第98話:天の第5射、忘却の境界と残る傷
欠け落ちる鏡面
視界が、まるで古い写真が色褪せるように白んでいく。 5日目の朝、俺が最初に感じたのは、脳の奥を直接冷たい指で掻き回されるような不快感だった。
横で膝を突いている金髪の男を見る。……アレックス、だったか。 その隣で祈り続けている少女。……アルマ、だったはずだ。 名前は辛うじて思い出せる。だが、彼らと何を話し、どんな因縁があったのか、その熱量が、色彩が、急速に失われていく。
昨日まで必死に守ろうとしていた民の顔が、ただの肉の塊に見え始めた。 守るべき理由が、砂の城のように足元から崩れていく。 神は、俺たちが積み上げてきた歴史という名の土台を、丸ごと消去し始めたのだ。
意味を失う墓標
俺はふらつく足取りで、瓦礫の中に立つ一本の棒切れ……いや、墓標の前に立った。 そこには名前が刻まれているはずだった。 だが、文字は読めるのに、その人物が俺にとってどんな存在だったのかが分からない。 ただ、胸の奥が焼けるように痛い。その痛みだけが、かつてそこに大切な何かが存在したことを証明していた。
蓮様……? 貴方は、どなた、ですか……?
背後から声をかけてきたのは、ボロボロの鎧を纏った女騎士だった。 ユリア。その名前を思い出すのに、数秒の時間を要した。 彼女の瞳には、俺という存在の輪郭が、もう映っていない。 俺が彼女を奴隷から救い、共にこの街を作った記憶は、神の消しゴムによって消し去られたのだ。
一の王、一の虚無
ふざけるな。勝手に人の頭の中を掃除してんじゃねえ。
俺は、鈍く拍動を続ける漆黒の右腕を、自分の額に押し当てた。 脳内に直接、虚無を流し込む。 思い出せないなら、その空白ごと自分の魂に刻みつけてやる。
良くなれ。 対象は、俺の記憶。そして、この国に刻まれた全ての絆。 定義するのは、忘却への抵抗ではなく、失われた情報の虚空への転写。
世界が忘れても、俺の右腕(この穴)が覚えている。 俺が殺した奴らの恨みも、俺を信じて死んだ奴らの願いも、全部まとめて俺の地獄に放り込んでやる。
俺は一人で立ち上がった。 周りの連中が、俺が誰かも分からず恐怖の視線を向けてくる。 それでいい。 たとえ、世界中の人間が俺を忘れ、俺が全ての愛着を失ったとしても、この痛みだけは消させない。
一人の王。 一つの国。 一人の虚無。
万の言葉も、千の誓いも、もう必要ない。 俺が俺である理由が、たとえこの右腕に宿るどす黒い憎しみ一つになったとしても、俺はこの絶望を完遂してやる。
5日目が終わる頃、アヴァロンは生ける屍たちの巣窟と化していた。 人々は隣にいるのが誰かも分からず、ただ孤独な死を待っている。 そして、最後となる6日目が訪れる。
天から、全てを物理的に無に帰す、神の指が降りてくる。




