12. 王は影を選ばず
視界が、白に塗り潰された。
上下の感覚が失われ、内臓が浮き上がる。
床も天井も消え、ただ光の中に放り出されたような感覚。
(……っ)
数秒か、それとも瞬き一つ分か。
やがて光が薄れ、輪郭が世界を取り戻す。
ようやく視力が戻ったベルベットは、息を呑んだ。
「……ここは」
視界いっぱいに広がる、巨大な円形の大広間。
見上げるほどに高い天井には、修道服を纏った女性が描かれた壮麗なステンドグラス。
虹色の光が差し込み、床の大理石を淡く染めている。
記憶に、新しい場所。
「聖教会……?」
喉から零れた声は、広間に小さく反響した。
「正解。さっきぶりだね、情報屋さん」
軽やかな、しかしハッキリとした声。
ベルベットが振り返ると、いつの間にか設えられた豪奢な玉座があり、その上に、白黒の修道服姿の少女が腰掛けていた。
聖女ユディ=ポルガーノ。
先程までロイス越しに地下で対峙していたはずの存在が、
まるで最初からここにいたかのような顔で微笑んでいる。
「なんで……」
言葉を失ったまま、ベルベットの視線がゆっくりと動く。
玉座の、前。
誰一人、立っている者はいなかった。
王が、跪いている。
誇り高きはずの背を折り、床に膝をついている。
王妃も同じ。長髪を地べたに垂らし膝をつく。
白光衛生隊隊長は、祈る姿勢のまま静かに膝をつき。
王都騎士団団長は、剣を床に置き、片膝を折っている。
銀星近衛団団長もまた、怪物と称される槍を立てたまま、無言で跪いていた。
武も。
血も。
信仰も。
この場ではすべてが等しく、同じ高さで配置されている。
(……跪いて、いる……?)
助けを求めたはずの王が。
疑念を向けたはずの権力者たちが。
あらゆる点で上に立つはずの実力者が。
誰一人、逆らう様子もなく、
まるで当然のように、玉座を背にこうべを垂れている。
懸念は、その一点にとどまらなかった。
(……並びが、おかしい)
距離。
位置。
向き。
すべてが、意図をもって「置かれている」。
(……盤面)
ベルベットの背筋を、冷たいものが這った。
その瞬間を、まるで待ち構えていたかのように。
聖女が、ぱちん、と軽やかに手を叩いた。
乾いた音が、広間にやけに大きく響く。
「お、気づいた?」
声は弾んでいる。
まるで、かくれんぼで見つかった子どもに向けるような調子だった。
「さすがだね、情報屋さん」
聖女は玉座に腰掛けたまま足をばたつかせ、楽しそうに身を乗り出す。
肘を膝に置いて頬杖をつき、興味深そうにベルベットを覗き込む。
その視線には、警戒も敵意もない。
あるのは――観察と、愉悦。
ベルベットの視線が、跪く者たちへ向いていることに気づくと、
聖女はくすりと笑い、ゆっくりと広間を見渡した。
「綺麗な並びでしょ?」
まるで自慢の盤面を見せるかのように、指先で円を描く。
聖女は、満足そうに一つ息を吐いた。
「さて」
軽く手を叩き、空気を切り替える。
「種明かしはここまで」
「そろそろ――ゲームを終わらせよっか」
その言葉に、ベルベットの肩がわずかに強張る。
「……終わらせる?」
問い返す声は低く、掠れていた。
聖女は小首を傾げ、困ったような、しかしどこか楽しげな顔をする。
「うん」
「君、もう“役目”は全部果たしたから」
その言い方が、不自然なほど断定的だった。
迷いがない。
予測でも、推測でもない。
(……まるで実際に見てきたような言い方)
「ここから先はね」
聖女は玉座の肘掛けに指を滑らせながら、淡々と告げる。
「盤の外にいる駒は、邪魔なんだ」
にこり、と。
無邪気そのものの笑みで。
「"祝福"――《盤上ノ遊戯》」
その言葉が落ちた瞬間。
跪く者たちの足元に、白い光が敷かれた。
その光は円を描き、それぞれの膝元から静かに立ち上っていく。
やがて光は、人の輪郭をなぞり始める。
骨格に沿い、筋をなぞり、
呼吸の間に――形が組み上がっていく。
純白の鎧。
金属でありながら、硬さを主張しない。
装飾は削ぎ落とされ、威圧もない。
あるのはただ、
「ここに立つべき駒」だと示すための形。
鎧は身を覆うというより、人を包み込んで役を固定するように組み上がっていった。
肩、胸、腕、脚。
一つずつ嵌められるたび、
個人の癖や感情が、音もなく押し込められていく。
最後に、兜。
それだけが、明確に異なっていた。
王には、十字を戴いた王冠の兜。
高く、重く、盤の中央に据えられる存在ーーキング。
妃には、クイーンの兜。
王冠よりも高く鋭い頂を持ち、
盤上で最も自由に、最も広く振る舞う駒の象徴。
聖職者には、斜めに割れた頭部を持つ兜。
祈りと理を象るその形は、
盤を斜めに貫く司祭の駒――ビショップ。
暗部には、質素な兜。
装飾も象徴もない、駒の中で最も小さな形。
だだ、前へ進むためだけに作られた、ポーン。
槍騎士には、跳躍する馬の兜。
角ばった面構成と流線が交錯し、
常識外の軌道で盤を駆ける、ナイトの象徴。
そして、記憶に新しい姿。
剣騎士には、石塔を模した兜。
四角く、重く、崩れない。
鉄壁の城塞――ルーク。
誰一人、顔を上げない。
誰一人、役割を疑わない。
そこにいたのは、人ではなく、
聖女の祝福によって配置された、盤上の駒だった。
喉の奥が、ひりつく。
「……ヴァイス・シャッハ……!」
思わず零れた名に、聖女はぱっと表情を輝かせた。
「正解!」
ぱちん、ともう一度、手を叩く。
「いいねえ。やっぱり察しが早い子は好きだよ」
「説明が楽で助かる」
まるで、評価でも下すような口ぶり。
ベルベットは、歯を食いしばる。
爪が、床を掻いた。
(……いつからだ)
疑問が、怒りより先に浮かぶ。
その心を、聖女は当然のように拾い上げた。
「最初から、だよ」
首を傾げ、悪びれもせず。
「君に依頼を出したのも」
「研究室の場所を“うっかり”漏らしたのも」
「ロイス君に近づかせたのも」
指を折りながら、ゆっくり数える。
「ぜーんぶ、この盤面を完成させるため」
空中に、指先で線を引く。
見えない盤上に、駒を並べるように。
「証拠を集めて」
「他に当てがなくなって」
「最後に、王様のところへ行く」
聖女は、ベルベットを見る。
「そこまで含めて――予定通り」
楽しそうに、心底楽しそうに。
「君、すごく綺麗に動いてくれたよ」
「私の《盤上ノ遊戯》にとって、最高のピースだった」
言葉は褒めているのに、その声音ははっきりと告げていた。
――最初から、選択肢なんてなかったと。
理解が追いつかない。
盤面。
駒。
役目。
頭では言葉をなぞれているのに、それが現実だと結びつかない。
(……何だ、これ)
逃げるべきだと分かっている。
危険だという警鐘も鳴っている。
――なのに、身体が動かない。
呆然と立ち尽くすベルベットへ、
白騎士たちが、一斉に歩み寄った。
その瞬間。
ベルベットの視界に、わずかな違和感が走る。
(……空気が、重い?)
肌に触れる圧が、さっきまでと違う。
息が、ほんの少し吸いづらい。
視線を巡らせても、誰もいない。
跪く者たちの列は崩れていない。
盤面は、静止したままだ。
――なのに。
距離感だけが、狂っている。
背後が、近すぎる。
「影位相!」
反射的に叫び、足元へ意識を落とす。
影に沈む感覚は、何度も身体に刻み込んできた逃走の起点だ。
……その、はずだった。
沈まない。
影が、応えない。
「っ……!?」
その瞬間、理解が遅れて追いつく。
(違う……消されたんじゃない)
影は、最初から“使えなくなっている”。
「聖域」
淡々とした声が、広間に落ちた。
エルダーが一歩、前に出ている。
祈るように組まれた指。
その足元から、白い光が静かに広がっていた。
「私の異能だ。一定時間、対象の異能を封じる」
説明口調なのに、そこに誇示はない。
ただ事実を告げているだけの声音。
兜の奥から、視線がベルベットを捉える。
「今の君は、無力だ」
影が、完全に消えた。
床に落ちていたはずの黒が、光に押し流されるように跡形もなく薄れていく。
(……知らなかった)
エルダーの異能。
記録にも、噂にも、確証はなかった。
(隠してた……意図的に)
その考えに至った瞬間。
――背後で、空気が動いた。
「悪いね」
間の抜けた声が、すぐ隣から差し込んだ。
いつの間に。
どこから。
振り向こうとした、その刹那。
「仕事なんでさ。恨まないでくれよ」
暗部隊長フェイルーンが、肩をすくめる。
次いで、空気が消えた。
一撃目――正面。
重い衝撃が、胸を正確に打ち抜く。
無駄がない。殺しに来ていない。
ただ、動きを止めるための一打。
身体が浮く。
二撃目――横。
風を裂く音と共に、槍の柄が肋を叩いた。
ジーナ。
力は抑えられている。それでも、怪物じみた膂力が容赦なく骨を揺らす。
「ぐっっ!」
三撃目――背後。
剣が、振るわれた。
イヴァンの一閃は、
反撃の起点になり得る筋肉と関節だけを、正確に潰す。
「があっっ!?」
誰も、畳みかけない。
誰も、焦らない。
まるで最初から決められていた順番を、
淡々となぞっているだけ。
最後に――何もないはずの位置から衝撃が襲いかかる。
視界が弾ける。
フェイルーンの一撃。
存在を消したまま、
間合いに入り、
逃げ道を完全に潰した、締めの一打。
「あああああああっ!!」
衝撃が、重なった。
抗う間もなく、身体は宙へと放り出される。
視界が大きく揺れ、天地が反転する。
迫る床が滲み、焦点が合わない。
次の瞬間、顔面を打ち抜くような衝撃。
鈍い音と共に、仮面に亀裂が走った。
細く、しかし確かなひびが、中心から広がっていく。
ぱき、と乾いた音。
続く一撃で、仮面は耐えきれず砕け散った。
白い破片が宙を舞い、床に落ち、静かに転がる。
――沈黙。
玉座の上で、聖女が身を乗り出す。
まるで――
ずっとこの瞬間を待ち続けていたかのように。
「……あ」
小さく、息を零し。
「うん。やっぱり、そうなるよね」
その声には、驚きも迷いもなかった。
ただ、結果を確認しただけの響き。
「この局面――ここまで、全部見えてた」
微笑みは、変わらない。
砕け散った仮面の下。
ベルベットの素顔が、盤上にさらされる。
――王手。




