第183話:理の衝突、あるいは神の敗北
1. 蹂躙なき降臨
ミディアム北域の空が劇的な音楽を伴って黄金色に染まる。雲が割れ、そこから少女の姿をしたファンタズムと、美しき蒐集家ヴェスペラが数千の天使兵を従えて姿を現した。
かつてなら、この光景だけで住人たちは恐怖に震え、地に平伏して救いを乞うたであろう。神々はその「絶望」から立ち昇る芳醇な香りを期待し、深く息を吸い込んだ。
だが、返ってきたのは無機質な静寂であった。
「……え、何これ。全然おいしくない。むしろ、鼻が詰まりそうなほど無なんだけど!」
ファンタズムが顔を引きつらせて叫ぶ。眼下に広がる街では、住人たちがパニックに陥るどころか、蓮とガルの合図に従い、淡々と避難計画を遂行していた。祈る者も、泣き叫ぶ者もいない。ただ、自分たちが作り上げた石造りの堅牢な建物へと、秩序正しく収容されていくのみであった。
2. 奇跡の無力化
ヴェスペラが不快そうに指先を向け、街の中心にある貯水池を指差した。
「不遜な不純物たち。その傲慢な自立を、神の雷で焼き払ってあげるわ」
彼女が放った巨大な黄金の雷光が空を裂いて街へと降り注ぐ。それは山をも砕く神の権能であった。しかし、雷光が街の結界……ならぬ、蓮が設計し住人たちが積み上げた「排魔の避雷針」に触れた瞬間、その膨大なエネルギーは物理的な地面へと受け流され、街を傷つけることなく霧散した。
「……ば、馬鹿な!? 私の奇跡が、ただの石の棒に吸い込まれたというの!?」
「ヴェスペラ殿、それは奇跡ではありません。ただの、電導率を計算した物理現象です」
蓮の声が拡声器の原理を用いた音響装置を通じて街全体に響き渡った。
3. 知恵の要塞
蓮はユリア、そして土の隠者と共に広場の中央に堂々と立っていた。 神々がどれほど強力な魔力を放とうとも、この街の地下には隠者が指し示した「神の法を遮断する古き大地の脈」が流れている。さらに、住人たちが何年もかけて運び込んだ石材には、アルマが調合した「魔力吸着剤」が塗り込まれていた。
「お前たちがこの数年、俺たちを退屈だと見捨てていた間に、俺たちはこの場所を神の理が通用しない物理の檻に変えたんだ」
蓮が右腕を掲げる。そこには光り輝く魔力などない。ただ、周囲の光さえも吸い込むような、深淵なる空白が渦巻いていた。
「ファンタズム、ヴェスペラ。お前たちがここで酒を飲むことは二度とない。ここにあるのは、お前たちが最も忌み嫌う、泥と汗と……徹底した現実だけだ」
4. 救済の逆転
アルマは救護所で負傷した天使兵の一人を介抱していた。 空から墜落した神の兵士は、神の加護を失い、一人の無力な生命体として苦痛に喘いでいる。アルマは魔法を使わず、手際よく傷口を消毒し、布を巻く。
「……なぜだ。なぜ、不純物が我らを助ける」
「不純物ではありません。私たちは、ただの医者と患者です。神様の奇跡がなくても、私たちはこうして生きていけるのですよ」
アルマの静かな言葉は、神への絶対的な忠誠を誓っていた兵士の心に、回復という名の疑念を植え付けていた。神が与える使い捨ての加護よりも、人間が与える手間をかけた手当ての方が、今の彼には温かかった。
5. 終局の予兆
ファンタズムは狂ったように笑い出し、自らの髪をかきむしった。
「あはは! 面白い、面白いよ蓮くん! でもね、神様が本気でこの世界を消去しようと思えば、物理なんて関係ないんだから!」
彼女が禁忌の術式を紡ごうとしたその時、背後の空が再び裂けた。 ボロボロになりながらも数千の守護騎士を道連れにして戻ってきた傲慢が、漆黒の炎を纏って神域の縁に手をかけていた。
「……待たせたな、蓮。囮の役目はもう飽きた。……さあ、この無能な神どもを、貴様の虚無で完食してやれ」




