第160話:ヴェスペラの蒐集、あるいは主権なき玉座
1. 八日目の剥離:奪われた意志の色彩
七日目の黄金の戒律が溶け落ちた後、八日目の夜明けと共に世界から色彩と共にある概念が剥奪された。苦悶の蒐集者ヴェスペラが指先で地上を撫でた結果、失われたのは「個々の自由意志」という概念だった。
空も大地も褪せたセピア色に変貌し、人々の瞳からは生気が消え失せる。しかし、記憶は失われていない。民たちは自分が誰であるか、誰を愛しているかをはっきりと覚えている。ただ、自分の意思で手足を動かし、言葉を発するという概念そのものが世界から消滅してしまったのだ。
2. 王という名の呪縛
この絶望的な状況下で、神崎蓮は「王」という自身の立場に、かつてない凄惨な形で縛り付けられることとなった。
自由意志を失った民たちは、唯一「王」として定義されている蓮の意識に、強制的に同期させられてしまったのだ。蓮が「喉が渇いた」と微かに思えば、周囲の民たちが一斉に自分の飲み水を差し出し、彼らが渇きで倒れるまでそれを止められない。蓮が「寒い」と感じれば、民たちは自分の服を脱いで蓮に着せ、自らは凍え果てる。
「……やめろ、頼むから俺のために動かないでくれ!」
蓮が叫ぶが、その言葉さえも「命令」として処理される。彼が拒絶すればするほど、民たちは「王の拒絶に応える」ために、自らの存在を消し去ろうと自傷を始めてしまう。英雄として民を守ろうとしてきた蓮にとって、自分の些細な感情の揺れが、愛する人々を物理的に破壊する凶器へと変わるこの状況は、死よりも辛い拷問であった。
3. 神々の円卓:独裁者の誕生を祝して
大天の円卓では、四神がこの歪な王国の完成を、至高の喜劇として見下ろしていた。
ヴェスペラ:「見てくださいな。これこそが私の望んだ、完璧な蒐集。彼らの意志はすべて私の手元にあります。残されたのは、王という太陽の周りを回るだけの無力な惑星たち。彼が優しければ優しいほど、民は尽くし、そして壊れていく。美しいと思いませんか?」
ゼテス:「王という立場を、これほどまでに残酷な足枷に変えるとは。彼は今や、望まぬ独裁者だ。自分の意志で誰一人救えず、ただ民を使い潰すだけの虚しい玉座に座らされている」
ファンタズムは、蓮が自分の思考を必死に殺そうとして、白目をむきながら震える様子を見て、腹を抱えて笑い転げていた。
4. 透明化する存在:王権への拒絶
蓮の身体は、白銀を通り越し、周囲のセピア色の景色が透けて見えるほどに透明化していた。これは記憶の忘却ではなく、彼が「王として民を支配する自分」という概念を、右腕の虚無で否定し続けている代償だった。
「俺が、俺でなければ……。王なんていう立場が、最初からなければ……!」
蓮は自分自身の「王権」を虚無で削り取り、民たちを強制的な同期から解放しようと試みる。だが、彼が自分を削れば削るほど、世界の基礎である「王」を失おうとする世界そのものが悲鳴を上げ、開拓地の地面が裂け、空が崩れ始めた。
ユリアは、自分の意志を奪われながらも、魂の最深部で蓮を見つめていた。彼女の身体もまた、蓮の「傍にいたい」という微かな願いに反応し、操り人形のように彼の隣に侍ることを強要されている。彼女が流す涙さえも、蓮の悲しみに同調しただけの不本意な生理現象。そのことが、蓮の心をさらに深く抉った。
5. 九日目の宣告:ロゴスの秤
背後でその光景を観測していた傲慢は、かつてない屈辱に震えていた。
「神崎蓮……。貴様、こんな形で『支配』を押し付けられ、膝をつくのか。意志なき民を従えて、何が王だ。そんな玉座、私がこの手で焼き払ってやる!」
傲慢は変質させた「嫉妬」の力で、蓮と民を繋ぐ「支配の糸」を無理やり自分へと引き寄せ、蓮の負担を肩代わりしようと試みる。だが、その傲慢な献身さえも、九日目の厄災の前では微々たる抗いに過ぎなかった。




