第38話:蝕まれる魂と、泥濘の反撃
1. 静寂なる虐殺
リサによって結界が砕かれた後も、野営地には気味の悪い静寂が漂っていた。
剣崎恭吾は、椅子に深く腰掛け、足元に転がる蓮を見下ろしながら、退屈そうにワインを煽っていた。
「おい、Eランク。そろそろ啼けよ。右腕がない痛みで、精神が焼き切れるのが先か、俺が飽きて首を刎ねるのが先か……賭けようぜ」
蓮は、返事をする気力すら削がれていた。
右肩の断面から、存在しないはずの指先が痙攣するような幻肢痛が襲い続けている。それは、概念管理者によって「存在ごと」削り取られた傷跡だ。治癒魔法で肉は塞がっても、魂に空いた穴は塞がらない。
(ユリア……。寒いな……)
蓮の意識は、泥の中で混濁していた。視界の端に見える荒野の砂が、ユリアが閉じ込められたガラスの檻に見える。
その時だった。
野営地の見張りに立っていた部下の一人が、何の前触れもなく、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
「あ?」
剣崎が怪訝な声を上げるのと同時、ドサリ、ドサリと、周囲の部下たちが次々と泥に沈んでいく。悲鳴はない。ただ、喉を裂かれる湿った音と、血が噴き出す音だけが、不気味に響いた。
暗闇から姿を現したのは、かつての聖騎士のような凛々しさを失い、返り血で顔を濡らしたセラフィナだった。その瞳には、光がない。あるのは、深く沈殿した殺意だけだった。
「……下衆ども。死をもって、その穢れを償いなさい」
2. 泥まみれの再会
「なっ、何だてめえら!どこから入ってきやがった!」
剣崎が椅子を蹴り飛ばして立ち上がる。
その隙に、影から飛び出したリサが、蓮の元へと滑り込んだ。
「蓮様……っ」
リサの声は震えていた。近くで見る蓮の姿は、あまりにも惨めだった。服は剥ぎ取られ、全身は痣と切り傷で埋まり、何より、右袖が虚しく風に揺れている。
「リサ……か」
蓮は、焦点の合わない目でリサを見た。生気のない、死人のような瞳だった。
「すぐに、ここから……!」
リサが拘束を解こうとした瞬間、剣崎の剣閃が二人を襲った。
「させるかよ!俺の獲物だ!」
リサは咄嗟に蓮を抱えて転がったが、その動きは鈍かった。彼女もまた、この数日間の逃亡と絶望で消耗しきっていたのだ。
3. 自傷と概念の再構築
泥水の中に放り出された蓮は、激痛に咳き込んだ。口から吐き出された血が、拘束された左手のワイヤーにかかる。
剣崎がリサを追い詰め、セラフィナが部下たちの相手で手一杯になっている。
誰も、蓮を助けられない。
(ああ……そうだ。僕にはもう、助けを呼ぶ右腕すらないんだった)
蓮は、自分自身を嘲笑った。そして、その昏い感情を、左手を縛り付けるワイヤーへと流し込んだ。
彼は、自分の手首の皮膚が裂けるのも構わず、ワイヤーに左手の指を食い込ませた。
(このワイヤーは『ゴミ』だ。僕を縛る、ただの鉄屑だ)
蓮の能力が発動する。しかし、それはかつてのような希望に満ちた光ではない。どす黒く、粘着質な魔力だった。
「……良く、なれ」
蓮は、ワイヤーの『拘束の概念』を、『切断の概念』へと書き換えた。
ギチリ、と嫌な音が鳴る。
強化されたワイヤーは、蓮の手首を拘束する代わりに、カミソリのような鋭利な刃物へと変質した。
「ぐっ……ぁぁぁ!」
蓮は、自らの手首の肉を刃と化したワイヤーで抉りながら、無理やり左手を引き抜いた。血が噴水のように舞い、泥を赤く染める。
痛みで意識が飛びそうになるのを、ユリアへの悔恨だけで繋ぎ止める。
4. 復讐者の眼差し
自由になった左手は、血まみれで震えていた。
蓮は、ふらつく足取りで泥の中から立ち上がった。右腕がないため、バランスが取れず、無様によろめく。
しかし、その姿を見た剣崎の動きが止まった。
「あぁ……?てめえ、その手……」
蓮は、足元に落ちていた、折れた剣の破片――ただの『ゴミ』を、血濡れた左手で拾い上げた。
「剣崎……」
蓮の声は、地獄の底から響くような怨嗟に満ちていた。
「僕から奪ったものの重さを……その身に刻んでやる」
折れた剣の破片が、蓮のどす黒い魔力を吸って脈動を始める。それは英雄の聖剣などではない。呪いと怨念をまき散らす、復讐者の凶器だった。
救出は成功した。だが、そこに歓喜はない。
あるのは、血と泥と、癒えることのない喪失感を背負った、陰惨な殺し合いの始まりだけだった。




