように。
「……それを」
「仕方がない、で済ませてきた」
言葉が、刃のように空間へ置かれる。
「上に立つ者が」
「“そういうものだ”と目を逸らしてきた」
そこで、ベルベットの声が、わずかに揺らいだ。
喉の奥で、軋むような音。
吐ききれなかった息が、震えとなって零れ落ちる。
だが、それは弱さではない。
長いあいだ閉じ込められていた感情が、
檻を内側から押し広げただにしか過ぎない。
その揺らぎに、呼応するように。
ノア王の脳裏へ、封じたはずの記憶が滑り込んだ。
砂を噛むような、乾いた感触とともに。
灼けつく砂の大地。
血と熱に濡れた戦場。
最後まで、一歩も引かなかった女がいた。
燃えるような赤髪。
刃のような紅の瞳。
――あり得ない。
あの王家は。
確かに、滅びたはずなのだ。
「……馬鹿な」
喉から零れた声は、王のものとは思えぬほど乾いていた。
否定は、王の側に残ったまま。
「それでも」
その言葉を、ベルベットが踏み越える。
一歩、前へ出た。
床石を踏む音が、やけに重く響いた。
足は震えている。
膝が笑い、呼吸が浅くなる。
それでも――止まらない。
「それでも……人の上に立つ者は」
「力を持つ者は」
言葉の合間に、短い吸気。
逃げない。
視線も、声も、逸らさない。
「守る側でなければならないはずだ」
赤い瞳が上がる。
聖女を。
王を。
この場のすべてを、まっすぐに射抜く。
「踏みつけた命の上に立って」
「その結果を、誇りだと呼ぶ資格など」
一拍。
歯を噛みしめる音が、微かに聞こえた。
「――あるはずがない」
声が、確かに強まる。
「たとえ国がどれほど潤おうとも」
「たとえ大きな成功を示したとしても」
胸の奥が、灼けつく。
それでもベルベットは、言葉を逃がさない。
喉の奥から、引きずり出す。
吐き捨てるように。
叩きつけるように。
「それが――犠牲の上に積み上げられたものなら」
視線は、もはや揺れない。
「それは、ただの罪だ」
一瞬。
空気が、ぎしりと軋んだ。
怒りか。
恐怖か。
それとも――思い当たる者の沈黙か。
答えを与える前に、ベルベットが声を叩きつける。
「人の上に立つ者が、力なき民を守る立場にある者達が!」
「道半ばで諦めることはあってはならない!ましてや信頼や期待を裏切ることなど、断じて許されない!」
ベルベットは、足を引きずるように、さらに一歩前へ出た。
全身が細かく震えている。
痛みも、疲労も、限界を越えている。
それでも。
彼女は、前だけを見る。
「屍の上に築いた栄光に、価値はない!」
大きく息を吸い込み、
肺が軋むほどに空気を詰め込んで。
「お前達に!誇れることなど!何一つないっ!!」
「聞け、この都市を背負う者共!」
歯を食いしばり、
喉を引き裂くように、声を叩きつける。
「―――恥をっっッッ、知れええええッッ!!」
その言葉が。
玉座の間を、刃のように撃ち抜いた。
ノア王の喉が、わずかに鳴った。
反論の言葉を探そうとして、
しかし何一つ、形にならない。
視線が、泳ぐ。
見下ろしていたはずの赤い瞳が、いつの間にか真正面にある。
無意識に、顎が引けた。
理解した瞬間、背中に冷たいものが走った。
呼吸が、乱れる。
一息。
二息。
空気を吸っているはずなのに、
胸の奥が、重い。
――踏み出そうとした足が、止まった。
次の瞬間。
きぃ、と。
玉座の前の白石が、かすかに軋む。
ノア王の踵が、
ほんの一歩分だけ、後ろへ下がっていた。
誰に命じられたわけでもない。
誰かに触れられたわけでもない。
それでも――
身体が、先に退いた。
(……違う)
王は、歯を噛みしめる。
(私は、間違っていない)
そう思おうとした。
思おうとした、だけだった。
視線を逸らせない。
赤い瞳から、逃げられない。
あの眼は――
糾弾しているのではない。
裁いている。
かつて、国を背負い、
民の前に立った者だけが持つ眼。
ノア王は、
自分が今、玉座に座っている“だけ”の存在だと
理解してしまった。
その瞬間、
背後の玉座が――やけに遠く感じられた。
悟ってしまった。
胆力でも。
覚悟でも。
王として、自分は――後退させられたのだと。
「……空虚だ」
ノア王は、淡々と告げた。
感情を削ぎ落とした声。
怒りは見えない。
だからこそ――理性だけが、前に出ている。
「理想論にすぎん」
一歩、前へ出ようとして。
足が、動かない。
「民のため、だと?守る責任、だと?」
王は、口元だけで笑った。
笑みは浮かんでいるのに、目はまったく笑っていない。
「それを語れるのは――結果を出した者だけだ」
視線が、ベルベットから外れる。
ほんの一瞬。逃げるように。
「血を流さずに、国が保てると思うか?」
「犠牲なくして、秩序が成り立つと本気で信じているのか?」
言葉が、次第に早まる。
「私は選んだ」
「少数を切り捨て、多数を生かす道を」
それは、彼女に向けた言葉であると同時に、
自分自身への言い訳でもあった。
「――王とは、そういう役目だ」
「理解できぬ者に、批評される筋合いはない」
最後の言葉だけが、わずかに震えた。
沈黙。
ベルベットは、何も言わない。
ただ、真っ直ぐに見ている。
それが――耐えられなかった。
「……黙れ」
声が、低く落ちる。
「黙れ黙れ黙れ黙れ!!」
理性が、弾けた。
「貴様に何が分かる!!」
「王の重みを!決断の重さを!!」
ノア王は、聖女の方を見ない。
臣下も、見ない。
ただ一人、赤い瞳の少女だけを睨みつける。
「巨人族の腕」
ノア王の声が、掠れた。
発動と同時に、異変は“腕”からではなかった。
王の呼吸が乱れる。
喉が鳴り、唾を嚥下する音がやけに大きく響く。
右肩が、びくりと跳ねた。
「……っ」
骨が、軋む。
衣擦れではない。
肉の内側から、無理に形を変えられている音。
腕が膨張する。
皮膚が引き伸ばされ、
血管が浮き上がり、
関節の位置が歪にずれていく。
まるで「正しい形」を忘れた肉塊。
王は呻いた。
歯を食いしばり、顔を歪める。
それでも止まらない。
肘が異様に張り出し、
指が増えたかのように裂け、
爪は黒く変色し、鉤爪めいて伸びる。
巨人族の力。
だがそこにあるのは、威厳ではない。
「……私は、王だ……!」
言葉とは裏腹に、
声は震え、裏返っていた。
巨大な腕は、重力を無視するように垂れ下がり、
床の白石を削りながら、ずるりと引きずられる。
玉座の前で、王は立ってなどいなかった。
ただ、力にしがみついているだけだ。
「下がれ……! 私を見下ろすな……!」
怒号と共に、腕が振り上げられる。
だがその動きは、洗練とは程遠い。
剣でも、槌でもない。
――ただの、叩き潰すための塊。
理性を失い、
誇りを捨て、
王であることすら忘れた者の暴力。
それが、
ノア王の異能、《巨人族の腕》だった。
巨大化した王の腕がベルベットへと襲いかかる。
逃げ場はない。
避ける術も、残されていない。
ベルベットは、その事実を一瞬で理解した。
(最後まで自分を貫いたんだ!なんの後悔もない!!)
ベルベットは、迫り来る衝撃に身を強張らせ、ゆっくりと目を閉じた。
来る――はずだった。
骨を砕く音も、
内臓を揺さぶる衝撃も、
視界を焼き潰すような痛みも。
どれ一つ、訪れない。
一拍。
さらに、もう一拍。
世界は、妙に静かだった。
不自然なほどの沈黙が、胸の奥を刺す。
(……まだ?)
疑問が、恐怖を追い越した、その瞬間。
ベルベットは、恐る恐る、目を開いた。
(誰……?)
そこには、彼女を庇うように立つ、一人の大柄な男がいた。
王の振るった巨大な腕は――
男の左手中指一本によって、止められている。
ぎちり、と嫌な音を立てて震える王の腕。
それ以上、微動だにしない。
あのイヴァンよりも一回り、いやそれ以上に大きな体躯。
衣服の上からでもはっきりと分かる、鍛え上げられた筋肉の盛り上がり。
その背には冗談のような文字が、やけに堂々と掲げられていた。
“正義”
白いTシャツに、赤い短パン。
足元はサンダル。
顔には、縁日の屋台で売られているようなヒーローの面。
この神聖な広間に、あまりにも不釣り合いな姿。
――だが。
その存在感だけが、すべてをねじ伏せていた。
この男こそが、
探索者ギルド唯一のS級探索者。
聖女と同じ“選定者”。
――正義執行。
「……おやおや」
男が、面の奥で小さく首を傾げる。
「ふむ。ずいぶんと早く、底が見えたな」
指先に、ほんの少しだけ力を込める。
――ごきり。
王の巨大な腕が、悲鳴のような音を立てて止まった。
ノア王の瞳が、見開かれる。
口がわずかに開いたまま、声が出ない。
喉が動く。
だが、言葉にならない。
王冠の下で、額に汗が滲んだ。
一歩。
意識せず、後ろへ退く。
誰もが、その動きを見た。
――王が、退いた。
「ここまでだ」
淡々と、だがはっきりと告げる。
「今回は――あなたの負けだが、ノア王」
王は、何も言わない。ただ、目を逸らした。
それ以上、言葉は続かなかった。
否定も、反論も――そこにはなかった。
その瞬間、ベルベットの意識は限界を迎えた。
男はそれを当然のように受け止め、
壊れ物を扱うかのように、そっと両腕で抱き上げた。
腕を元の大きさに戻した王が、何か言いかけて一歩踏み出す。
「――待ちなさい」
聖女の声が、それを制した。
「”正義執行”、なぜここにいるの?貴方が自ら介入してくるなんて、初めて見たんだけど」
正義執行は、肩をすくめる。
「おかしな質問だね聖女クン。私はただ、通りがかっただけさ」
「……散歩でここに入ってくる方がおかしいでしょ」
聖女は額を押さえ、ため息をつく。
「やっぱり、貴方と話すの疲れるわ」
「本人に直接物申せるその胆力。嫌いではないねぇ」
わざとらしく両手を上げ、首を左右に振る。
「……」
一瞬だけ、聖女の口元が歪んだ。
だがすぐに、いつもの無邪気な笑みに戻る。
いつの間にか踵を返し、広間を出ようとする正義執行に声をかけた。
「貴方、やっぱりウチに入らない?今はフリーなんでしょ。手伝ってくれると助かるんだけど」
ぴたり、と。
男が足を止める。
「何度誘われても、答えは変わらない」
少しだけ、声が低くなる。
「私の王は――生涯、ただ一人だけさ」
「それは、あの女ーーー」
聖女がその名を発そうとした途端、
――空気が、潰れた。
圧が、室内を叩きつける。
呼吸が詰まり、視界が歪む。
まるで重力が何倍にもなったかのように、身体が床へ押し付けられる。
「……っ!」
誰一人、指先すら動かせない。
「……心配はいらない」
正義執行が、静かに言う。
「今回の件に、私がこれ以上介入することはない。
それだけで勝敗が決まってしまうからねぇ」
「ーー歩兵」
その言葉の直後、フェイルーンが身を翻した。
剣を振り下ろし、正義執行へ突進する。
「――っ!」
しかし、空気の壁に弾かれるように動きが止まった。
刃が空を切り、力を込めた腕は宙で止まる。
正義執行は微動だにせず、わずかに首を傾げるだけ。
「ーーーもっとも、そちらから向かってくるなら話は別だが」
「っ!」
さらに圧が増し、体が地へと沈んでいくような感覚を味わう。
ぱっ、と。
途端に何事もなかったかのようにその圧が消え去った。
滝のような汗を流し、荒い呼吸を整えるヴァイス・シャッハの面々。
一見余裕そうな聖女でさえ、珍しく真剣な表情をしている。
正義執行は彼らを一瞥し、背を向けたまま続ける。
「それと――これは忠告ではなく、ただの独り言だが」
少し間を置き、口元がわずかに吊り上がる。
「彼を、あまり見くびらない方がいい。油断していると、寝首をかかれる」
「ロイス君のこと?確かに興味はあるけど、貴方が気にするほどかな。
それに私は、結末を知っているしね」
その男は、軽く首を振る。
そして――
ベルベットを宝物のように抱えたまま、広間を後にした。
足音が、遠ざかる。
扉が閉じる音もない。
それでも、確かに“何か”が去ったと、誰もが理解していた。
誰も、動かない。
誰も、言葉を発しない。
王も、騎士も、聖職者も。
ただ、その場に取り残されていた。
――数秒。
いや、もっと短かったかもしれない。
ようやく、空気が戻る。
「送還:対象、全員」
聖女の声が、静寂を割った。
白光が広間を満たし、盤上の駒たちは役目を終えたように次々と消えていった。
静寂。
玉座の上で、聖女はゆっくりと腕を組む。
(……正義執行)
思考の端に、その名を転がす。
胸の奥に残った感触は、不快ではない。
むしろ――くすぐったい。
(あれは……なかった)
はっきりしている。
どの未来にも、あの介入は存在しなかった。
自分が関与する未来しか視えない。
その制限を差し引いても、説明はつかない。
予測でもない。
分岐でもない。
――完全な“空白”。
「……ふふ」
思わず、笑みが漏れた。
(やだなあ。こんなの、初めて見た)
未来が読めないのではない。
最初から“書かれていない”駒が、盤上に現れた。
(それに……)
聖女は、ふと思い出す。
研究室に通した少年。
利用し、導き、予定通り王へ辿り着かせるはずだった存在。
(ロイス君)
彼の未来は、確かに“視えている”。
少なくとも、ここまでは。
(でも――)
ベルベットを抱えて消えた男の背と、
あの少年の影が、ほんの一瞬だけ重なった。
(あの子の物語に、余計な行間が増えた気がする)
意図したものではない。
だが、無視できる違和感でもない。
(まあ、いいか)
聖女は玉座に深く腰を下ろし、指先で肘掛けを軽く叩く。
(ロイス君は、ちゃんと“私の物語”を歩いてる)
――今のところは。
(でも、もし)
もし彼が、
あの空白に触れてしまったら?
聖女の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
(……その時は、その時だね)
結末を知っているはずの物語に、
知らないページが差し込まれた感覚。
(ベルベット。正義執行。ロイス君……)
盤面は、もう完成していると思っていた。
――訂正。
(まだ、遊べる)
それは敗北でも、警戒でもない。
次の一手を待つ者の、純粋な愉悦だった。
そして時は流れ、王都ハインルッツェは生誕祭当日を迎える。




