第96話:天の第3射、重力の枷と砕ける骨
鉛の空気
夜明けと共に、生き残った人々は異変に気づきました。 呼吸が苦しい。肺が、まるで鉄の塊を吸い込んでいるかのように重い。 空気が粘り気を持ち、目に見えない巨大な錘が全身にのしかかってくる感覚。
神がこの領域の重力定数を操作したのです。 昨日までの1Gは、数分後には5G、10Gへと跳逸的に増大していきました。
カイル! 重力制御装置はどうした! カイルは答えることができませんでした。 彼は床に這いつくばり、自分の腕を持ち上げることすらできずに歯を食いしばっていました。 司令室の精密機器は、自重に耐えかねて火花を散らし、次々と潰れていきます。
砕け散る日常
地獄は、アヴァロンの深層区で始まりました。 簡易シェルターに避難していた人々が、悲鳴を上げる間もなく地面に沈み込んでいきます。 メキメキ、と嫌な音が響きました。 人間の骨格が、増大し続ける重力に耐えきれず、自らの肉を突き破って砕ける音です。
リサ、伏せていろ! 動くな! ユリアが叫びますが、彼女自身も膝を突き、床に亀裂が入っていました。 かつてアヴァロンの民が誇った強固な鉄鋼の街は、今や彼らを押し潰すための巨大なプレス機へと変わり果てていました。
アレックスの神都アレキサンドリアも、その巨大さゆえに最大の犠牲を払いました。 天を衝く高層ビルが、自らの質量を支えきれずに根本から折れ、避難していた数千の人々を飲み込みながら崩落していきます。 巨神の腕が脱落し、大地を叩き割るたびに、震動が生き残りの命をさらに削り取っていきました。
虚無の抗い
このままでは、今日だけで全滅する。 蓮はアヴァロン・ギアの残骸を支柱にし、唯一、直立していました。 漆黒の義手からは火花が散り、足元の地面は数十メートルも陥没しています。
神様。お前の決めたルールなんて、僕には関係ない。
蓮がゆっくりと、重圧を撥ね退けて右腕を掲げました。 ここからが、彼が覚悟を決めた瞬間でした。 彼は仲間たちと、潰れゆく民の前に立ち、冷徹に言い放ちました。
三千世界の重圧だろうが、知ったことか。僕が守るのは、今ここにある一個の希望だけだ。
蓮は右腕の虚無を全開放しました。 良く、なれ。 彼が書き換えたのは、自分と周囲数メートルの空間における重力の消去。
一歩も引くつもりはない。この一撃で、不自由な鎖を断ち切ってやる。
蓮が義手を地面に叩きつけた瞬間、衝撃波が重力の枷を一時的に押し返しました。 しかし、神の力は無限です。 蓮が空間を固定しても、その外側では容赦なく世界が潰れ続けています。
3日目が終わる頃、アヴァロンの街並みは平らな瓦礫の原へと姿を変えていました。 生き残った人々も、内臓を損傷し、もはや立ち上がる力も残っていません。 犠牲者は、全人口の七割に達しようとしていました。




