第72話:甘い毒と、見えない侵食
勝利の美酒、その違和感
ヴォルグの軍勢を退け、数万人の避難民――洗脳が解けたガレリア帝国の兵士や市民たち――をアヴァロンに受け入れてから数日が経過した。
街は、勝利の祝賀ムードに包まれていた。
だが、スラムの片隅で、獣人のリサだけが鼻をひくつかせ、落ち着きなく歩き回っていた。
「……臭い。おかしいわ」
「どうしたの、リサ? 敵の襲撃?」
フィーネが尋ねるが、リサは首を横に振った。
「ううん。殺気じゃないの。甘ったるくて、腐った果実みたいな匂い……。街中に充満してる」
リサの勘は正しかった。
表向きは平和なアヴァロンの内部で、致命的な亀裂が入り始めていたのだ。
弛緩する規律
「おい、新入りの女たちはどこだ?」
「あっちの酒場だよ。すげえ美人揃いで、しかも積極的なんだぜ」
兵舎の休憩室。本来なら次の任務に備えて整備を行うべき時間帯に、兵士たちがだらけた顔で談笑していた。
彼らの話題は、戦いの反省でも国の未来でもなく、避難民の中に混じっていた「美しい女たち」のことばかりだった。
「なあ、今日の警備、サボらねえか? あの娘が『寂しいから傍にいて』って言うんだよ」
「いいねえ。どうせヴォルグも倒したし、平和だろ?」
かつて蓮が植え付けたはずの「鉄の規律」が、水に溶ける砂糖のように崩れ去っていた。
異変は、兵士だけではない。物流を管理する商人も、工場の技師も、誰も彼もが仕事の手を止め、虚ろな目で快楽を貪り始めていた。
司令室の異変
「蓮様……報告……いたします」
司令室に入ってきたパラガスの様子がおかしいことに、蓮はすぐに気づいた。
いつもなら冷徹に戦況を分析する老参謀が、脂汗をかき、荒い息を吐いている。その目は充血し、焦点が定まっていない。
「どうした、パラガス。顔色が悪いぞ」
「はっ……いえ、なんでも……。それより、あの……避難民の代表の女性が、蓮様に謁見を求めておりまして……」
パラガスは、言葉を濁しながら、しきりに背後を気にしている。
「代表?」
「はい。エリザ殿という……非常に、魅力的な方で……うっ」
パラガスが胸を押さえて膝をつく。彼は必死に理性と戦っていた。彼の精神に、強力な「依存」の楔が打ち込まれているのだ。
「……なるほど。そういうことか」
蓮は、パラガスの肩に手を置いた。
「良く、なれ」
蓮の魔力が、パラガスの脳内に巣食っていたピンク色の霧のような概念を握り潰す。
「ハッ!? ……わ、私は一体……?」
正気に戻ったパラガスが、青ざめて震え出した。
「も、申し訳ありません! 私は敵の手先を、この重要区画まで手引きしようと……!」
「自分を責めるな。これは精神攻撃だ」
蓮は、開かれたままの扉へと視線を向けた。
「入ってこいよ。甘い匂いをプンプンさせたネズミさん」
愛を乞う教団
「あら、バレちゃいました?」
鈴を転がすような甘い声と共に、一人の女性が司令室に入ってきた。
エリザと名乗ったその女は、避難民のようなボロボロの服を着ていたが、その隙間から覗く肌は白磁のように美しく、妖艶な香りを放っていた。
彼女の背後には、同じように虚ろな目をしたアヴァロンの近衛兵たちが、彼女を守るように立っていた。
「初めまして、アヴァロンの王様。私は『聖愛教団』の巫女、エリザと申します」
エリザがウィンクをすると、空間にピンク色の波紋が広がる。
第三の大罪『色欲』。
その権能は、生物が持つ「愛されたい」「快楽を得たい」という本能を暴走させ、理性を溶かして支配する精神汚染だ。
「貴方の国、素敵ですね。でも、少し堅苦しいわ。もっとみんなで愛し合えば、争いなんてなくなるのに」
エリザが蓮に歩み寄る。
「ねえ、王様。貴方も疲れているでしょう? 全てを忘れて、私と『愛』を深めましょうよ……」
彼女の瞳を見た瞬間、普通の男なら即座に奴隷になっていただろう。
だが、蓮の背後から、凍てつくような殺気が放たれた。
嫉妬と断罪
「……その汚い手を、蓮様に近づけるな」
セラフィナが抜剣し、ユリアが槍を構える。
「あら、怖い。でも、貴女たちも本当は分かってるんでしょう? 蓮様を独占したいって。その嫉妬心も、私の『色欲』の糧になるのよ」
エリザが笑うと、セラフィナとユリアの動きが一瞬鈍った。彼女たちの蓮への深い愛情が、逆に敵の術中に利用されかけたのだ。
「無駄だ」
蓮が、エリザの目の前に立ちはだかった。
「愛? 笑わせるな」
蓮の漆黒の義手が、エリザの美しい顔を鷲掴みにする。
「ぐっ……!?」
「お前が撒いているのは愛じゃない。脳内麻薬による依存と洗脳だ。ただの薬漬けを、愛と呼ぶな」
蓮は、エリザの容姿に微塵も心を動かされていなかった。
彼にとって、ユリアたちとの絆以外の「安っぽい誘惑」など、道端の石ころ以下の価値しかなかった。
「お前たちの親玉はどこだ? その腐った香水の匂いの元を教えろ」
蓮が義手に力を込めると、エリザの『美貌』という概念が崩れ始めた。
幻覚が解け、彼女の正体――皮膚がただれ、全身から粘液を垂れ流す醜悪な魔物の姿が露わになる。
「ひぃっ! い、言います! 言いますから顔だけはぁぁ!」
「手遅れだ。僕の国を汚した罪は重い」
蓮は容赦なく、その醜い正体を国民全員に見せつけるために、彼女を窓の外へと放り投げた。
「見ろ、国民たちよ! これがお前たちが夢中になっていた『美しさ』の正体だ!」
蓮の一喝と、露見した怪物の姿によって、アヴァロンを覆っていた桃色の霧が一気に晴れていく。
だが、これは前哨戦に過ぎなかった。




