第56話:砕ける器と、深淵の代償
1. 次元を裂く爪
教会の地下工場は、異様な静寂に包まれていた。
教皇グレゴリオは、信仰の対象であった天使を喰らわれ、腰を抜かしたままガタガタと震えている。
蓮は、その哀れな姿を一瞥もしなかった。彼の意識は、右腕に渦巻く膨大なエネルギーと、その先にある目的だけに集中していた。
「開くぞ……ユリアのいる場所へ」
蓮は、漆黒の義手『虚空の右腕』を空間の何もない場所へと突き立てた。
天使から奪った「次元干渉」の権能と、義手が持つ「圧縮」の概念を同時に発動する。
ギギギギギ……ッ!!
空気がガラスのように悲鳴を上げた。
何もない空間に、黒い亀裂が走る。その裂け目の向こう側からは、この世のものとは思えない冷気と、時間の流れない「無」の気配が漏れ出していた。
「開いた……。これが、奈落への入り口……」
蓮は、裂け目をこじ開け、人が通れるほどの穴を作ろうと力を込めた。
あと少し。あと数歩踏み出せば、世界の裏側へ行ける。
そう思った、その瞬間だった。
2. 拒絶反応
ドクンッ!!
蓮の心臓が、破裂しそうなほど強く跳ねた。
「がっ……!?」
視界が明滅し、平衡感覚が一瞬で消え失せる。
右腕が、熱い。
焼けるように熱いのではない。魂ごと溶かされるような、絶対的な捕食者の熱だ。
(なんだ……? 腕が、暴れている……?)
蓮は自身の右腕を見た。
漆黒の義手の中で、先ほど喰らった天使の「純白の魔力」と、義手本来の「漆黒の呪い」が、猛烈な勢いで反発し合っていた。
神の秩序と、廃棄物の混沌。
本来、混ざり合うはずのない二つの巨大な概念が、蓮という「Eランクの脆弱な器」の中で戦争を始めてしまったのだ。
「ぐ、ぅぁあああああっ!!」
蓮は裂け目から手を離し、自身の右腕を押さえてうずくまった。
血管がどす黒く浮き上がり、皮膚が裂けて血が噴き出す。
(馬鹿な……。ここで……ユリアが待っているのに……!)
蓮の『強化された知性』が、冷徹に警告音を鳴らす。
『警告。魔力許容量を超過。精神崩壊まで、あと数秒』
Eランクの肉体では、神殺しの兵器と神の尖兵、その両方を御することなど不可能だったのだ。
3. 意識の断絶
「カハッ……」
蓮の口から、大量の血が吐き出された。それは赤ではなく、泥のような黒い液体だった。
膝から崩れ落ちる。
地面が顔に迫る。
(立たなきゃ……。行かなきゃ……)
意思とは裏腹に、指一本動かせない。
右腕の重さが、まるで山脈を背負っているかのように全身を押し潰していく。
視界の端で、教皇が狂ったように笑い出したのが見えた。
「は、ははは! 見ろ! 罰が当たったのだ! 人間ごときが神の力を欲するから!」
教皇の声が遠のいていく。
蓮の視界が暗転する直前、背後の扉が吹き飛び、馴染みのある声が聞こえた気がした。
「蓮様!!」
それはリサの声か、フィーネの声か。
蓮は、伸ばそうとした左手を力なく地面に落とし、深い闇の中へと沈んでいった。
4. 崩壊する英雄
「蓮様! しっかりしてください!」
駆け込んできたフィーネが、倒れた蓮の身体を抱き起こした。
彼女の顔色は、瞬時に青ざめた。
「熱い……! 魂が、焼けています!」
蓮の体温は異常なほど上昇し、右腕からはバチバチと黒い稲妻のような魔力が漏れ出し、周囲の床を溶かしている。
「なんてデタラメな魔力だ……。これじゃあ、身体が持たないぞ!」
追いついたパラガスが、蓮の状態を見て絶句した。
セラフィナが剣を抜き、笑っている教皇に切っ先を向けた。
「貴様……蓮様に何を!」
「何もしておらんよ! 自滅だ! 欲に溺れた愚か者の末路だ!」
教皇は哄笑するが、その目は恐怖で見開かれていた。蓮の右腕から放たれる波動が、教皇の命すら削り取ろうとしていたからだ。
「リサ、セラフィナ! 蓮様をここから運び出します!」
フィーネが叫ぶ。
「このままでは、蓮様ご自身が『崩壊』してしまいます! 早く、『安寧の概念』を最大出力でかけ続けなければ!」
リサが蓮を背負おうとするが、その身体は鉛のように重かった。
目の前には、蓮が命がけでこじ開けた「奈落への裂け目」が、不気味に口を開けている。
しかし、リーダーである蓮が倒れた今、そこへ飛び込むことは自殺行為に等しい。
「一度、退きます! 地下のアジトへ!」
セラフィナの判断で、彼らは蓮を抱えて撤退を開始した。




